歴史小説家 三浦伸昭の歴史ぱびりよん

世界史・日本史の隠れた巨人たちを鮮やかに蘇らせる!歴史小説家 三浦伸昭公式ホームページ

歴史論説集

その他

「恐怖」の歴史


  目次

1.「恐怖」について語りましょう。

2.二種類の「恐怖」

3.未知の世界の「恐怖」

4.悪魔との戦い

5.怨霊との戦い

6.三大スター

7.科学の「恐怖」

8.核爆弾と放射能

9.疫病の「恐怖」

10.隣人の「恐怖」

11.総括をしましょう。


 

1.「恐怖」について語りましょう。   

   今回のテーマは、「恐怖」という感情の歴史的変遷です。

  人類が「恐怖」を感じる対象は、生活領域や科学技術の進歩によって、刻々と変化していきました。しかし、「恐怖」そのものは根絶することができません。ある「恐怖」が無くなれば、それに代わって別の「恐怖」が生まれていくのです。それは何故でしょうか?これを追求するのが、今回のテーマというわけです。

もちろん、「恐怖」という感情については、個人差があります。一人一人を個別に見ていけば、豪胆な人も恐がりの人もいるでしょう。でも、ここでは大雑把に人類全体の「恐怖」について見て行こうと考えています。

ところで、どうやって個別的な「恐怖」という感情を人類全体に一般化するのか?ここで私が採り上げたツールは、太古より伝わる神話、怪談、そしてホラー映画です。これらの有名な物語やヒット映画を分析すれば、当時の人が、だいたいどんなことに恐怖を感じていたのかが分かると思うのです。

それでは、「恐怖」の旅へと出発しましょう!

 

 

2.二種類の「恐怖」  

  人間が恐怖を感じる対象は、大きく分けて2種類あります。

 1つは、「目に見える恐怖」です。具体的には、近所の猛犬だとか、ヒステリー症の奥さんだとか、意地悪な上司が、その対象になります。しかし、これらは「恐怖」の原因が良く分かっているのだから、対処することが可能です。犬には毒を盛り、奥さんとは離縁し、会社には辞表を出せば良いのです。つまり、これらの「恐怖」は、何らかの対処をすることで、根絶することができるのです。・・・だからって、犬に毒を盛って良いわけではないですがね。もしかすると、この世の犯罪行為の多くは、自らの「恐怖」を反社会的な方法で解決したのに過ぎないのかもしれません。

 この世界の「恐怖」が、みな、この種のものであるなら、「恐怖」自体が、歴史の流れとともに完全に根絶されたことでしょう。今は無理でも、理論的には将来、根絶できるはずでしょう。しかし、現実にはそうなっていません。そうなる目処も立ちません。その理由は、もう一種類の「恐怖」にあるのです。

 すなわち、「目に見えない(=未知の)恐怖」です。これは、人間が持つ「想像力」が根底にあります。未知な存在や未知の概念によって自分の生存やアイデンティティを脅かされる「恐怖」。これは、人間に想像力があるかぎり、永遠に根絶できない「恐怖」なのです。

 人類は、まず「目に見える恐怖」を克服しようとします。しかし、この過程で「未知の恐怖」も増えていきます。人類は、こうした「未知の恐怖」を克服するため、生活圏を拡大し、科学を進歩させるのですが、その結果、「未知の恐怖」は「目に見える恐怖」へと変化し、容易に克服されるというわけです。しかし、その事が新たな「未知の恐怖」を招き、しかも予想される惨禍を大きくさせたことは、皮肉と言っても良いでしょう。

 それでは、人類史に沿って、時系列的にこの皮肉な状況を見ていきましょう。

 

 

 3.未知の世界の「恐怖」

    弱小な哺乳動物として、その歴史をスタートさせた人類は、まず、周囲の猛獣の「恐怖」にさらされます。でも、これらは、群れを作って火を用いることで克服できるような「目に見える恐怖」でした。人類は、この恐怖を克服することで、万物の霊長へと成長していったのです。

  「目に見える恐怖」との戦いは、神話や昔話によく登場します。人類の生活圏の拡大は、さまざまな外敵との抗争を引き起こしました。深山幽谷に住む妖怪変化や、森に潜む巨人やドラゴンとの戦いです。これらの物語は、楽観的でヒロイックなものが多いです。スサノオはヤマタノオロチを倒し、源頼政は鵺を射殺し、ペルセウスは妖女ゴーゴンの首を撥ね、ジークフリートはドラゴンを血祭りに上げるのです。これは、人類が自然と戦い、猛獣たちを屈服させて行く過程とシンクロしています。「目に見える恐怖」は、必ず克服される。だからこそ、妖怪やドラゴンとの戦いの物語は、楽観的なものが多いのです。

 しかし、我々が住んでいるこの世界には、人間の活動能力の限界を超えた領域が存在します。すなわち、海底や地底、大宇宙、そして時間。これらの領域は、「未知の恐怖」の対象になります。ですから、現在でもこれらの領域を扱ったホラーが、数多く存在するのです。海の底から迫り来る怪物をテーマにした、スティーブン・スピルバーグ監督の『ジョーズ』。宇宙空間での異生物との戦いを描いた『エイリアン』シリーズ。あるいはアメリカのテレビシリーズ『Xファイル』。

 これと似たテーマでもっと深刻なのは、「人類の叡智を超越した、闇の世界からの恐怖」です。すなわち、この世には人類の世界とは別種の異世界が存在し、そこの住人が悪意をもって侵入してくるという内容です。アメリカの作家H・P・ラヴクラフトは、こうした異世界テーマの第一人者でした。彼が敷いたこのレールは、「クトルー・リトル神話」と呼ばれ、今でもその後継者たちによって語り継がれています。日本では、永井豪の『デビルマン』や『魔王ダンテ』が、この世界の空気をうまく伝えていると思います。

 こうした異世界の恐怖は、どうしても根絶することは出来ません。そういう意味では、古くて新しいテーマと言うことが出来るでしょう。

 

4.悪魔との戦い  

  さて、これまでは未知の生活圏の恐怖がテーマでした。

 しかし、人類には既知の生活圏内においても、どうしても克服できない恐怖が付きまといます。たびたび襲い掛かる地震や噴火などの天災、疫病です。昔の人は、これらの原因を科学的に理解することができず、従って解決できなかったのです。この未知なるものへの「恐怖」が、神や悪魔、亡霊や怨霊といった存在を生み出したのです。人類は、これらを敬い供養を重ねることで、「未知の恐怖」を克服できると信じるしかありませんでした。

 すなわち、「宗教」という文明史のスタートは、「恐怖」が生み出したものだったのです。そういう意味では、人類の歴史は、「恐怖を克服するための歴史」と言い換えて良いのです。

 近世に至るまで、天災や疫病や精神病といった「目に見えない恐怖」は、悪魔や怨霊の仕業と信じられていました。

 ところで、悪魔と怨霊には根本的な違いがあります。

 悪魔は、主にキリスト教やイスラム教といった一神教世界に登場する存在であり、唯一神と対立する概念です。神=善、悪魔=悪と考えるのが一番簡単なのですが(ゾロアスター教ではそうなっている)、キリスト教世界などでは、神と悪魔はしばしば混然としています。人間の態度いかんで、神が悪(=天罰)を為すこともあるからです。

 欧州のキリスト教会では、悪魔は人間の心の弱さに付けこんで、心を腐らせる邪悪な存在であると教えていました。庶民は、教会に縋り正しい信仰を守ることを怠れば、弱い心が悪魔に食われてしまい、神の御許に辿り着けなくなるというのです。つまり悪魔は、個人の信仰を揺るがせる「恐怖」なのです。天災や疫病は、むしろ、人間が悪魔に負けて正しい信仰を失ったことに対する「神が下した天罰」と考えるのです。

 そして悪魔は、信仰の力で撃退はできるものの、根絶することは出来ない存在です。一神教世界の悪魔は、神と表裏一体の概念だからです。

 ゲーテの『ファウスト』は、悪魔を描いた傑作です。主人公の学者ファウストは、老齢になって「本当の人生の満足」を得ていないことに気づきます。悩み苦しんだ彼は、悪魔メフィストと、ある契約を結びます。悪魔が彼に「本当の人生の満足」を与えてくれるのなら、魂を悪魔に献上するというのです。様々な冒険を経て、ついに本当の幸せを知ったファウストは、心からの満足とともに地獄に落ちるのです。

 信仰よりも、人生の満足を優先させたファウストは、ある意味で、近代の先駆者だったのかもしれませんね。

 このように、悪魔が登場する物語は、人間の実存を巡る哲学的なテーマが多いようです。そして、ほとんどの物語がアンハッピーエンドです。悪魔は退治されず、主人公は堕落するか命を落とすのです。

 ウイリアム・フリードキン監督の『エクソシスト』(1974)は、悪魔祓いの物語です。主人公のカラス神父は、少女リーガンの体内に巣食う凶悪な悪魔を撃退するのですが、自らは命を落とします。ショッキングな悪魔描写が話題を呼び、1970年代のホラーブームを生んだ傑作です。

 ロマン・ポランスキー監督の『ローズマリーの赤ちゃん』(1968)は、さらにショッキングな映画です。ファウストと同様、悪魔に心を売り渡す物語なのですが、悪魔と契約を交わすのは主人公ではなく、その夫なのです。夫は、事もあろうに、自分の商売の成功と引き換えに、妻の肉体を悪魔に捧げるのです。やがて妊娠した彼女の赤ちゃんは・・・。物語は、常に妻の視点で語られるので、幸せな家庭生活に不安と恐怖が忍び寄っていく様子が、実に上手に描かれていました。個人的には、『エクソシスト』よりもこちらの方が恐かった。

 大ブームとなった『オーメン』シリーズは、そういう意味では物足りないですね。何の意味付けも無く、アメリカの一般家庭に悪魔の子供ダミアンが生まれ、その子が成長するにつれて周囲に惨劇が起きていくのですが、最後は大統領になろうとしたところを秘密教団に倒されてしまうのです。悪魔ものに付き物の、心の葛藤があまり描かれていないので、少々物足りない内容だと思いました。

 以上、紹介したのは、いずれもキリスト教の悪魔の物語です。ユダヤ教やイスラム教は、偶像崇拝を禁止しているので、神や悪魔を映像化できないからです。しかし、仮に映像化するとしたら、だいたい同じような内容の作品が出来ることでしょう。同じ一神教なのですから。

 

5.怨霊との戦い  

  まず、怨霊とは何か?それは、恨みを呑んで死んでいった人の霊魂です。怨霊は、一神教世界の悪魔と異なり、個別的で具体的な存在なのです。

 東洋世界では、怨霊は、恨みを晴らすために仇の命を付け狙い、あるいは天災や疫病を引き起こす邪悪な存在だと考えられていました。これを退治する方法は、供養を重ねて怒りを和らげることで、成仏してもらうしかありません。あるいは、仇討ちを成就させてあげるしかありません。

 日本の怪談は、その殆どが怨霊との戦いがテーマです。『耳なし芳一』、『番町皿屋敷』、『四谷怪談』、『牡丹燈籠』は、恨みを呑んで満たされずに死んでいった者たちが、成仏するために、あるいは仇を討つために、人間世界を脅かす物語でした。

 最近ヒットした鈴木光司の『リング』シリーズも、DNAなどといった現代的なタームを散りばめていますが、その成功の最も重要な要素は、ヒロイン(?)山村貞子の「怨霊」物語がベースにあることは明白です。しかし、どうやら作者本人は、こうした己の作品の本質に無自覚なようで、最近は何か勘違いしているのでは?と思います。

 さて、日本の怨霊ホラーは、姿を変えて、推理小説のジャンルでも息づいています。

 大ブームとなった推理小説と言えば、やはり横溝正史の「金田一耕助シリーズ」でしょう。でも、この作品群は、推理小説としての完成度はあまり高くないと思います。なぜなら、ほとんどの作品において、主人公の金田一探偵は、連続殺人犯人が全てのターゲットを抹殺し終えた後になって、ようやく真相を暴くからです。つまり、金田一耕助は、犯人の意図を未然に挫く事が出来ない無能な探偵なのです。しかし、私はこのシリーズが大好きです。なぜなら、欧米の推理小説とは一線を画した、純和風の魅力に溢れているからです。その理由は、やはり「怨霊」でしょう。これは完全な私見なのですが、「金田一シリーズ」における金田一探偵の本質は、怨霊封じの祈祷師なのだと思います。彼は、全ての惨劇が終った後に、無念にして犠牲となった被害者の魂を「鎮魂」するために存在しているのです。その典型的な例が、大ヒットとなった『八つ墓村』でしょう。

 日本人は、やはり「怨霊」が出てくる物語が大好きなのです。

 最近では、京極夏彦氏の「京極堂シリーズ」がこの路線を走っています。主人公の中禅寺秋彦は、古本屋を営む傍ら、祈祷師の仕事もしています。彼は、やはり物語の最後に登場して事件の真相を明かすのですが、このとき祈祷師の服装で、「憑き物落とし」を行うのです。この人の小説は、とにかく長大で描写が細かいのですが、私は大好きです。

 以上、日本と欧米では、ホラーに対する感覚が違うのです。西洋の悪魔VS日本の怨霊。こういうところに、東西の精神文化の違いが出ていて面白いと思います。

 悪魔や怨霊のパワーは、科学技術の進歩によって弱められ、昔ほどの影響力は持っていません。しかし、今でも悪魔や怨霊の物語が作られ続け、人気を博していることから見て、やはり根絶できない「未知の恐怖」になっているのでしょう。

 

6.三大スター   

  ホラー世界の怪物三大スターといえば、吸血鬼、狼男、フランケンシュタインの怪物の三氏でしょう。いずれも西洋キリスト教世界で創造された怪物ですが、ハリウッド映画の功績(?)によって、世界的な大スターになりました。

 吸血鬼と狼男は、古い時代から西洋の民間伝承にありました。恐らくその伝承の元は、夜中に墓場を徘徊する異常者や狂人の目撃談だったのでしょう。

 吸血鬼を一躍有名にしたのは、イギリスの作家ブラム・ストーカーが著した『吸血鬼ドラキュラ』(1897)です。

 中世ルーマニア貴族・ドラキュラ伯爵の亡霊が吸血鬼となって蘇り、美女の生き血を求めてロンドンに現れます。ドラキュラに襲われた美女は、自らも吸血鬼となって、新たな生贄を求めて彷徨するのです。主人公ジョナサン・ハーカーは、この道の専門家ヘルシング教授とともに、ドラキュラと戦います。ルーマニアのドラキュラ城での死闘の後、ついに彼らは勝利し、吸血鬼を滅ぼすのです。

 あらすじを見てもらえば分かるとおり、これは典型的な「悪魔」の物語です。血をすすられた犠牲者も悪魔になってしまうというのが、かなり斬新なアイデアですけどね。この小説が大ヒットとなった理由は、以下の2点だと思います。

①史実を背景にしていること。

 主人公ドラキュラ伯爵には、モデルがいます。中世ルーマニアに実在した、大公ヴラド4世です。大公というと安っぽいのですが、れっきとしたルーマニア(当時はワラキアといった)の主権者です。この人は、全ルーマニア人の尊厳のために命がけでトルコと戦った英雄として、母国で尊敬されています。しかし、西欧にはこの人の残虐行為ばかりが強調されて伝わりました。トルコ兵捕虜を2万人も串刺しにして処刑したこの殿様は、西欧では悪魔の生まれ変わりとして恐れられていたのです。この人物の渾名は、ドラクル(龍)あるいはツェペシュ(串刺し)でした。最後は、戦場で非業の最期を遂げます。

 このような人物に着目したストーカーのセンスは秀逸です。彼は、吸血鬼の正体を、この悪魔的な人物の亡霊と位置付けることで、物語に厚みと深みを持たせたのです。

②セックスの暗喩

 ストーカーの最大の成功理由は、ホラーに性描写を持ち込んだことでしょう。吸血行為は、夜這いとレイプの暗喩です。犠牲になった女性が、やがて吸血鬼の一味となるのも、男女の営みの臭いを感じます。読者は、この小説を読むことで、恐怖感と同時に官能も刺激されるというわけです。このように、成功したホラーは、しばしばセックスの暗喩が散りばめられています。読者の2つの煩悩を同時にくすぐるのは、実に巧みな作劇術だと思います。

 『ドラキュラ』の構成に影響を与えたジョゼフ・レ・ファニュの『吸血鬼カーミラ』(1872)には、かなり露骨なレズビアンの描写が見られます。主人公の少女は、女吸血鬼カーミラを姉のように慕い、彼女に襲われることを喜びとするようになるのです。

 しかし、ハリウッド映画の吸血鬼ものは、こうした官能面での書き込みが弱い気がします。もっとも、現代ではみんな刺激的な性描写に慣れっこですから、吸血鬼の吸血行為を見たって、官能をくすぐられたりしないのでしょうねえ。

 さて、狼男です。狼男のブームは、小説ではなく映画によって火を点けられました。満月の夜に狼に変身する怪物のイメージは、やはり男性の性欲を反映しているようで、やはりこれが成功の理由だったのだと思います。

 それでは、フランケンシュタインの怪物はどうか?これには、あまりセックスの臭いは感じません。原作小説の作者が、女流作家のメアリ・シェリーだからでしょう。この小説の成功の背景には、当時人類に忍び寄りつつあった新たな「恐怖」があります。

 それは、「科学の恐怖」です。

 

7・科学の「恐怖」 

  良く誤解されているのですが、フランケンシュタインというのは、怪物の名前ではありません。怪物を生み出した科学者の名前なのです。ですから、あの怪物は「フランケンシュタインの怪物」と呼ぶのが正しいのです。

 若き天才科学者フランケンシュタインは、壮大な野望に挑みます。すなわち、「自らの手で人間を造ろう」としたのです。神の業を越えようとしたのです。処刑された犯罪者の死体を盗み出した彼は、足りない部分を墓場の死体で補い、ツギハギだらけの人造人間を組み立て、電気ショックでこれを蘇らせることに成功します。しかし、蘇った死体を見たフランケンシュタインは、神を恐れぬ自らの行為が急に恐ろしくなり、怪物を研究所から追い出すのです。野山を放浪する怪物は、本当は心の優しい寂しがり屋でした。次第に知性を身につける彼ですが、しかしその醜さゆえに多くの人々に憎まれ、恐れられ、惨い仕打ちを受けるのです。復讐を誓った怪物は、フランケンシュタインの家を探し当て、その家族と恋人を惨殺するのです。フランケンシュタインは、愛する人たちの仇を討つべく、行方をくらました怪物を倒すために世界を旅しますが、とうとう厳寒の北極で力尽きます。北極探検隊の隊長に彼が言い残した最期の言葉、それは、「過度の科学の追及が、人類を不幸に追いやるだろう」という予言だったのです。

 当時の西欧は、急激に進む科学技術の発展によって、人々の信仰心が揺らいでいました。シェリーは、ここに人類のアイデンティティーの危機を感じ取ったのでしょう。

 科学が必ずしも人間を幸せにしないというテーマは、スティーブンソンの『ジキル博士とハイド氏』にも現れてきます。この作品は、人格を二つに分裂する薬を発明した科学者の不幸がテーマです。温厚な紳士ジキル博士は、夜になると凶悪な犯罪者ハイド氏に変身してしまうのです。現実の「二重人格」の問題も髣髴させる、骨太の作品でした。

 しかし、現実の科学は、そんな西欧人のアイデンティティーなど問題としないほど、激しく野蛮に進化していくのです。

 広島と長崎を消滅させた2つの爆弾は、全人類を新たな恐怖に叩き込みました。

 すなわち、核爆弾と放射能の「恐怖」です。

 

8.核爆弾と放射能

  第二次大戦後、米ソ両国を中心とした核兵器の開発競争は、全人類を恐怖のどん底に叩き込みました。指導者のボタン一つで、全人類が死滅する危機に見舞われたのです。

 この恐怖は、小説や映画の世界に大きな影響を与えました。『渚にて』(1959)、『博士の奇妙な愛情』(1964)は、まさに核戦争によって人類が滅亡する物語です。これは、単なるSFではなく、現実に起こりうる生々しい出来事がテーマでした。だからこそ、あれほどの大ヒットとなったのです。

 一方、このころの恐怖映画界では、「放射能によって巨大化した生物」が大活躍していました。アメリカの銀幕では、蜘蛛やら蟻やら古代の恐竜やらが、放射能を浴びて巨大化し、やたらと人間に襲い掛かっていたのです。

 アメリカ映画『原始怪獣現わる』(1953)は、怪獣映画のパイオニアでした。アメリカ軍の北極での核実験によって太古からの眠りを覚まされた恐竜レドサウルスは、かつて彼らの産卵場であったニューヨークに現れて大暴れしますが、最後は軍隊の特殊兵器によって倒されるのです。

 この作品と符牒を合わせるかのように製作されたのが、日本の『ゴジラ』(1954)です。世界で唯一の被爆国である日本は、戦後になってからも第五福竜丸事件(アメリカ軍のビキニ岩礁での核実験に日本の漁船が巻き込まれ、船員が死亡した事件)などの痛手を受け、核と放射能の恐怖に打ち震え、怒りを感じていました。その思念が結晶した映画こそ、本多猪四郎監督の『ゴジラ』だったのです。

 アメリカの原爆実験で眠りを覚まされた古代の水棲怪獣ゴジラは、船舶を襲いながら東京に上陸し、街を壊滅させます。天才科学者芹沢は、彼が開発した新兵器オキシジェン・デストロイヤーでこの巨大な敵に立ち向かい、自らの命と引き換えにこれを葬り去るのでした。

 この映画が世界的な大ヒットとなった理由は、アメリカの怪獣映画と異なり、生々しいリアリティに満ちているからです。ゴジラの襲撃シーンは、戦時中のB29の襲来を彷彿とされる演出がなされ、ゴジラの撒き散らす放射能で被爆した人々の苦しみも鮮明に描かれます。つまり、怪獣ゴジラは、実際に日本が体験した「恐怖」のメタファーなのです。だからこそ、チャチな着ぐるみの怪獣にも拘らず、重厚で肉厚の映画に仕上がったのです。

 『ゴジラ』は、シリーズ化され、現在でも続いているようです。しかし、「時代性」を失った映画をいつまでも作り続けて何の意味があるのか?このシリーズが「子供向けの能天気な映画」に堕してしまったのは、とても残念です。

 なお、アメリカも1998年に『ゴジラ』を製作しましたが、CGをふんだんに使っただけの能天気な映画になっていました。当時の日本のような苦しみを味わった経験のない国に、何かを期待することが間違いなのかもしれません。

 

 9.疫病の「恐怖」 

  さて、ホラー映画の世界は、1968年に入って新たなヒーロー(?)を生み出しました。

 アメリカのジョージ・A・ロメロ監督の『ナイト・オブ・ザ・リヴィングデッド』です。この映画では、蘇った死者たち(ゾンビ)が、人間の生肉を求め、群れをなして襲い掛かって来ます。ゾンビに噛まれて死んだ人間は、自らもゾンビになって蘇るのです。これって、なんとなくドラキュラのパクりという気もしますが・・・。

 このゾンビが、吸血鬼や放射能怪獣と決定的に異なる点は、元は普通の人間だった存在が、原因不明のままに死者となって理性を失い、しかも群れをなして襲ってくるという点です。

 無言のまま音もなく物陰から襲ってくるゾンビは、あたかもべトコンのようであり、ベトナム戦争でアメリカが陥った恐怖のメタファーだったのです。

 この低予算映画は、予期せぬ大ヒットとなり、1979年に2作目の『ゾンビ』、1985年に3作目の『死霊のえじき』が封切られます。また、イタリアでも亜流映画が多く製作され、ゾンビは、まさに一世を風靡する大スターになったのです。

 ゾンビがこれほどまでに流行した理由は、当時、人類を覆いつつあった新たな恐怖にあるのです。すなわち、「疫病の恐怖」です。この当時、アフリカの奥地から、エイズやエボラといった新種のウイルスが発見され、これが全世界をパニックに陥れていました。ゾンビが撒き散らす集団的な伝染性は、まさにこうした恐怖を体現していたのです。

 良く似たテーマを扱ったのが、ジョン・カーペンター監督の『遊星からの物体X』(1982年)です。これは、アメリカの南極越冬隊が異星人に襲われるというテーマです。異色なのは、異星人(THE     THING)が不定形生命体であり、人間の体を次々に乗っ取っていく点です。主人公たちは、隣にいる仲間がまだ人間なのか、あるいはそうでないのか、疑心暗鬼にかられます。彼らは、人類を「感染」の危機から救うために、異星人の正体を見破って、これに決死の戦いを挑むのでした。これも、伝染病テーマの傑作と言えるでしょう。

 伝染病そのものを描いた作品としては、マイケル・クライトンの小説『アンドロメダ』、小松左京の『復活の日』、テリー・ギリアムの『12モンキーズ』などが有名です。

 伝染病の恐怖は、未だに癒える事がありません。近年では、日本でも狂牛病騒ぎが起きていますしね。

 科学の進歩は、疫病の恐怖から人類を救済することが出来ないのでしょうか?いや、科学の進歩こそが、人類を新たな疫病の恐怖に直面させているのかもしれません。遺伝子工学の進歩によって、既存の疫病がさらに強化されたり、あるいは新種のウイルスが生み出されていく恐怖は、既に『復活の日』や『アウトブレイク』の中で描かれているとおりです。

 現実にも、アメリカで猛威を振るう炭素菌は、バイオテクノロジーで強化されたもののようです。科学の進歩は、人類をますます幸福から遠ざけているのかもしれません。

 

10.隣人の「恐怖」

 近代の急激な都市化の進展は、人間を孤立させ、見知らぬ他人の坩堝の中に放り込みました。このことが、新たな恐怖を生みます。「隣人の恐怖」です。

 このテーマの嚆矢となったのは、アルフレッド・ヒッチコック監督の『サイコ』でしょう。モーテルを営む平凡な青年ノーマン・ベイツは、実は稀代の殺人狂だったのです。優しそうな顔をした平凡な隣人が、実は殺人狂だったという恐怖は、実話を元にしたこの映画の大ヒットによって、世界を暗く覆うのでした。

 ジョナサン・デミ監督の『羊たちの沈黙』が、サイコキラーをテーマにした映画として異例のアカデミー賞に輝いたことは、未だに記憶に新しい出来事です。その続編の『ハンニバル』も、大ヒットでしたね。

 こうしたサイコキラーものは、今でも手を変え、品を変えして作られています。都市の孤独と隣人の恐怖は、おそらく永遠に癒えることは無いでしょう。

 

11.総括をしましょう。

  以上、テーマ別に「恐怖」の歴史を見てきました。

 人類は、「恐怖」を克服するために智恵を磨き、自然を克服し、科学を進歩させて来ました。猛獣や異民族を倒すために武器を強化し、疫病を克服するために医学を進歩させ、悪魔や怨霊を撲滅するために宗教や科学を発達させてきたのです。

 しかし、「未知の恐怖」を根絶できないがゆえ、どんなに必死に努力をしても、決して「恐怖」そのものを無くすことは出来ません。

 それどころか、文明の巨大化によって、古代ではとても考えられなかった新たな「恐怖」が、次々に人類に襲い掛かっています。

 それでも、人類は進歩を止めることが無いでしょう。なぜなら、進歩こそが「恐怖」を克服する唯一の手段だと信じているからです。その進歩は、従来の「恐怖」を撲滅し、そして新たに、もっと深刻な「恐怖」を生み出していきます。

 まるで、籠の中をいつまでも駆け回るハツカネズミ。

 しかし、これこそが、人類という種が持つ「業」なのでしょう。

 「恐怖」の歴史を探求してきて気づいたこと。それは、人類は、みんなが思っているほどには、気高くも賢くも無い、小さな弱い存在なのかもしれないということでした。

 

 

終わり

この論文は、1996年に、朝日監査法人歴史研究部で発表したものの増補改訂版です

ページ上部へ