歴史小説家 三浦伸昭の歴史ぱびりよん

世界史・日本史の隠れた巨人たちを鮮やかに蘇らせる!歴史小説家 三浦伸昭公式ホームページ

歴史論説集

概説 トルコ史

第三章 世界を覆う三日月の旗


11.イスタンブールの話

12. ドラキュラの話

13.中近東とエジプトの征服

14.イエニチェリ軍団

15.壮麗王スレイマン大帝

16.トルコ料理の話


 

glory ottoman

オスマン帝国の最大領土


11.イスタンブールの話

 世界で最も美しい街の一つが、イスタンブールです。

 ただし、この街がイスタンブールという名に正式に変わったのは20世紀のトルコ革命からで、それ以前の正式名称は、変わらずコンスタンティノープル(トルコ語読みでコンスタンティニエ)のままでした。イスタンブールという言葉の語源には諸説ありますが、ギリシャ人の商人が「あの城市(エイス・ステン・ポリ)」と何気なく言っていたのを西ヨーロッパ人が固有名詞と聞き間違えて、これを「イスタンブール」と訛って解釈したという説が、なかなか説得力を感じさせます。言葉というのは、案外そういった偶然の事柄で決まることが多いからです。

 この都市は、紀元前の太古から、交易ネットワークの結節点として極めて重要な地位を有していました。この地に最初に都市を築いたのはギリシャ人です。古代ギリシャの都市国家アテネは、黒海沿岸部との交易を生命線にしていたので、黒海とエーゲ海を結ぶ水路を扼する重要拠点にビザンティオンという都市を築きました(前667年)。やがて、この都市を征服した古代ローマ帝国は、コンスタンティヌス大帝の御世にここに遷都します(330年)。こうして、栄光の都コンスタンティノープルが世界史の中心に登場したのです。

 そして15世紀。ローマ帝国の後継者であるビザンツ帝国が、首都以外のほとんどの領土を失った後もなお、世界の強国として君臨できていたのは、ローマ帝国の正統後継者でありギリシャ正教の総本山であるという権威の強さもさりながら、コンスタンティノープルの有する経済力にこそ最大の理由がありました。

 なにしろ、この地を制する者は、黒海から地中海に至るまでの交易ネットワークを完全に支配できるのです。21世紀の現代でも、もしもこの地で大規模なテロが起きて交通が遮断されるようなことが起これば、中東からアフリカ北部、そしてヨーロッパ経済が致命的な大打撃を受けると言われています。逆に言えば、この地を制する者は巨万の富を獲得できるということです。そのため、コンスタンティノープル、すなわちイスタンブールは、太古より多くの勢力の争奪戦の対象になって来ました。

 オスマン帝国が、ヨーロッパ世界からの憤激を買うと知りつつも、あえてこの地を奪取したのは、まさにそのためでした。そして、オスマン帝国が世界の覇者へと躍進できたのは、この地の富のお陰でした。

 しかし、この事実は逆に、オスマン帝国が周辺諸国の標的となることを意味しています。オスマン帝国の栄光はイスタンブールとともに興り、そしてその没落もイスタンブールのせいで始まったのです。

 ここで、重要な因子となったのがロシアです。コンスタンティノープルの陥落によって滅亡したビザンツ帝国の末裔は、北方のロシアに逃げ込みました。その結果、ギリシャ正教を国教とするロシアは、やがて「ビザンツ帝国の正統後継者」を自認するようになります。この国が、後に執拗にオスマン帝国とイスタンブールに攻撃を仕掛けるようになったのは、まさにそのためでした。これが、オスマン帝国の致命傷となって行きます。

 もっとも15世紀の時点では、ロシアは弱小国だったので、オスマン家はこうした状況をまったく問題にしていなかったのですが。

 

12.ドラキュラの話

  さて、イスタンブールを征服したオスマン帝国は、その野望を東欧に向けます。

 東欧キリスト教国は、当時の強国であったハンガリー王国を中心にして必死の抵抗を見せます。その急先鋒として活躍したのが、ワラキア(今日のルーマニア)大公ヴラド3世でした。

 ワラキア公国は、もともとオスマン帝国に朝貢していたのですが、ヴラド3世の代になってからハンガリーと手を組んでオスマンに反抗します。彼は、精強無比なるオスマン帝国軍と戦うために奇策を用いました。朝貢時代にワラキアに滞在していたトルコ系の民間人2万人を捕虜にして、これをオスマン軍の侵攻経路一帯にずらっと並べ、立ったまま串刺しにして処刑したのです。串刺しというのは、立ち並べたトネリコの枝に、人間を生きたまま肛門から口腔まで貫いて殺す残虐な処刑方法です。ヴラド3世は、国内の反逆者に対してもこの処刑を頻繁に行っていたので、一種の串刺しマニア(?)だったようです。彼の渾名がツェペシュ(串刺し公)になったのは当然ですね。

 さて、ワラキアに侵攻してきたトルコ軍は、同胞たちの無残極まりない腐乱死体の列を見て動揺し、戦意を喪失してしまいました。そこに、ヴラド直率の騎馬隊が奇襲攻撃を仕掛けたのです。オスマン軍は、常勝皇帝メフメット2世さえ負傷するという、まさかの大敗を喫しました(1462年)。

 その強さゆえドラクル(龍)と呼ばれるようになったヴラドは、しかし、オスマンとの戦いに勝利するためにワラキア国内に過剰な負担を強いたために、貴族や民衆に深く恨まれ、やがて国外に放逐されてしまいます。最後は、ハンガリー国王マチャーシュの思惑でワラキア公に返り咲くことに成功するものの、オスマン軍との戦いで戦場に斃れました。

 こうしてワラキアは、オスマン帝国に征服されてしまいます。そして盟邦ハンガリーでさえ、後に同じ運命を辿るのです。すなわち、ヴラド・ドラクルの活躍は東欧諸国の抵抗の一瞬の光芒とも言えるものでした。

 さて、19世紀に入ってヴラド3世の事績を取材したのが、アイルランドの作家ブラム・ストーカーです。彼はヴラドの残虐さと恐ろしさをホラー小説に活かすことを思いつきます。こうして書かれたのが、ホラー史上に残る大傑作「吸血鬼ドラキュラ」です。ドラキュラという命名は、ヴラド3世の渾名の一つドラクル(龍)から来ているのでした。

 ヴラド3世は、確かに残虐な君主でした。しかし、この当時の東欧の小国が、ハンガリーやオスマンと互角に渡り合って独立を維持するためには、そこまで無茶をしなければならなかったのも確かです。そう考えるなら、ワラキア公ヴラド・ドラクルが立派な愛国者だったことも、また確かなのです。

 

13.中近東とエジプトの征服

  ファーティヒ(征服王)・メフメット2世の死後(1481年)、彼の子供たちは恒例の「兄弟殺し」を始めました。勝ち残ったのはバヤジット2世でしたが、この争いで殺されずに済んだ負け組の兄弟たちは、周辺諸国に亡命しました。この過程で、小アジア東部の雑多な君候国や、さらにはエジプト、ペルシャ(イラン)といったイスラム諸国が、オスマン家の後継者争いに軍事介入を開始したのです。この情勢を前にして、いつも西側ヨーロッパを見ていたオスマン帝国の外交方針も一変し、その兵力を東方イスラム諸国へも進めるようになります。

 このような事態になった最大の理由は、イランがイスラム教の異端(「十二イマーム派」。シーア派最強の教義)を報じて暴れ回ったことから、スンニ派の旗頭であるオスマン家としては、これを抑え込んで撃退するため、中東全域を押さえる必要が生じたからです。それに加えて、地域最高の経済拠点イスタンブールを領有したオスマン家が、全周囲に軍事作戦を行える経済力を獲得した事実も重要でしょう。また、この事実こそが周辺のイスラム諸国の危機感と敵対心を煽り、それが大規模な地域紛争を発展させたとも考えられます。

 やがてバヤジット2世の死後(1512年)も「兄弟殺し」が起こり、この争いに勝ち残ったセリム1世は、ライバルたちに味方した小アジアや中東諸国を一気に攻め潰してしまいました。やがてヤヴズ(冷酷王)と呼ばれるようになるセリム1世の軍事行動の中で、決定的に重要なのが、マムルーク朝エジプトの征服です(1517年)。

 エジプトは、イスタンブールに負けないほど経済的に重要な地域で、なにしろ紅海を経由する形でインド洋やアラビア湾との交易拠点になっていました。それゆえ、この地を領有することはオスマン帝国の経済力を大いに強化することになりました。

 それだけではありません。セリムが、エジプトに住んでいたカリフ(イスラムの法王)から位を譲られたことで、オスマン家のスルタン一族がカリフ位を代々兼任することになりました。これは実際には、セリムがカリフをイスタンブールに拉致して脅迫した結果と思われますが、「禅譲」とは基本的にそういうものです。「三国志」にも、似たような話が出て来るでしょう?

 こうしてオスマン家は、この地域の経済全体を掌握するのみならず、宗教的な権威まで手に入れたのです。今やオスマン家の領土は、アジア、アフリカ、ヨーロッパの三大陸に跨っています。そして、経済と宗教が強い国は、戦争もますます強くなります。

 勢いに乗るオスマン帝国の鋭鋒は、四方八方へと広がって行くのでした。

 

14.イエニチェリ軍団

  さて、オスマン帝国軍の切り札と言える存在が、高名なイエニチェリ軍団です。

 イエニチェリは、トルコ語で「新しい軍」という意味です。その名の通り、オスマン帝国の統治機構が整備される過程で、14世紀のムラト1世の代に新たに創設された軍組織なのです。

 イエニチェリを語る上で決定的に重要なのが、これが「スルタン(皇帝)に直属する常備歩兵軍」だという点です。

 それ以前のトルコ軍の主力は、トルコ族の騎士階級(シパーヒー)が率いる騎馬軍団でした。騎馬軍団は草原での遊撃戦では無敵の威力を誇りますが、ヨーロッパの山岳地帯や森林地帯では無力になるし、何よりも攻城戦に向きません。おまけに、軍組織の在り方がシパーヒーごとに分裂しているので、統一的な指揮命令系統の下で組織的に運用するのが非常に難しいのです。

 そのことを悟ったオスマン家が、新たに創設した軍がイエニチェリというわけです。これは、占領地域から組織的に徴発した(デブシルメ制)優秀なキリスト教徒の子弟を、イスラム教に改宗させた上で、オスマン皇帝に忠誠を尽くすように徹底的に教育訓練した軍隊でした。そんな彼らは、完全にオスマン皇帝個人に帰属します。すなわち、皇帝の親衛隊でした。

 イエニチェリの個々の兵士は、社会的には「奴隷傭兵」と言ってよい地位だったわけですが、退役後は財産をもらって第二の人生を楽しめるようになっていました。たとえば、トルコ史上最高の建築家と言われるスィナンも、イエニチェリ出身者です。だからデブシルメ制は、一部のヨーロッパ人が誤解して非難するほど、非人道的で酷い制度だったわけではありません。

 さて、「皇帝の下で一丸となって動く常備歩兵軍」というシステムは、当時のヨーロッパには存在しませんでした。中世ヨーロッパは、国家という概念自体が非常に未成熟で、たとえばフランス国王や神聖ローマ皇帝は「貴族の中の代表格」に過ぎませんでした。神聖ローマ帝国などは、皇帝位を貴族同士が選挙で決めていたほどです。だから、国王(皇帝)には国家の常備軍を維持拡充できるほどの財政基盤が無く、しかも領内には、国王(皇帝)の命令を素直に聞かない我儘な貴族がほとんどでした。

 そういうわけで、戦場に現れたヨーロッパ軍は、貴族ごとに勝手な軍装と旗指物を掲げて、バラバラに行動することがほとんどでした。そんな彼らは、負けた場合は、国王(皇帝)を見捨てて勝手に逃げてしまいます。この時代のヨーロッパの戦場で、国王(皇帝)がいとも簡単に捕虜になったり、あるいは戦死(事故死)する例が非常に多いのは、まさにそのためでした。

 また、「統一的な常備軍」は、これに軍制改革を加えることも容易となります。たとえば、15世紀に鉄砲が急激に欧州全土に普及を始めたとき(フス派戦争)、これをいち早く取り入れて正式採用したのがイエニチェリ軍団でした。

 これに対して、統一的な命令系統を持たないヨーロッパ諸国は、こういった構造改革が行えませんでした。なぜなら、国王(皇帝)が「槍や弓を鉄砲に持ちかえろ!」と領内に指示しても、貴族たちが「騎士道の美学に反するから嫌じゃ」と言い出したら、それで終わりだからです。

 日本人がしばしば忘れがちなことですが、「民主主義(話し合い)」は、正しい意思決定を下す上で「独裁制(専断)」より劣る場合が多いのでした。

 こうして、1516世紀にかけて、槍を振り回しながらバラバラに突撃して来るヨーロッパの騎士団を、鉄砲を組織的に斉射しながら迎え撃つイエニチェリ軍団の姿が、東欧各地で見られるようになります。

 強大な経済力に加えて、近代的な軍事制度を併せ持つオスマン帝国。

 この時期のトルコが、圧倒的に強かったのも当然ですね。

 

15.壮麗王スレイマン大帝

  オスマン帝国の最盛期は、スレイマン1世(在位1520-66)の時代に訪れます。

  オスマン家の10代目スレイマン大帝は、トルコ史上で最高であることは当然ながら、人類史上で見ても最高の専制君主と呼んで良い人物です。

 「壮麗王(イル・マニフィコ)」という彼の渾名は、ヨーロッパ人が付けたものです。スレイマンは、敵手であるヨーロッパ人からも尊敬され畏怖される存在だったことが分かりますね。その一方、スレイマンのトルコでの渾名は、「立法者(カーヌーニー)」です。それは、このスルタンが様々な法制を整備して民生の向上に尽力したからです。

 そんなスレイマンは、軍事の天才でもありました。生涯で13回の大遠征を指揮し、次々に勝利を重ねます。ハンガリーはついに征服されました。ハプスブルク家のオーストリアは首都のウイーンを包囲され(1529年)、辛うじて持ちこたえる有様でした。サファビィー朝ペルシャ(イラン)は散々に打ち負かされ、バクダッドを中心とするイラク全域がトルコ領になりました(1534年)。

 地中海の制海権も、スレイマンの手に落ちました。彼は、「赤鬚のハイレッディン」ら地中海の精強な海賊たちを傘下に収めることで、北アフリカ沿岸の諸都市を次々に陥落させたのです。こうしてロードス島をはじめ、リビア、チュニジア、アルジェリアまでオスマン領になりました。

 スレイマンはまた、外交の名手でもありました。彼は、ハンガリーとオーストリアを倒すために、その背後にいるフランスと同盟を結んで、中欧を腹背から挟み撃ちにして攻撃したのです。また、オーストリア国内を混乱させるために、宗教改革を煽りたてました。かのマルチン・ルターらプロテスタントの活動の背景には、オスマン帝国の資金があったと言われています。これに対抗するため、オーストリアの神聖ローマ皇帝カール5世は、オスマン帝国の背後にいるペルシャと同盟を結びました。

 スレイマン1世とカール5世。2人の偉大な戦略家のダイナミックな対決は、世界史上の奇観と呼んでも差し支えないでしょう。もっとも、オーストリア・ペルシャ同盟側が、一方的に押しまくられていたように見えますけど。

 偉大なるスレイマン大帝は、オーストリアとのスロヴァキアを巡る争奪戦の最中に陣営で病死しました。彼は、部下の士気を下げないために、己の死を全軍がイスタンブールに帰り着くまで伏せさせました。死体を馬車の中に立たせて、生きているように偽装させたと言われています。

 スレイマン時代は、オスマン帝国の経済と文化も最高潮でした。詩人のフズーリー、バーミー、そして建築家スィナンの活躍が特に有名です。スレイマン自身が優れた詩人であり、「恋する人」というお茶目な(?)ペンネームでたくさんの詩を書いています。

 この時期に集大成されたトルコ文化の魅力は、現代に至るまで、世界中を魅了しているのです。

 

16.トルコ料理の話

  トルコ文化の魅力、と漠然と言われてもピンと来ない人が多いだろうから、料理の話をします。

 トルコ料理は「世界三大料理」の一角を占めています。残りの2つは、フランス料理と中華料理です。「どうして日本料理が入ってないんだ!」と激怒する人は、とりあえず三大料理を食べてみるといいです。確かに美味しいので、文句を言う気をなくすと思いますよ。

 トルコ料理は、基本的に「宮廷料理」です。その地勢的位置を活かして、中国、アラブ、インド、アフリカ、ヨーロッパのあらゆる料理の要素を取り入れて、それを独自の味付けで再構成しています。仕込みに膨大な時間をかけるのが特徴で、いろいろな食材を一つの料理の中に混ぜていたりします。だから、相当に舌の肥えた人でも、何の食材を用いた料理なのか分からないことがあります。それだけ豊潤なのです。

 ただ、先祖が遊牧民なので、チーズやヨーグルトといった乳製品の扱いが得意なように見えます。トルコ人は、サラダはもちろん肉料理や餃子(マントウ)にもヨーグルトを掛けて食べたりします。ちなみにヨーグルト(トルコ語でヨウルト)は、もともとトルコ人の発明品です。日本で有名な「ブルガリアのヨーグルト」は、オスマン帝国による占領時代にこの国に技術移転したもので、ブルガリア人のオリジナルじゃないのでした。

 なお、ピラフもロールキャベツも、もともとトルコ料理です。知らなかったでしょう?

 ハンガリーのパプリカ料理も、オスマンの占領時代にトルコ人から伝わったものと言われます。考えたら、ハンガリー料理ってパプリカ三昧なのですが、トルコ人に教わる前、ハンガリー人はいったい何を食べていたんでしょうね?ちなみに、ハンガリー人の独特な入浴スタイルも、トルコ伝来だと言われています。首都ブダペシュトなどでは、未だにトルコ人が築いた公衆浴場が機能していますよね。

 ハンガリー名産のトカイワインも、実はトルコが絡んでいます。あるとき、オスマン帝国軍がトカイ村を襲いました。村人は、収穫したばかりのブドウを置き捨てて避難したので無事でしたが、オスマン軍の撤退後、村には腐ったブドウばかりが残されていました。悲しんだ村人ですが、このままブドウを捨ててしまうのはもったいないので、腐ったブドウを使ってワインを作ってみたところ、意外と美味かった!これが、世界最高の貴腐ワインと言われるトカイワインの事始めです。まあ、これは偶発事件だったわけですが。

 ロシア料理にも、トルコから伝わったと思えるものが多いですよね。エジプト料理もギリシャ料理も、トルコ料理に非常に良く似ています。

 このように、トルコの豊かな食文化は、世界のいろいろな場所に大きな影響を与えているのでした。

 私がたまに思うのは、トルコがあれほど短期間に大帝国を築きあげ、しかもそれを500年も維持できた秘訣は、「料理が美味かったから」ではないかと。

 人間は、本質的に異文化に支配されることが好きではないので、支配を受け入れるにはそれだけの見返り(メリット)を求めます。支配されることが「気持ち良い」と感じる必要があります。すなわち、経済的メリットないし文化が必要なのです。

 かつて、ハプスブルク帝国は、音楽文化で中欧を征服しました。その影響は今でも各地で見られます。アメリカ帝国だって、コカ・コーラとミッキーマウスやハリウッド映画で世界征服したわけでしょう?

 逆に、軍事力だけで闇雲に突っ走ったナチスドイツや大日本帝国は、この辺りの魅力が足りなかったから、短日で瓦解したのではないでしょうか?

 我らがオスマン帝国は、料理の魅力で占領地域の人々を満足させていたのかもしれません。こういう観点で、世界史上の大国の興亡を俯瞰してみるのも楽しいかと思います。

ページ上部へ