歴史小説家 三浦伸昭の歴史ぱびりよん

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歴史論説集

概説 トルコ史

第二章 オスマン帝国の勃興


5.オスマン家の登場

6.遊牧民は幸福か?

7.万民平等を目指して

8.アンカラの戦い

9.兄弟殺し

10.コンスタンティノープルの陥落


 

5.オスマン家の登場

 ところで、「ルーム・セルジューク朝」のルームとは、ローマ、すなわちヨーロッパのことです。この国の領土が置かれた小アジアは、当時のイスラム勢力の感覚ではローマ、すなわちヨーロッパの一部だったのです。

 さて、ルーム・セルジューク朝は、西方のビザンツ帝国との最前線に、中央アジアから誘致したトルコ系部族集団を配置しました。そして、彼らに「領土切り取り自由」の権利を与えて(ティマール制)、ヨーロッパへの侵略に向けて士気を鼓舞しました。

 こうして小アジア西部に配置された小さな部族のリーダーの中に、オスマンという人物がいました。この族長の名前を冠した帝国が、やがて人類と世界史の運命に極めて大きな影響を及ぼすことになります。

 今日のブルサ市周辺に小さな領土を得たオスマン族長は、最初のうちは、八方美人よろしくビザンツ帝国ともルーム・セルジューク朝とも仲良くやっていたようです。しかし、おそらくは水場争いからビザンツと対立するようになり、ついに軍事行動を起こします。オスマン家は、当主のみならずその親戚や子供たちも非常に優秀でした。戦場で連勝を続ける彼らは、領土をどんどん拡大します。

 この当時の小アジアは、ビザンツ帝国のみならず、ティマール制で封建されたトルコ系諸部族が群雄割拠して戦国乱世の様相を呈していました。軟弱化したルーム・セルジューク朝が、次第に彼らを統御することが難しくなったため、こうした前線のトルコ部族同士が相争うことも珍しくありませんでした。しかしオスマン家は、あくまでも「ガージー(信仰守護戦士)」としての立場を崩すことなく、私利私欲に走ることなく、「イスラムの聖戦」という大義名分を貫徹しようとしました。そのため、彼らの敵対相手は、基本的に西方ヨーロッパのキリスト教勢力でした。この首尾一貫した姿勢が、多くのトルコ系部族の信望を集め、小アジアの民衆の心を掴む上で有利に作用したのです。

 国家の成長においては、軍事力よりも経済力よりも、むしろこういった「ポリシー」が重要な意味を持つのでした。

 やがて、小アジア西部を統一したオスマン家は、さらに西を目指します。しかし、そこに広がるのはエーゲ海とダーダネルス海峡でした。遊牧騎馬民族は水上戦が苦手ですから、普通の勢力ならここで諦めて、鋭鋒を東に転ずるところでしょう。私利私欲に走り、イスラムの同胞を襲ったことでしょう。

 しかし、オスマン家は頑固一徹に西を目指すのです。彼らの中には、次第に「ローマ帝国の理想を自分たちで復興させる」という壮大な野心が芽生え始めていました。だから、執拗に西方のビザンツ帝国(東ローマ帝国)の領土を狙ったのです。

 イスラム教徒による「ローマ帝国復興」というと、違和感を覚える人が多いかもしれません。なぜなら、一般的な日本人は、ローマ帝国をヨーロッパ・キリスト教世界の概念で捉えているからです。しかし、実際のローマ帝国は、特定の宗教や民族に束縛されることのない、非常にコスモポリタンな広い心を持つ国家でした。なにしろ、アフリカ出身の黒人がローマ皇帝になることさえあったのです。そんなローマ帝国が、キリスト教を国教とする狭い心のヨーロッパ人国家に変貌してしまったのは、滅亡するまでのほんの数世紀間だけです。塩野七生さんは、ローマ帝国滅亡の重要な原因に「キリスト教化」を挙げていますが、実際にそうだったかもしれません。

 そのように考えるなら、イスラム教を中心軸としつつも「万人平等のコスモポリタンな国家」を樹立しようというオスマン朝のポリシーは、ローマ帝国最盛期の理想を最も正しく継承していたと言えるのです。

 天災という名の幸運が、そんな彼らに味方します。ビザンツ帝国の軍事系統が大地震で混乱状態に陥り、その海軍が機能停止したチャンスに、オスマン家の二代目オルハンに率いられた軍勢がダーダネルス海峡を北へ突破。一気にヨーロッパのトラキア地方を攻略します。そこから東に向かえば、敵の首都コンスタンティノープル(今日のイスタンブール)です。しかし、オスマン軍は要害堅固な首都を避けて、その鋭鋒を北方のバルカン半島に向けるのです。防御が手薄だったアルバニア、セルビアは次々にオスマンに呑み込まれてしまいました。

 焦った西ヨーロッパ諸国は、またもや「十字軍」を繰り出してバルカン半島のオスマン軍を攻撃したのですが、オスマン家の三代目ムラト1世によってことごとく撃退されました。強固に中央集権された精強なトルコ軍は、雑多な封建諸侯の寄せ集めにしか過ぎないこの当時のヨーロッパ軍など、物ともしない強さを誇っていたのです。

 こうしてオスマン家の領土は、小アジアの西部からバルカン半島の南部という具合に、アジアとヨーロッパに跨るユニークな形となりました。

 今日のトルコ共和国の個性の原型は、すでにこの時に形成されたのです。

 

6.遊牧民は幸福か?

 オスマン家の賢さは、領土拡大に並行して組織づくりに励んだ点です。

 当主がどんなに有能でも、広大な領土を一人で統治することは出来ません。そこで、官僚制度や財政制度や軍事制度の充実が必須となるのですが、オスマン家はこれを見事にやったのです。

 大宰相を中心とする宮廷制度を設け、後宮には宦官を配置し、十分の一税などの税制を充実させ、独自の通貨を発行し、また配下の騎士たち(シパーヒー)には、彼らが占領した領土をそのまま与えて士気を鼓舞しました。

 この過程で、もはやオスマン家の人々は遊牧民では無くなっていきます。すなわち、都市に定住する貴族になっていきます。

 ところで最近、日本の歴史学会から、「遊牧民から見た世界史」などといった本が良く出ています。その内容の骨子は、

 「我々の知っている歴史は、文字文化が発達した農耕民によって書かれているので、我々はそれが標準だと思い込んでいる。しかしながら、文字のない遊牧民にだって立派な文化があり、彼らは誇りを持ってその文化を守っている。もしかすると、遊牧民の方が我々農耕民よりも幸福度が高い、優れた民族かもしれないぞ!」

 と、いうものです。

 でも、本当にそうでしょうか?

 人類の歴史を俯瞰的に見ると、遊牧民が農耕民の土地を侵略し、それに成功すると定住して農耕を始めることの繰り返しです。今の中国人やフランス人やドイツ人だって、その先祖は遊牧民ないし狩猟民でした。彼らは、先住農耕民であった漢民族やケルト人やローマ人の領土を侵略して居座り、そこに定住したのです。

 つまり、遊牧民とは、慢性的に定住生活をしたがっている人々なのです。遊牧生活だって、好きでやっているわけではなくて、自分たちの土地があまりにも貧しくて、他に生計を立てる手段がないからそうしているだけです。

 考えてみたら当たり前ですが、遊牧民にはトイレもシャワーも有りません。食糧だって、農耕民と接触できない時期は、肉か乳製品か野草、川魚しか食べられません。それどころか、慢性的に天候不順やライバル部族の襲撃に脅かされているのだから、その貧しい生活でさえ極めて不安定なのです。

 だから、彼らが定住生活に憧れて農耕民の土地を目指すのは、より良い生活に憧れる人間としての「本能」と呼んでも良いものです。その証拠に、現在のモンゴル国では、人口のほとんどが都市生活者になってしまい、家畜を砂漠に放り捨て、みんなでレアメタルの発掘に狂奔している始末です。

 すなわち、遊牧民が農耕民よりも優越しているという事実は有りません。遊牧民は、みんな「遊牧生活を辞めたがっている」のです。

 農耕文明の学者たちが、「遊牧民の優位性」などと言うのは、彼らにとって理解不能な異世界に向けたノスタルジーないしファンタジーに過ぎないと思います。作家ならともかく、学者はそんな無責任なことを言わない方が良いと思うのですが。

 

7.万民平等を目指して

 さて、オスマン家がビザンツ帝国の領土を次々に奪っていたころ(13世紀)、東方ではモンゴル帝国の襲来によってルーム・セルジューク朝が崩壊していました。

 チンギス・ハーンとその子孫に率いられたモンゴル帝国は、1314世紀の世界に巨大帝国を築きました。彼らモンゴル人は、トルコ人が西方に移動して空き家になった蒙古高原に入り込んで急激に強大化した勢力です。そんな彼らは「本能」に従って、農耕民や都市生活者の土地を次々に侵略して行きました。

 では、モンゴル人とトルコ人の違いは何かといえば、実は良く分からないのです。もともとは、同じ民族だった可能性もあります。とりあえず、イスラム教を信仰するのがトルコ人で、チベット仏教を信仰するのがモンゴル人といった区分けをするしかないようです。

 顔立ちの違いで判断するのは意味がありません。日本では、トルコ人といえば中東系の浅黒い肌を持つ黒髪で濃い鬚の顔立ちを連想する人が多いようですが、実際には、トルコには東洋人そっくりの人もいれば、白人そっくりな人も多いのです。それはトルコ人が、もともと遊牧民で、異民族と混血することに心理的抵抗が無い人々だったからです。

 これに加えて、イスラム教の「万民平等」の思想がありました。この宗教は、イスラムの信仰心を持つ全ての人が「神の前で完全に平等である」と説きます。この思想は、もともと平等志向の遊牧民であったトルコ人の気持ちと親和性がありました。そこで、オスマン朝は、この「万民平等」の理想を領土内で愚直に完全に実現させようとします。

 具体的には、占領地域の諸民族に自治を許し、従来通りの文化を維持させました。宗教についても、イスラム教に改宗したくないのなら税金を重くするといった形で、その存続を許容しました。こういった寛容さは、同時代ではなかなか類例を見ないものです。オスマン家の急速な勢力拡大は、こういった「優しさ」と無縁ではないでしょう。占領地域の民衆は、オスマン家による緩い統治をむしろ歓迎したのです。なにしろ、オスマンの支配下に入った方が、税金が安くなって暮らしやすくなる地域さえありました。

 今日、民族紛争が絶えない地帯としてすぐに思い浮かぶのが、イスラエル(パレスチナ)、シリア、イラク、チェチェン、ボスニア、そしてアフリカ北部ですね。これらが全て、最盛期のオスマン帝国の領土ないし影響地域内であったことに留意するべきです。これらの地域の人々は、オスマン時代の「万民平等」の優しい在り方を懐かしんで、それで差別的な現代社会に牙を剥くのではないでしょうか?

 そう考えるなら、オスマン帝国がもしも今日まで存続していたなら、世界は今よりもっと平和だったのかもしれません。

 

8.アンカラの戦い

 さて、話を元に戻しましょう。

 いよいよ、モンゴルとトルコの決戦が近づきました。

 14世紀のモンゴル帝国は、遊牧民特有のいつもの悪癖によって分裂状態にありましたが、中東地域はやがて、チンギス・ハーンの孫を名乗るティムールによって一時的に統一されます。このティムール帝国が、大軍とともに小アジアに侵入するのです。

 このころの小アジア東部は、カラマン君候国をはじめ、様々なトルコ系国家によって分割支配されていました。小アジアの最強国家であるはずのオスマン帝国は、いつも西ばかり見ていたので、この方面に対する備えはほとんどしておらず、その結果、小アジア東部のトルコ系諸国は次々にティムールに味方して行ったのです。

 オスマン朝の四代目・イルディリム(電光王)バヤジット1世は、ヨーロッパ方面に向けていた主力部隊を小アジアに戻し、そして自らが陣頭に立ってティムールに挑みました。決戦場は、今日のトルコ共和国の首都アンカラの近郊でした。

 これが、史上名高い「アンカラの戦い」(14027月)です。

 結果は、オスマン朝の完敗でした。バヤジットはティムールの捕虜となり、数ヵ月後に獄中で死にます。遺された息子たちは、互いに激しい後継者争いを始めました。

 ここでティムールが西進を続ければ、この時点でオスマン朝は滅びていたでしょう。しかし、モンゴル人の中東王はその領土欲を中国に対して抱いていたので、西を放置して東に引き返してしまったのです。

 それでも、後継者争いに揺れるオスマン朝の運命は風前の灯でした。この国家が奇跡的に命脈を保ったのには、いくつもの理由があります。

 まず、オスマン家が「ガージー(信仰守護戦士)」として、イスラム世界で確固たる名望を得ていたことです。前述のように、オスマン家は、常に「イスラムの聖戦」を旗印に掲げ、愚直なまでに西方キリスト教国に向けて軍を出していました。それが、エジプトに住むカリフ(イスラムの教祖)から何度も称賛される結果を生み、それゆえにオスマン家が無くなることに対しては、全てのイスラム教徒が心理的抵抗を持っていました。

 次に重要なのは、占領地域がほとんど離反しなかったことです。これは、オスマン家が築いた統治機構が極めて優秀だったことに加えて、その統治の仕方が極めて寛容で優しかったからです。それゆえに、占領されて間もない東ヨーロッパの諸地域でさえ、ビザンツ帝国やハンガリー王国などによる度重なる裏工作にもかかわらず、オスマン家への忠誠を誓ったのでした。

 こうしてオスマン帝国は、バヤジットの三男メフメット1世によって再統一され(1413年)、奇跡の復活を遂げます。それどころか、その勢力はさらなる拡大を遂げるのでした。

 

9.兄弟殺し

 さて、「アンカラの戦い」以降、オスマン帝国のお家芸となったのが「兄弟殺し」です。

 バヤジット1世がティムールの虜囚となって不慮の最期を遂げた後、彼の遺児たちはオスマン領全土を舞台に殺し合いをしました。最終勝者はメフメット1世ですが、その過程で、彼は全てのライバル(兄弟)を殺してしまいました。この事件以降、新たな君主(スルタン)が即位する際に、兄弟をみんな殺してしまうことが慣例となります。

 前述のとおり、遊牧民の文化には「長子相続」という概念が無いので、事前にしっかり後継者を決めておかないと、どうしても跡目を巡って殺し合いになります。特に、オスマン朝のような巨大国家になると、そこに利権が絡んできます。王子たちそれぞれに、取り巻きの軍人や官僚集団がくっついて権力への野望を燃やすから、「兄弟仲良くしようね」で解決するような生易しい問題では無くなるのです。だから、「最初に兄弟をみんな殺してしまう」のが最善の策になるわけ。

 野蛮といえば野蛮ですが、これは「強力な中央集権国家」を維持する上ではメリットでもあります。「一人の強靭な意志を持った独裁者と、専属の強固な幕僚集団」が、帝国全体を完全に自由に采配できるようになるからです。そこには、他の権力集団や利権団体(兄弟の取り巻き連中など)が嘴を挟んで足を引っ張る余地がありません。こうして、オスマン朝のパワーは、「兄弟殺し」によってむしろ活性化したのです。

 バヤジット死後の10年にも及ぶ内紛を見た周辺諸国は、「これでトルコも終わりだな」と、すっかり油断していました。しかしながら、復活を遂げたオスマン家は、兄弟殺しの試練を乗り越えたメフメット1世と、彼の精強な幕僚集団によって支えられた強大な中央集権国家だったのです。

 メフメット1世とその子ムラト2世は、立ち塞がる西のヨーロッパ勢力や東のトルコ系国家を次々に踏みつぶし、バルカン半島南部と小アジア中央部を征服してしまいました。

 このムラト2世の子が、ファーティヒ(征服王)・メフメット2世です。


10.コンスタンティノープルの陥落

  1453529日、ヨーロッパ・キリスト教世界を震撼させる大事件が起きました。

 ビザンツ帝国(東ローマ帝国)の滅亡です。

 ヨーロッパ諸国やロシアにとって、永遠の憧れは「ローマ帝国」です。これは今日のアメリカ合衆国も同じでして、この国の統治機構や世界戦略は、往年のローマ帝国のコピーと言い切ってしまって構わないものです。ローマ帝国は、とっくに滅亡してしまったというのに、今日に至るまでそれほどまでに影響力の強い国家なのです。

 そのローマ帝国が東西に分裂した後、西側(西ローマ帝国)は、ゲルマン系諸族との争闘の中で消滅しました。その中で、かろうじて命脈を保ったのがカトリック教会でして、これが今日のバチカン市国です。一方、東側(東ローマ帝国)は、ゲルマン族大移動の混乱の中でも強固な帝国としての実体を保ち、様々な構造改革を積極的に行うことで生き延びました。これが、いわゆるビザンツ帝国です。

 ゲルマン系の西側ヨーロッパ諸国は、ビザンツ帝国に対して「ローマ帝国の正統後継者」としての憧憬を抱いていました。また、それと矛盾するようですが、異教徒に対する敵対心も抱いていました。ビザンツ帝国は、キリスト教国家だったのですが、西側カトリックとは異なる宗派を国教としていました。「東方正教(ギリシャ正教)」です。そういうわけで、西側カトリック諸国は「異教徒」への協力にそれほど熱心ではなく、ビザンツ帝国は「十字軍」の発起などの例外を除けば、ほとんど単独でイスラム勢力やスラブ勢力や精強なトルコ人たちと戦っていたのです。

 すなわち、この当時のキリスト教勢力が、イスラム勢力によって常に押され気味だったのは、科学力や技術力が劣っていたのみならず、身内同士の宗派争いで足を引っ張り合っていたからなのです。

 そういうわけで、メフメット2世率いるオスマン帝国陸軍20万人と軍艦400隻の大軍が、ビザンツ帝国に残された最後の領土であった首都コンスタンティノープルを包囲したとき、救援に現れたのは、わずか数百人のヴェネチア軍とジェノヴァ軍だけでした。

 それどころか、オスマン帝国に味方するヨーロッパ人も現れました。たとえばオスマン軍は、当時の最新鋭兵器である大砲によって重武装していたのですが、オスマン軍に大砲の製造技術をもたらしたのはハンガリー人技師のウルバヌスでした。ただし彼のために弁護しますが、この時代は今日ほどには国家や民族の概念が強固ではなく、みんな今以上に国境を越えて自由闊達に生きていました。だから、オスマン帝国に味方するヨーロッパ人も、現代人が思うほどには不道徳とは看做されなかったでしょう。

 いずれにせよ圧倒的に絶望的な状況ですが、ビザンツ帝国は最後の意地を見せます。コンスタンティノープルの陸側に築かれた三重の堅牢な防壁は、オスマン軍の砲撃やイエニチェリ軍団の突撃を必死に食い止めました。少数精鋭のヴェネチア海軍も、金角湾の入り口に鉄鎖を張り巡らして制海権をガッチリと守ります。

 攻めあぐんだメフメット2世は、奇策を用いました。半島状になっているコンスタンティノープル新市街(全市の北側)で、ボスポラス海峡から金角湾までの陸路を、艦隊の一部70隻を搬送したのです。地面に油を塗った丸太や板を敷きつめて、その上に軍艦を乗せて、大勢の兵士や人足が縄で引いたり押したりしたのです。

 もともと数が少ないヴェネチア艦隊は、金角湾の入り口を守備するのに手一杯でした。そこを予期せぬ陸側の背後から、オスマン艦隊に金角湾に攻め入られて窮地に追いやられます。またビザンツ帝国軍やジェノヴァ傭兵隊は、陸側に張り付けておいた数少ない守備兵を、金角湾方面の防衛に新たに振り向けねばなりませんでした。

 これが戦局の転機となります。

 529日、ついにオスマン最強のイエニチェリ軍団が、大砲を乱射しつつ手薄になった三重の城壁を突破しました。ビザンツ最後の皇帝コンスタンティヌス11世は、大混乱の中、自ら先頭に立って敵軍に突撃し、勇敢な最期を遂げました。

 こうして、ビザンツ帝国は滅亡したのです。

 今日まで続くキリスト教徒とギリシャ人のトルコに対する憎しみや偏見は、この事件こそが最大の淵源だったと思います。トルコ人は、何しろヨーロッパ人の心の道標であった「ローマ帝国」に止めを刺してしまったのですからね。もっともその割には、ヨーロッパ・キリスト教勢力が、「最後のローマ帝国」救援のために全力を尽くしたという状況でも無かったのですが。

 さて、オスマン帝国は、首都を従来のアドリアノープル(エディルネ)からこの街に遷します。いよいよ、先祖伝来の悲願である「ローマ帝国の再興」に王手をかけた形になったのです。

 今日、イスタンブールを訪れると、1453年の戦いの遺跡や資料がたくさん残っています。「三重の城壁(テオドシウス城壁)」はまだ立っているし、ヴェネチア軍が金角湾封鎖に用いた鎖も、オスマン軍が実際に使った大砲も、軍事博物館の中に現存しています。メフメット2世が郊外に築いた「付け城」ルメリ・ヒサル(ヨーロッパの砦)もあります。機会があれば、旅行などでこれらの史跡を訪れてみたら楽しいと思いますよ。

 このテーマでは、塩野七生さんの「コンスタンティノープルの陥落」が名著です。

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