歴史小説家 三浦伸昭の歴史ぱびりよん

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歴史論説集

概説 日露戦争

8.日本海海戦

(1)バルチック艦隊の回航

(2)バルチック艦隊の進路は?

(3)日本海大海戦


 

(1) バルチック艦隊の回航

 ロシア帝国は、ヨーロッパ方面に二つの艦隊を持っていました。すなわち、バルト海艦隊(バルチック艦隊)と黒海艦隊です。バルチック艦隊は、ドイツ海軍の攻撃からペテルブルクを守るための備え、黒海艦隊はトルコに対する備えでした。

 さて、日露戦争の勃発によって、東アジアの海軍が窮地に陥ったことを知ったロシア政府は、バルチック艦隊を「第2太平洋艦隊」と改称し、これを極東に回航させようと考えます。指揮官に選ばれたのは、大官僚のロジェストヴェンスキー中将でした。

 この艦隊は、1904年10月15日、皇帝に見送られてクロンシュタット港を出撃。バルト海から大西洋を南下し、南アフリカの喜望峰経由(一部の小型艦はスエズ運河経由)でインド洋に入り、マラッカ海峡からベトナム沖を北上し、そして旅順に入る予定でした。世界史上、類例を見ない長期の戦闘航海です。これに匹敵するのは、宇宙戦艦ヤマトのイスカンダル星への戦闘航海くらいのものでしょうか(笑)。

 この艦隊の航海は、苦難に満ちたものとなりました。その最大の理由は、世界各地に植民地を持つイギリスが様々な妨害工作を行ったからです。イギリス領への寄港を拒否されたバルチック艦隊は、しかたなく数少ないフランス領の港湾に入るのですが、そこでも様々な「外交圧力」がかけられて、短日のうちに港外に追い出されてしまう始末。こうして、ろくに休養も取れず、訓練も受けられないこの艦隊の戦力は、日増しに低下して行きました。水夫の中には、発狂者も出たといいます。

 しかし、日本政府には、そのような実情は分からない。バルチック艦隊の影に怯える政府が、乃木第3軍の尻を叩いて旅順を屍の山に変えたのは、これまで述べたとおりです。

 さて、バルチック艦隊は、旅順の陥落をアフリカ東部のマダカスカル島(12月29日入港)で知りました。このとき、全艦に衝撃が走りました。旅順の陥落は、この戦闘航海の根本的意義を見失わせるものだったのです。なぜなら、バルチック艦隊は、旅順艦隊と合流することで日本海軍に対して圧倒的な数的優位を確保して、シーレーンを破壊し、満州の日本軍を飢えさせることを目的としていました。ところが、バルチック艦隊は、旅順艦隊が全滅した今となっては、単独で日本海軍と戦わなければなりません。そして、イギリス製の高性能艦を多く擁する日本海軍と正面衝突して勝てるとは思えないのです。

 艦隊司令ロジェストヴェンスキーは、本国に作戦中止を具申しました。このまま進み続けても犠牲が増えるだけだと。

 しかし、本国政府はまったく違うことを考えました。彼らは、バルト海の残存艦隊から退役間近の旧式艦を抽出し、これを「第3太平洋艦隊」と名づけてロジェストヴェンスキーの後を追わせました。増援を行うことで、日本海軍に対する数的優位を確保させようというわけです。

 この計画は、理屈の上では良策のように思えますね。しかし、退役間近の旧式艦など、戦場では足手まといにしかなりません。また、増援の到着を赤道直下で待つ数ヶ月間で、ロジェストヴェンスキー旗下の将兵の疲労はますます激しくなったのです。先祖代々厳寒の地で暮らしてきたロシアの白人青年たちが、足掛け3ヶ月もの間、熱帯の太陽の下に置き去りにされた状況を想像してみてください。

 一方、その数ヶ月間で、他に仕事が無くなった日本海軍の整備と休養と訓練は、十分過ぎるほどに整っていました。

 バルチック艦隊の増援策は、会議室に篭って現場を知らない腐朽官僚の考え付きそうな愚策だったのです。ああ、なんと40年後の日本軍の様相に似ていることか。

 しかし、愚直なロジェストヴェンスキー提督は、本国の命令に従わざるを得ませんでした。彼は、増援の動きを見据えながら、3月17日にようやくマダガスカルを出港し、インド洋を一気に突破。そしてマラッカ海峡を抜けて、4月14日、仏領インドシナ(ベトナム)に辿りつきました。しかし、この地を領有するフランスは、例によって例のごとく、イギリスの外交圧力に屈してバルチック艦隊を追い出しにかかります。

 ロジェストヴェンスキー提督は、邪魔者扱いされた艦隊をベトナム近海に彷徨させつつ、ひたすら増援艦隊を待ち望むのでした。そんな彼は、5月9日にようやく増援との合流に成功し、その進路を日本へ向けたのです。

 ところで、ロジェストヴェンスキーは、しばしば無能呼ばわりされますが、私はそうは思いません。これほどの過酷な大航海を一隻の脱落者も反乱者も出さずに乗り切った統率力は、実に大したものだと思うのです。彼は、もしも日本海海戦で勝利を収めていたら、「人類史上最高の名提督」と呼ばれていたでしょうね。

 歴史は、常に敗者に不当に厳しいものなのです。

 

(2) バルチック艦隊の進路は?

 日本政府は、イギリスの諜報組織の助けを借りて、バルチック艦隊の動きを継続的にモニターしていました。しかし、カムラン湾以降は、その動きを見失ってしまったのです。

 バルチック艦隊は、航海の疲れを癒すために、まずはウラジオストック港に入港するでしょう。そして、太平洋からウラジオストックに入るのには、大きく分けて2つのルートがありました。一つは、対馬海峡を抜ける西よりのルート。もう一つは、千島列島を抜ける北よりのルート。日本海軍は、このうちのどちらかで待ち伏せしなければなりません。

 東郷提督率いる連合艦隊は、最初は「西よりルート」と考えて朝鮮半島南部に艦隊を集結させていました。しかし、待てば待つほど不安になるもの。敵の情報が全く入らないのだから無理もありません。また、秋山参謀が筮竹占い(笑)をやった結果、「東より」の卦が出たことも艦隊の心理を不安にさせました。秋山真之参謀は、しばしば小説などで美化され過大評価されていますが、かなりの変人だったことに留意すべきでしょう。

 動揺した東郷提督は、大本営に無電を打って、北海道に転進する旨を通告しました。しかし、大本営の伊東軍令部長は冷静な判断力で東郷を宥めて押し止め続けたのです。

 一方、問題のバルチック艦隊は、既に「西よりルート」の突破を決めていました。その理由は、①千島列島は潮流が激しく天候が悪いので、疲労しきった艦隊が無事に航行出来るとは思えない。②全艦隊がウラジオストックまで休息を取れず燃料を補給できない事情を鑑みれば、最短コースの「西よりルート」を進むしかない。

 しかし、「西よりルート」には、強力な日本海軍が待ち伏せしているはずです。そこでロジェストヴェンスキーは、いくつかの偽装工作を行いました。艦隊をわざと沖縄(八重山)の東側に出現させ、旧式巡洋艦を小笠原方面に分離したのです。運が良ければ、この動きに釣られた日本海軍は、バルチック艦隊が千島ルートを辿るものと誤断して、対馬海峡をがら空きにしてくれるだろう。

 しかし、幸運の女神はロシアには微笑みませんでした。八重山には無線設備が無かったので、バルチック艦隊が東岸に出現したとの報は東京まで伝わりませんでした。また、小笠原方面に分離した巡洋艦は、結局、どこの国籍の船舶にも行き会わず、したがってこれに関する情報も東京には流れませんでした。

 それとは逆に、バルチック艦隊から分離された輸送船団が上海に入港したとき、これに関する情報が東京に流れてしまったのです。大本営は考えました。「輸送船団を切り離したということは、ロシア艦隊は最短距離の対馬ルートを採るに違いない」。

 ロジェストヴェンスキーが仕掛けたフェイントは見事に空振りし、そして日本はバルチック艦隊の意図を突き止めることに成功しました。

 こうして、決戦の火蓋が切られます。

 

(3) 日本海大海戦

 バルチック艦隊は、訓練不十分で疲労困憊の水兵に加え、貯蔵庫に納めきれない石炭を甲板に満載した状態で対馬海峡に入って来ました。しかも、その直前に、ロジェストヴェンスキーの副官に当たるフェリケルザム少将が過労で病死するというハプニングもありました。しかしロジェストヴェンスキーは、この人望溢れる有能な副官の死を、水兵たちに秘匿してしまいました。これ以上の士気の低下を避けたかったからです。

 そして、このフラフラでボロボロの艦隊は、たちまち日本の哨戒網に引っかかりました。哨戒艇・信濃丸からの急報を受け、東郷提督率いる日本の連合艦隊は、韓国南部の鎮海湾を出撃しました。時に1905年5月27日午前6時。

 旗艦「三笠」にZ旗が舞い上がりました。意味するところは、「皇国の興廃、この一戦にあり。各員いっそう奮励努力せよ」。秋山参謀は、大本営に無電を打ちました。「本日、天気晴朗なれども波高し」。

 不運なことに、連合艦隊に視認されたバルチック艦隊は、狭い海峡を通るために陣形を変更している途中でした。彼らは、最悪のタイミングで最強の敵に襲われたことになります。

 連合艦隊は、「T字回頭」を敢行しました。すなわち、敵の単縦陣に対して垂直になる形に味方の単縦陣を進め、そこから敵の直前で一斉回頭し、同じ方向(北)に艦隊を走らせながら砲撃を浴びせるというものです。よく誤解されているのですが、これは砲撃戦の戦法ではなくて、「進路の取り方」です。東郷提督と秋山参謀は、昨年8月の黄海海戦のさい、もう少しで旅順艦隊に北に逃げられそうになった嫌な経験があります。しかし、二度と同じ失敗は許されません。そこで、「常に敵と同じ方向に並行して進む」ために考え出されたのが「T字回頭」という航法だったわけです。

 しかし、敵前で進路を変更するとき、軍艦の動きは一時的に静止します。そこを狙い撃たれたら致命傷になりかねません。この冒険をあえて試みたのが、東郷提督の勇気と覚悟です。案の定、全艦の先頭に立つ戦艦「三笠」は、ロシア艦隊の集中砲撃を受けました。しかし、「三笠」はイギリス製の世界最強の装甲を持つ新鋭艦です。直撃を受けても、そのダメージは致命傷にはなりませんでした。ロシア艦隊が、たまたま陣変えの途中だったために有効な砲撃を行えなかったことも幸いしたようです。これぞ、日本の幸運、ロシアの不運。

 袋叩きになりながらも、無事に回頭を終えて敵と並進する形になった連合艦隊。今度は、日本がお返しする番です。東郷提督の戦艦「三笠」「敷島」「富士」「朝日」と装甲巡洋艦「春日」「日進」、上村提督の装甲巡洋艦「磐手」「出雲」「吾妻」「浅間」「八雲」「常盤」らが一斉に砲門を開きました。

 日本の軍艦は、再三にわたって述べたように、世界最強のイギリス製でした。また、日本海軍は、日本オリジナルの伊集院信管や下瀬火薬を用いた高性能砲弾を使用していました。これは、敵艦の装甲を打ち抜くものではなく、甲板で爆発して高熱の炎を撒き散らすことで、敵水兵の活動を停止させてしまうという新兵器でした。

 ロシア艦隊は、たちまち炎をあげて断末魔にあえぎます。不運なことに、旗艦のスワロフが、いきなり大ダメージを受け、総司令官のロジェストヴェンスキーが重傷を負い人事不省に陥ったのです。司馬遼太郎氏は、これを指して「だからロジェストヴェンスキーは無能なのだ!」と評していますが、それはちょっと酷なのでは?

 ロジェストヴェンスキーが倒れたら、副官のフェリケルザムが指揮を引き継がねばなりません。しかし、前述のように、この副官は既に病死していました。しかも、その事実は一部の幕僚にしか知られていなかったのです。こうして、バルチック艦隊の指揮命令系統は海戦劈頭で無力化しました。何という不運!

 日本の軍艦は、ロシアのそれよりも、砲力、機動力、装甲、全てにおいて勝っていました。また、水兵の鋭気と訓練度は、それこそ話にならないくらいに懸絶していたのです。こうして、日本海海戦は一方的なものとなりました。水平な海の上で、同じ距離から大砲を撃ち合うのだから、軍艦の性能と水兵の錬度は、それこそ勝敗を分ける決定的な要素となります。

 陣形も隊形もズタズタにされながら、必死に北を目指すロシア艦隊は、夜になって安心したのもつかの間、魚雷を抱えた日本の水雷艇に襲い掛かられました。夜が明けたら、再び無傷の東郷艦隊に追いかけまわされるのでした。

 退役間近の旧式艦隊(第3太平洋艦隊)は、奇跡的に無傷のまま、戦場で何の役にも立たずに北上し続けたのですが、ついに東郷艦隊に発見され包囲されてしまいました。この艦隊を率いるネボガトフ少将は、ついに降伏を決意します。また、重傷のロジェストヴェンスキー中将は、旗艦スワロフが沈没する直前に、幕僚たちに連れられて駆逐艦に乗って脱出したのですが、日本の駆逐艦に追い回され、やはり降伏したのです。

 時に1905年5月28日、世界海戦史上最大のワンサイドゲームは、こうして終結しました。ロシア艦隊は事実上全滅したのに対し、日本艦隊の損害は海難事故にあった水雷艇数隻に過ぎなかったのです。

 全世界が、この日本の大勝利に沸きかえりました。

 ロシア政府は、意気消沈です。もはや、日露戦争の退勢を挽回する方策は皆無でした。

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