歴史小説家 三浦伸昭の歴史ぱびりよん

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歴史論説集

概説 トルコ史

第五章 落日のオスマン帝国


24.チューリップ時代

25.ナポレオンとエジプトの反乱

26.クリミア戦争とナイチンゲール

27.日本との友情~エルトルールル号事件と日露戦争

28.青年トルコ党の革命

29.オスマン帝国の破滅~第一次世界大戦

 


24.チューリップ時代

 トルコからヨーロッパに輸入されたのは、音楽や料理やカフェだけではありません。

 「公衆衛生」という観念も、トルコからの輸入品です。近代ヨーロッパ人が、上水道や下水道を整備すれば生活が豊かになることに気付いたのは、清潔な(一日5度の礼拝の都合上、しょっちゅう体を洗う習慣がある)イスラム教徒であるトルコ人に教えられたからです。もっとも、それは経済力も関係があって、大航海時代を経て豊かになったヨーロッパ人が、近代に入ってようやく都市のインフラ整備にカネをかけられるようになったという事情も大きいのでしょうけど。

 「チューリップの花」も、原産地はトルコです。

 チューリップといえば大塚愛。じゃなくて、オランダが有名ですが(笑)、オランダはトルコからこの花を輸入して、そして大量栽培してブランド価値を付けたのです。

 原産地のトルコでは、チューリップはそこらに普通に自生している野草だったので、トルコ人はあまり興味が無かったのでした。そういうのに目を付けて、安く仕入れてブランド価値を乗せる能力こそが、オランダ人の、いや欧米人全般の長所です。中には詐欺まがいの行為もありますが、日本人も「物造り」ばかりに拘るのではなく、こういうのをもっと見習うべきでしょう。

 さて、18世紀のオスマン帝国は、頻繁に交代する惰弱なスルタンの失政と、内外の反乱や戦争に苦しめられる日々でした。

 かつてスレイマン大帝が築いた高度な官僚体制は、スルタンの交代に際して、周囲の官僚や后の意思が通り易い傾向を作ってしまいました。その結果、官僚や母后の言いなりになるような、軟弱で経験不足のスルタンが次々に即位するようになります。

 これに伴って、「兄弟殺し」の風習は無くなりました。跡目争いに敗れた兄弟は、宮殿の一角か離島に軟禁されて一生を過ごすのでした。これは、ロシアや西欧やペルシャが手ごわくなったので、オスマン帝国に内戦をやっていられるだけの余裕が無くなったせいでもありますが。

 さて、官僚や母后によって選ばれたスルタンは、戦場に立つこともなく政務を執ることもなく、全てを官僚に丸投げして宮殿に閉じこもり、趣味や美食や淫慾に明け暮れて生涯を終えました。なんだか、今の日本の政治家の姿に似ていますね。

 そんなスルタンの代表とも言えるアフメット3世(在位1703-30年)の治世は、「チューリップ時代」として有名です。どうしてチューリップかと言えば、このスルタンがチューリップのことが大好きで、この花やその意匠を非常に好んだからです。トプカプ宮殿は、チューリップの花畑やチューリップの意匠の飾り物でいっぱいだったそうです。

 前述の通り、チューリップはもともとトルコの花で、最初はトルコ人がヨーロッパに教えてあげたのです。それが、本家に逆輸入されて珍重されるとは。ある国が衰退する時は、心まで弱くなってプライドも無くなるのでしょうか?

 今の日本も、他人ごとではありません。村上春樹の小説や国産のアニメ・漫画は、「欧米人に好まれるから」という理由だけで日本で売れたりします。だけど、これらを実際に読んだり見たりした日本人に聞くと、「面白くなかった」という感想が返ってくるのが通例です。無意識のうちに、「本当は詰まらないけれど、欧米の白人が好むから、自分も好きになってみよう」というコンプレックスが働いているのです。価値判断の基準が外国任せになっている状況は、チューリップ時代のトルコと同じようなものかもしれません。

 

25.ナポレオンとエジプトの反乱

 オスマン帝国は、18世紀から19世紀にかけて、四方八方から攻撃を受けて領土を奪われる日々でした。特にロシアからの攻撃は執拗で、広義の「露土戦争」は合計12回も戦われます。オーストリアとペルシャも、しゃかりきになってオスマン領に攻め込んできます。

 各方面の難しい戦況に対応するため、オスマン帝国は各地の地方名士(アーヤーン)に絶大な権限を与え、それぞれが方面軍を組織して対応する方針を打ち出しました。この方式は暫時の間は奏功し、侵略者をしばしば食い止めることに成功しました。ただ、この過程で地方分権化が進んでしまい、オスマン帝国は中央集権国家としての求心力を失っていきます。

 もともとオスマン帝国は寛容な国家で、領域内での様々な民族文化や宗教の併存を容認していました。それどころか、経済の仕組みや貨幣単位そして徴税のやり方でさえ、現地ごとに放任だったりしました。これはすなわち、ある地域が簡単にオスマン帝国から独立出来ることを意味します。案の定、絶大な権力を得た地方名士たちは、やがて「分離独立」への思惑を抱き始めるのです。

 面白いことに、この時期のヨーロッパとロシアでは逆の現象が起きていました。中央集権化、すなわち「国民主義」の台頭です。

 先述の通り、中世のヨーロッパでは、国王や貴族が自分たちの狭い縄張りの中で農奴を虐めながら生きるのに精いっぱいで、人々は国家とか国民という概念を持っていませんでした。だからこそ、バラバラに行動する彼らは、高度に中央集権化されたオスマン帝国軍の攻撃に押しまくられていたのです。ところが、近代に入るとヨーロッパ人の間に「国民」という観念が生まれます。すなわち、一つの国家は一つの国民の住む場所であり、国王や貴族もその構成員に過ぎないというのです。それならば、国王や貴族が国家に害を成すようなら、国民は彼らを殺しても追放しても良いのではないか?この観念が民主主義を生み、革命思想を生み、それが「アメリカ合衆国の独立革命(1776年)」や「フランス革命(1789年)」となって具体化するのでした。こうして、ヨーロッパとロシアは「国民」を触媒にして、高度に中央集権化されて行きます。やがて、そのパワーが産業革命を生みだすのです。

 「多くの民族がバラバラに楽しく共存すれば良い」というオスマン帝国の立派なポリシーは、残念なことに時代の流れとともに経年劣化を起こし、もはやこの残酷な世界の中に取り残されてしまったのです。

 新しい「国民」のパワーを最初に世界に思い知らせたのは、フランス皇帝ナポレオン1世(在位1804-15年)でした。国王や貴族のセクト主義を完全に排除した彼の「国民軍」は、瞬く間にヨーロッパ全土を席捲して猛威を振るいます。

 とにかく戦争が大好きだったナポレオンは、オスマン帝国も攻撃しました。敵国イギリスの海上交易を妨害する目的で、オスマン領だったエジプトに上陸したのです(1798年)。その時の名言が、ピラミッドの前で兵士たちに向けて放った「4000年の歴史が、諸君を見ているぞ!」ですね。

 この時、ナポレオンと戦ったのは、オスマン帝国の地方名士(アーヤーン)だったムハンムド・アリーです。彼は、大苦戦の末にナポレオン軍をエジプトから追い出すのですが、この過程でイギリスと結びつき、ついにオスマン帝国から独立します(1830年)。

 もっとも、彼の子孫はイギリスに国を乗っ取られてしまうわけなので、アリーの反乱劇は、何もかもイギリスの策略だったのかもしれませんね。スエズ運河の開通などによって、エジプトの交易面での重要性は格段に増していました。イギリスは、かねてよりこの地域を欲していたのです。すなわち、「欲しい地方をまず、オスマン帝国から切り離し、孤立に追いやってから食い物にする」という策略だったのでしょう。欧米人は、そういう遠大な策謀が得意なので、21世紀の皆さんも気をつけましょうね。

 

26.クリミア戦争とナイチンゲール

  エジプトの反乱を皮切りに、次々に離反する地方名士によって、オスマン帝国の領土は更なる縮小を始めました。これはもちろん、ヨーロッパやロシアが、「国民」概念を鼓吹して彼らの叛意を煽ったせいでもあります。「ギリシャ人はギリシャ人の国を持つべきだ!」「ルーマニア人はルーマニア人の国を持つべきだ!」といった具合にね。

 こうして19世紀に入ると、ギリシャ、セルビア、モンテネグロ、ルーマニア、そしてブルガリアが独立してしまいました。

 ところが、こういった国々は「国民」ごとに偏狭に纏まり、互いに憎悪を向け合うようになります。領土争いを始め、差別意識を抱き、戦争をするようになりました。やがて「国民」同士の複雑な駆け引きは、オスマン帝国の頭越しに、この老帝国を巻き込んでの大戦争を起こすようになります。国民国家たちはそれぞれ、オスマン帝国の利権の取り分を巡って、勝手に殺し合うのです。

 その代表例が「クリミア戦争(1853-56)」です。

 ロシアが、いつものようにオスマン帝国に侵略戦争を仕掛けた時、オスマン側が明らかに劣勢だと見て取ったイギリスとフランスは、「ロシア軍の戦い方が非人道的で残虐だ!」という、意味不明な理由でロシアに宣戦布告しました。もちろんその本音は、「ロシアにオスマンを一方的に征服されるのが癪だから」という、それだけのことでした。まるで、子供の喧嘩ですね。

 ともあれ、オスマン帝国の支援を受けて黒海に侵入した英仏連合軍は、ロシア領のクリミア半島に上陸して激しく戦います。この戦争の特徴は、対峙する両軍ともに、経験不足で無能な指揮官に率いられていた点です。その結果、拙劣な作戦と慣れない気候にさらされて、非常に多くの死傷者が出ました。大義名分の無い戦争の中、無能な指揮官のせいで死んでいった兵士たちは、本当に気の毒だと思います。イギリス映画「遙かなる戦場」は、この愚かな戦争の雰囲気を上手に表現しているようです。

 そんな時、イスタンブールの野戦病院に看護師として着任した一人のイギリス婦人がいました。フローレンス・ナイチンゲールです。彼女の偉大さは、イスタンブールでの献身的な介護よりもむしろ、ロンドンに帰ってから「戦場医療」の在り方を体系化、理論化したことです。それだけでなく、頑迷固陋な官僚組織と賢く粘り強く渡り合うことで、医療制度そのものを大きく変えたことです。

 「瀕死の病人」トルコの利権を巡る不毛で悲惨な戦争の中で、このような偉業が行われたことは、我々を少しだけ安堵させてくれます。

 さて、クリミア戦争は結局、ロシアの敗北で幕を閉じました。オスマン帝国は、英仏の力を借りてロシアを追い払った形です。「夷をもって夷を制す」という奴ですか。まあ、あくまでも結果論ですが。

 英仏は前述のように、オスマン帝国と不平等条約(カピトレーション)を結んでいて、ここから膨大な利権を得ていました。だから彼らは、利権喪失を恐れるあまり、ロシアのトルコ侵略をこの後も妨害し続けるのです。

 英仏の執拗な妨害に窮したロシアは、やがて、その食指を東アジアに向けるようになります。その結果起きたのが「日露戦争(1904-05)」ですね。そういう意味では、オスマン帝国の動向とクリミア戦争は、日本の歴史にも密接に絡んでいるのです。

 

27.日本との友情~エルトルールル号事件と日露戦争

  19世紀末のオスマン帝国は、「瀕死の病人」、「東方問題」などとヨーロッパに侮蔑されながら、それでも粘り強く生き永らえて行きます。しぶとい老帝国は、ヨーロッパとロシアら「国民国家」を互いに争わせつつ、その隙に国内で様々な「構造改革(タンジマート)」を行うのでした。

 オスマン帝国は、先祖の遊牧民の伝統を守り、「実力主義」の文化を維持していました。すなわち、スルタンとカリフを世襲するオスマン家の当主以外については、原則として「世襲」が有りませんでした。そのため、若く有為な人材が、宗教や人種を問わず、政権中枢に立つことが比較的容易だったのです。もちろん、政権中枢には頑固で保守的な宗教勢力や官僚勢力もいましたが、東アジアの国々に比べると、優秀なリーダーを立てて「Change」を行い易かったのです。この事実こそが、オスマン帝国が長い衰退期を乗り越えられた最大の理由だったと思います。トルコ初の西欧型憲法を発足させた(1876年)、大宰相ミドハト・パシャの活躍などがその好例でしょうね。

 では、どうして東アジアの国々がダメかと言えば、それは「儒教」のせいだと思います。日本を例にとれば、どこを見ても「世襲」と「官僚」が幅を利かせているでしょう?みんな、世襲の人と官僚を、無意味に崇拝し尊敬する癖がありますよね?これはまさに、儒教道徳の弊害です。今の日本は、「文化大革命」のようなことをやらかして儒教文化を徹底的に破壊しない限り、あるいは尊敬する「白人様」から命令されない限り(笑)、抜本的な構造改革に取り組むことはできないでしょう。明治維新だって、戦後復興と高度成長だって、「白人様」に指導・命令されたから成功したようなものだし。この様子だと、破綻寸前の国家財政だって、IMFの「白人様」にいったん占領してもらって命令されない限り、決してうまく行かないと思いますね。少しは、オスマン帝国を見習ったらどうでしょうか?

 さて、話を戻しましょう。

 オスマン帝国の「構造改革」の骨子は、当然ながら「西欧化」です。

 かつてオスマン帝国は、世界屈指の先進国で、この国こそがヨーロッパやロシアに物を教える側でした。ところが、時代の流れとともに事態は完全に逆転します。スレイマン大帝の栄光に固執する老帝国は、大航海時代に始まる経済構造の大転換、国民国家の成立、議会制民主主義の誕生、そして産業革命といった「近代」の流れから完全に取り残されてしまいました。この国を再び活性化させるためには、恥をしのんで、ひとまず西欧にキャッチアップするしかありません。

 そんなオスマン帝国を大いに勇気づけたのは、東洋における日本の成功でした。

 日本は200年 以上の長い間、頑固に鎖国を続けていたアジアの封建国家だったのですが、明治維新以来急激に近代化を図り、いつしか産業革命の試練も乗り越えて、たちまち西欧に負けない強国になりました。そこでオスマン帝国は、日本を見習おうと考え始めます。

 また、トルコ人は日本人のことを「同じ中央アジア出身の兄弟民族」だと考えていて、以前から強い親近感を抱いていました。彼らは、「兄弟」が恋しくなったのです。

 そこで、時のスルタン・アブドルハミト2世は、「軍艦エルトルールル号」を日本に派遣しました。明治天皇に親善の挨拶をさせたのです。挨拶はうまく行ったのですが、その帰りに長旅で疲弊した老朽艦は、和歌山沖で大嵐に遭遇し、大破沈没してしまいました(1890年)。この時の遭難者69名を必死に救出したのが、串本町の漁民たちです。しかも日本政府は、軍艦2隻に遭難者たちを乗せて、イスタンブールまで送り届けてあげたのです。

 世界中から侮蔑され、残酷な攻撃を受け続けていたオスマン帝国は、東アジアの兄弟から受けた予想以上の優しさに心から感激しました。今でもトルコ人は、この時に日本から受けた深い恩義について語り続けています。

 さらにトルコ人を感激させたのは、「日露戦争(1904-05)」における日本の勝利でした。

 ロシアは、トルコの不倶戴天の仇敵です。オスマン帝国が衰退した最大の理由は、ロシアからの数百年にも及ぶ執拗な攻撃だったと言っても過言ではありません。なにしろ、トルコ人が優秀な人材を表に立てて頑張って経済を立て直しても、そのおカネは全てロシアとの戦争の軍費に消えてしまうばかりでした。やがて、足りない軍費を西欧から借りるしかなくなったオスマン帝国は、財政の面でも西欧に従属してしまうのです。

 そんな西欧は、クリミア戦争などではトルコを助けてくれたわけですが、結局はオスマン帝国内の利権確保が目的です。トルコ人は、ただ屈辱を感じるばかりでした。

 そんな中、トルコ人が恨み骨髄に思うロシアをコテンパンに叩きのめしてくれたのが、東アジアの優しい兄弟・日本だったのです。トルコ人の感動と感激は、筆舌に尽くし難いほどでした。子供たちに、トーゴー(東郷平八郎)、ノギ(乃木希典)といった具合に、日露戦争の英雄の名前を付ける親が続出したのも当然ですね。

 しかしこの感動こそが、新たな動乱をオスマン帝国にもたらすのです。

 

28.青年トルコ党の革命

  オスマン帝国は西欧風の構造改革を志向していたのですが、悪化するばかりの経済や相次ぐ戦争によってなかなか上手く行きません。西欧のように憲政や議会制民主主義を採用できるほど、民心が安定していないのです。

 そう考えたスルタン・アブドルハミト2世(在位1876-1909)は、優秀だった大宰相ミドハト・パシャを罷免(後に暗殺)し、せっかく発布した憲法を停止する(1878年)など、急激に独裁に傾きます。しかも彼は、各地にスパイや秘密警察を派遣し、己の独裁路線に逆らう者を容赦なく弾圧しました。そういうわけで、彼の渾名は「赤いスルタン」です。ここでの赤は、共産主義のアカではなくて、流血の赤です。

 確かに、抜本的な構造改革をやるためには、民主主義の話し合いよりも、独裁の方が効率的だったりします。事実、この強力なスルタンの施策によって、電信制度がオスマン全域に広がり、そして鉄道が開通するようになりました。しかし、あまりにも冷酷で強引なスルタンの行き方は、トルコ全土に恐怖と不安を撒き散らしました。そんなアブドルハミト2世の姿は、我が国では「安政の大獄」の井伊直弼に似ているように思えます。

 そんな中、「日露戦争」が起こりました。これは、「憲法を持つ国・日本が、独裁皇帝の国・ロシアを打ち負かした戦争」でもありました。これに勇気づけられた人々は、スルタン独裁制の打倒と憲政の復活を志向するようになります。

 サロニカの郵便局員タラートが始めた「統一と進歩の委員会(通称:青年トルコ党)」は、最初は穏健な政治グループでした。ところが、この地域の少壮軍人が加入したことで、急激に過激化します。やがて、エンヴェル・パシャを中心にして軍事クーデターを起こした彼らは、ミドハト憲法の復活を成し遂げ、ついにはスルタン・アブドルハミト2世を退位に追い込むことに成功するのでした(1909年)。これが、「青年トルコ革命」です。

 とりあえず、先帝の弟メフメット5世を傀儡スルタンに据えた「青年トルコ人」たちは、西欧や日本を見習って抜本的な構造改革を行おうとします。しかし、憲法に基づいて議会を開設したまでは良いのですが、「国民」概念を帝国内に根付かせようとしたのが大きな禍根となりました。

 先述の通り、オスマン帝国の基本ポリシーは、ローマ帝国の理念を受け継ぎ、コスモポリタンな万人平等の国家を築くことでした。その結果、多くの民族が多くの文化や宗教を抱えて住む雑居ビルみたいな国になったのですが、それこそがこの国のポリシーだったのです。

 ところが「青年トルコ党」は、この雑居ビルに「国民」概念を根付かせようとしました。具体的には、「トルコ民族」を「国民」と定義づけることで、他民族を差別し弾圧したのです。しかしながら、純粋なトルコ民族は、この国にわずか40%以下しかいないのです。残りは、アラブ人、ギリシャ人、ユダヤ人、クルド人、アルメニア人などですが、むしろこちらの方がトルコ人よりも多数派でした。そんな彼らは、当然、不満を抱きます。

 国家にとって「ポリシー」は非常に重要です。ポリシーの無節操な変更は、国家そのものの瓦解を招きます。どうしても基本的なポリシーを転換したいのであれば、国家そのものをいったん滅ぼしてしまうしかありません。たとえば、「江戸幕府を滅ぼして明治政府を建てる」といった具合にね。だけど「青年トルコ党」には、「オスマン帝国を滅ぼして別の国を建てる」という発想は全くありませんでした。つまり、中途半端なのです。

 また、「青年トルコ党」の構成員は、必ずしも一枚岩ではありませんでした。「憲政復活と赤いスルタンの退位」までは利害が一致していたのですが、その後の政見は幹部ごとにバラバラで、各人が好き勝手に政策を行い、好き勝手に発言したのです。

 これって、日本のこの間の「民主党」みたいですね(苦笑)。

 今の日本の場合は、21世紀の平和国家だからまだ良いですが、この当時のオスマン帝国は、帝国主義全盛の世界の中で、四方八方から狙われる悲惨な状況にありました。案の定、オスマン国内の大混乱を見て取ったヨーロッパ諸国が、大規模な侵略を始めます。

 まず、イタリアがリビアを奪い取ります(伊土戦争。1911年)。続いて、ギリシャらバルカン半島諸国が、二度にわたるバルカン戦争(1912-13年)でヨーロッパのオスマン領の大部分を占領してしまいました。

 今の日本も、尖閣諸島や竹島や北方領土の問題で、諸外国に舐められまくっているでしょう?政治が不安定で弱体だと、どうしてもこういうことになるのです。ここで、中国や韓国やロシアを恨んでみても意味がありません。日本が弱いから悪いのです。これは歴史の必然なのです。

 さて、この時点でのオスマン帝国の領土は、小アジア全域と首都イスタンブール周辺の他は、アラビア半島とパレスチナ、そしてイラクだけになってしまいました。

 「青年トルコ党」の革命にいったんは酔いしれたトルコ国民も、この悲惨な顛末に愕然としました。この間の民主党の失政に失望した現代の日本人の心理が、これに近いかもね。

 しかし、トルコ人の失望は、まだまだ序の口でした。

 「青年トルコ党」の失政と混乱は、断末魔のオスマン帝国を第一次世界大戦へと放り込むのです。これは、この国家の「自殺」に他なりませんでした。

 

29.オスマン帝国の破滅~第一次世界大戦

  20世紀初頭のオスマン帝国では、「青年トルコ党」の30代の少壮軍人たちが、下剋上で成り上がって政権を牛耳っていました。スルタンも議会も、彼らの傀儡に過ぎませんでした。これって、昭和初期の日本の様相に似ていますね。

 「青年トルコ人」は、その名の通り「若さ」が売りになっていました。しかし「若さ」とは、無謀と夢想の代名詞でもあります。

 青年トルコ人の中心人物エンヴェル・パシャは、「汎トルコ主義」を唱えました。すなわち、中央アジアや中国周縁部に割拠するトルコ人たちを団結させて、一つの国家にしようと夢想したのです。

 そして彼は、オスマン国内に現実に住んでいる異民族、たとえばアラブ人やアルメニア人等を迫害したのです。この時代は、世界中で「人種差別」が流行していたので、それも仕方ない面があります。それでも、万民平等をポリシーとするオスマン帝国の政治家が、この風潮を真似るべきでは有りませんでした。この時代の異民族迫害は、今でもトルコの悲しき汚名になっています。

 ところで、「汎○○主義」というのは、当時のヨーロッパ世界の流行語みたいなものでした。ドイツは「汎ゲルマン主義」、ロシアは「汎スラブ主義」を掲げていました。すなわち、これらの国々は「国民」の概念を「人種」に置き換えたのです。要するに、「外国に住んでいるゲルマン族ないしスラブ族も、ドイツ国民ないしロシア国民の仲間なのだ」と言い立て、それを大義名分にすることで、己の侵略戦争を正当化したのです。

 特にドイツは、「汎ゲルマン主義」を言いまくることで、「汎スラブ主義」のロシアと敵対するのみならず、世界中の植民地を既得権として支配しているイギリスとフランスへの利権侵害を正当化しました。イギリスとフランスとロシアは、当然ながら激怒します。これが、第一次世界大戦(1914-18年)の根本的原因でした。

 ドイツという国は、第一次大戦に敗れた後も、この歪んだドグマから解放されることなく、懲りずにまた同じことを始めます。これが第二次世界大戦(1939-45年)、すなわち「ヒトラーの戦争」ですね。

 エンヴェル・パシャは、こういった異常な国際情勢の中で溺れていました。案の定、彼はドイツのことが大好きで、彼の持論である「汎トルコ主義」も、ドイツの独善的な思想「汎ゲルマン主義」に強く影響されていたのです。ドイツの実力を過大評価した彼は、この国と手を組んで英仏やロシアと戦えば、オスマン帝国の退勢も挽回できるし「汎トルコ主義」も実現できると夢想するようになります。だから彼は、党の仲間たちに相談することなくドイツと密約を結び、そしてドイツの同盟国として、祖国を無理やり第一次世界大戦に引きずり込んだのでした。

 だけど日本人には、エンヴェルの愚かさを笑う資格はありませんよ。第二次大戦前にヒトラーのドイツに籠絡された日本の軍人官僚も、まったくこれと同じことだからです。

 そして、オスマン帝国の第一次世界大戦は、日本の第二次世界大戦と全く同じような様相を呈しました。何しろ、全国境が戦場になったのです。コーカサスからはロシアに攻められ、エジプトとイランからはイギリスに攻められ、バルカン半島ではギリシャに攻められ、文字通り360度四方からの袋叩きです。最前線で、どんなに将校や兵士が勇敢に戦っても、これではどうしようもありません。

 4年間の激闘の後、オスマン帝国は崩壊しました。数十万人の死屍累々の後、英仏連合軍によって占領されたのです(1918年)。

 エンヴェルら青年トルコ人たちは、無責任にも、いち早く外国に亡命しました。

 そして、オスマン帝国を占領した英仏連合軍は、この国を分割解体して植民地にしようと考えていました(サイクス・ピコ協定)。このまま行けば、オスマン帝国はアフリカや中東地域と同様に、無数の垂直線や水平線状の国境で分断されてバラバラになっていたでしょう。もはや、この地上に「トルコ」という名前は存在しなかったことでしょう。

 時のスルタン・メフメット6世は、大戦中に病死したメフメット5世に代わって即位した人ですが、あまりの挫折感に覇気を失い、もはや白人列強の言いなりでした。彼は、自分と家族の生活さえ従来通りに守られるなら、オスマンの国土がどうなろうと、国民がどうなろうと、知ったことではないのでした。

 こんなスルタンを抱いたトルコ人たちの脳裏に浮かんだのは、もはや「絶望」の二文字だけでした。

 そんな時、奇跡の英雄が現れたのです。救世主が現れたのです!

 その男の名は、ムスタファ・ケマル!

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