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歴史論説集

概説 日露戦争

7.黒溝台と奉天

(1)ロシア満州軍の逆襲

(2)補給路を巡る戦い

(3)奉天会戦


 

(1) ロシア満州軍の逆襲

 そのころ日本満州軍は、遼陽北方の沙河周辺でロシア軍と対峙していました。

 日本軍は、遼陽の戦いで武器弾薬を使い果たしたために、補給を待たなければなりませんでした。また、大幅な兵員不足に襲われたため、乃木第3軍の到着をひたすら待ち続けるしか無かったのです。

 しかし、対するロシア軍は、ヨーロッパから増援を得て著しく強化されていました。自信を付けた彼らは、反撃の機会を虎視眈々と狙うようになります。

 「沙河会戦」(10月10~17日)は、ロシア軍の最初の猛反撃でした。日本軍は大きな損害を受けながら、なんとかこれを撃退するのでした。ロシア軍22万のうち死傷者は4万。日本軍12万のうち、死傷者は2万。

 その後、季節が冬になると、疲れきった日本軍は油断するようになります。ロシア軍がこの寒さの中を攻めてくるとは思わなかったのです。正確に言うなら、ロシア軍に攻めて来て欲しくなかったものだから、そういう風に無理やりに思い込んだのです。希望的観測に縋り付いて抜本的対策を講じない悪癖は、現在でもいたるところに見られる日本人の短所ですね。

 しかし、日本人とロシア人とでは、「寒さ」の概念が全く違います。満州南部の冬季の気温は、平均して零下20度だったのですが、日本兵にとって驚異的だったこの寒さも、零下30度の中で生活してきたロシア兵にとっては寒さのうちに入りません。

 こうして、ロシア軍の逆襲が開始されました。10万もの大軍が北方から回り込み、そして日本軍を包囲殲滅しようとしたのです。「黒溝台の戦い」(1月25~29日)です。これは完全な奇襲となり、油断していた日本軍は各地で撃破されました。

 満州軍司令部で、児玉参謀長と松村参謀長はパニックに陥りました。そんな彼らは、敵に突破された地帯に、増援兵力を逐次投入するという愚を犯したのです。

 そんな不利な情勢だったにもかかわらず、日本軍が全滅を免れたのは、幸運以上の何者でもありません。ロシア軍司令部で、派閥抗争が勃発したのです。

 モスクワのロシア政府は、クロパトキン司令が頼りないものだから、グリッペンベルグ大将を梃入れに派遣しました。そして、黒溝台の反撃作戦を立案指導したのは、この新参将軍だったのです。もしもこの作戦が成功したら、クロパトキンはその地位を追われてしまうことでしょう。焦ったクロパトキンは、グリッペンベルグの足を引っ張るような命令を乱発したのです。その結果、ロシア軍は当初の奇襲効果を生かすことが出来ず、あちこちでモタモタして攻撃を手控えているうちに、日本軍が戦線の穴を繕うことに成功してしまったのでした。

 身内に足を引っ張られて作戦を挫折させられたグリッペンベルグは、やる気をなくして本国に引き上げてしまいました。こうして、クロパトキンはその地位を保全することに成功したのです。良かったね。でも、戦場は哀れなロシア兵1万名の死体でいっぱいだ。

 このときのロシア軍の様相は、太平洋戦争のときの日本軍に良く似ていますね。あのときの日本軍も、陸軍と海軍が派閥抗争に夢中になって、貴重な資源や兵力を分散させるという愚を犯しました。腐朽官僚組織というものは、いつの時代でもどこの国でも同じなのかもしれません。

 戦場では、よりミスの少ない方が勝利を得ます。そして、ロシアのミスが日本のそれを上回ったために、「黒溝台の戦い」は日本軍の栄光の一つとなったのです。

 こうして、再び戦線は膠着状態に陥ります。

 

(2) 補給路を巡る戦い

 満州の日露両軍は、冷たい睨み合いを続けながら、互いの補給路を破壊しようと狙います。両軍の生命線は、一本の鉄道でした。兵員も医薬品も武器弾薬も、東清鉄道を用いて輸送されていたのです。

 日露両軍は、快速の騎兵部隊を編成して敵の後方に送り込み、鉄道を爆破しようと試みました。しかし、あまり効果はありませんでした。

 ロシアの騎兵隊は、しばしば平野部を走る鉄道を破壊したのですが、日本の工兵隊はこれを簡単に修復してしまいました。 一方の日本の騎兵隊は、そうなるだろうと予想して、鉄橋爆破を積極的に狙って行きました。鉄橋なら、簡単に修理できないからです。しかし、兵力にゆとりがあるロシア軍は、鉄橋のような重要拠点には、常時1万名もの兵力を貼り付けて見張っていたのです。わずか数十名の騎兵隊では太刀打ちできず、こうして日本の破壊工作も空振りに終わったのでした。

 日本軍の特殊部隊の中には、長躯シベリアに侵入してシベリア鉄道を爆破しようと狙った者もいましたが、これも敵の厳重な警備によって失敗に終わったのです。

 戦場において、もっとも重要なのは補給です。このころの日本軍は、そのことを良く知っていたのです。それが、この40年後の戦争では完全に忘れられてしまったのは、実に奇妙な現象ですね。

 ところで、ロシア軍には、まだまだ日本軍の補給線を破壊するチャンスがありました。ヨーロッパの艦隊が、「第2太平洋艦隊(通称バルチック艦隊)」となって日本目指して出航していたからです。この艦隊が無事に戦場に到着すれば、日本のシーレーンを断ち切ることも可能だと思われていました。島国である日本は、常にこういった地勢上のハンデを背負っているのです。

 

(3) 奉天会戦

 このころ、日本の国力は限界に達しようとしていました。戦場では寒さや疫病による病人が続出し、内地では重税に苦しむ国民の悲鳴が響き、そして工場では武器弾薬の増産も間に合わない。このままではジリ貧になってしまいます。

 そんな中、ようやく乃木第3軍との合流を果たした満州軍は、ロシア軍主力に最後の決戦を挑みました。これが「奉天会戦」(2月22日~)です。日本軍24万9千に対し、ロシア軍36万7千。これは、世界戦史上最大規模の激突でした。

 奉天に陣取るクロパトキンは、時間をかけて緊密な要塞を築き上げ、そして万全の態勢で日本軍を迎え撃ちました。

 日本軍は、新編成の鴨緑江軍が右翼から、乃木第3軍が左翼から進撃し、奉天市を両翼から包囲するという作戦を立てました。この地でロシア軍を包囲殲滅しようというのです。

 しかし、兵力はロシア軍の方が遥かに上だし、奉天を中心に堅固な陣地を敷いています。日本軍は、当然ながら苦戦に陥りました。

 鴨緑江軍はロシア軍の厚い壁に阻まれてその歩調を緩めます。正面攻撃の第2軍と第4軍も、強力な敵の防塞によってなぎ払われていきました。こうなったら、頼みの綱は左翼の乃木第3軍です。その第3軍も、必死に進撃を試みるものの、激しい損耗を受けてその勢いは鈍る一方でした。

 このとき、奇跡が起きました。ロシア軍が戦意を喪失し、ついに退却を開始したのです。その原因については様々な説がありますが、クロパトキン大将が誤断をしたという説が最有力です。

 まずクロパトキンは、日本軍の予備戦力を過大評価していました。日本軍が損耗を恐れずに無茶な攻め方を繰り返すのは、人的資源に余裕があるからだと思ったのです。そしてクロパトキンは、旅順を落とした乃木第3軍の実力についても過大評価していました。そんな彼は、戦いの初期段階から第3軍をマークしていたのです。ところが、彼は右翼の鴨緑江軍を左翼の第3軍と勘違いし混同していました。そして、戦いの中盤になってそのことに気づき、激しいショックを受けて思考停止状態になったのです。このままでは、今までノーマークにしていた第3軍に横腹を衝かれてしまうのではないか?

 実際には、日本軍はほとんど予備戦力を持っていませんでした。奉天会戦は、一か八かの大勝負だったのです。また、乃木第3軍は旅順でのダメージから回復しきれておらず、クロパトキンの心胆を寒からしめるほどの威力は持っていなかったのです。

 ともあれ、弱気になったクロパトキンの命令一下、ロシア軍は奉天から撤退し、日本軍はこの会戦に勝利を収めることができたのです(3月10日)。

 日本軍の死傷者数7万。ロシア軍の死傷者は9万、そして捕虜2万1千。

 この勝利は、「クロパトキンが弱気な指揮官だった」という一事に大きく依存していました。どうして彼は、こんなに弱気だったのか?その理由は、彼がかつて、陸軍大臣として日本を視察したときに、その国力を非常に高く評価し、強い親日感情を抱いたことに原因があるようです。クロパトキンは、もともと日本との戦争自体に反対だったのです。それでは、ロシア政府は、どうしてそんな親日的な人物を満州軍の司令官に据えたのか?それは、極めて官僚的な年功人事によるものでした。腐朽官僚組織と堕したロシア帝国は、もはや「適材適所」という概念を忘却していたのです。これは、40年後の日本帝国とまったく同じことです。

 しかし、日本軍は勝利したとはいえ、奉天会戦の最大の目的であった「ロシア軍主力の包囲殲滅」に失敗しました。ロシア軍主力は、結局逃げてしまったので、この戦いで致命的ダメージをロシアに与えて講和会議のテーブルに引きずり出すという政略は空振りに終わったのです。

 アメリカ大統領ルーズヴェルトは、既に旅順要塞陥落時にロシア政府に「和平仲介」を申し入れていましたが、これはあえなく却下されました。そしてルーズヴェルトは、奉天の陥落を知って再び動いたのですが、ロシア政府は「我が国は、まだ固有の領土を奪われたわけではない」と言って突っぱねたのです。

 ロシア軍は鉄嶺、続いて長春に撤退し、日本軍はそれを懸命に追撃しました。しかし、もはや予備戦力を使い果たした日本軍には、再度の決戦を挑む力は残されていなかったのです。互いに陣地を築いて睨み合う両軍は、互いの海軍の活躍に期待を置くしかありませんでした。

 その間、バルチック艦隊は、刻一刻と日本本土に迫りつつありました。

 全世界の耳目が、この艦隊に集中しました。

 日本が講和のテーブルにロシアを引きずり出すためには、この艦隊との決戦に何が何でも勝利しなければなりません。

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