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歴史論説集

概説 日露戦争

9.ポーツマス講和会議

(1)樺太の占領

(2)ポーツマスの旗

(3)日比谷焼き打ち事件


 

(1) 樺太の占領

 アメリカ大統領ルーズヴェルトは、再びロシア皇帝ニコライ2世に講和を持ちかけました。

 ニコライは、「まだロシアの領土が失われたわけではない」と言い募って渋るのですが、その内心では連戦連敗に意気消沈し、また、足元の革命の影に脅えていたのです。

 フランスは、同盟国であるロシアがこれ以上弱体化すると、仮想敵国であるドイツを利するばかりと考えて、ニコライに講和を勧告しました。

 その様子を見ていたドイツも、これ以上戦争が長引くと、仮想敵国であるイギリスが有利になるばかりだと考えて、やはりニコライに講和を勧めました。次第に傾くロシア皇帝の心。

 その間、ルーズヴェルトは金子特使を通じて日本政府にある提案を持ち掛けていました。「ロシア政府は、まだ固有の領土を奪われたわけではないと言って戦争を継続する気だ。だったら、固有の領土であるサガレン(=樺太)を日本軍が占領してしまうべきだと思う」。

 既に日本の戦争遂行能力は限界に達しつつあり、大本営の参謀の多くは、最初のうちはこの提案の実行を渋りました。しかし、「戦争を終わらせるための最後の一踏ん張り」と主張する児玉大将や長岡参謀に説得されて、ついに樺太作戦を発動したのです。

 この間、バルチック艦隊を完全撃破した連合艦隊は、日本近海の制海権を一手に掌握し、ウラジオストックの近郊を艦砲射撃して回っていました。樺太への渡海作戦は、こうした海軍の活躍を前提にしていたのです。

 強力な海軍に護衛された日本陸軍は、あっという間に樺太全土を占領しました。ロシア軍は、この地に部隊をほとんど置いていなかったのです。

 こうして、「固有の領土」を失ったロシア帝国は、とうとう講和会議に応じる決意を固めたのでした。

 

(2) ポーツマスの旗

 ロシア全権ウイッテと日本の外相・小村寿太郎は、アメリカの港湾都市ポーツマスで対決しました。

 ロシアは、日本が要求する「朝鮮半島と遼東半島の権益と東清鉄道の割譲」については簡単に合意しました。

 争点となったのは、「ロシア領の割譲と賠償金」についてです。日本は、樺太の割譲と巨額の賠償金を求めたのですが、ロシア政府は「寸土の領土も割譲できないし賠償金も支払えない」と言い募りました。ロシアはケチだったのではなく、本当にカネが無かったのです。もちろん、これ以上の国家威信の低下を避けたかったという理由もありますが。

 ロシアは、もはやこれ以上戦える状態ではありませんでした。それにもかかわらず強気な態度を崩さなかったのは、政府中枢を牛耳る腐朽軍人官僚(貴族)たちが、景気のいいことを言いふらしてニコライ皇帝を操っていたからです。軍人官僚たちは、自分たちの威信と既得権益を守るために、最後まで戦争を続けるつもりでした。まさに、40年後の日本の様相にそっくりですね。

 もともと、日本側の講和条件は、日本軍圧倒的優位の戦況を鑑みれば、非常に穏当なものでした。全世界のプレスが、その誠実さを賞賛したほどです。また、小村寿太郎の見事な弁舌は、しばしば外交の大家であるウイッテを圧倒するほどでした。

 ウイッテはむしろ、ロシア政府に日本側の条件を飲むように勧奨していました。しかし、タカ派軍人が実権を握る本国は煮えきろうとしないので、ウイッテの苦悶は深まるばかり。「このままでは、祖国は勝ち目の無い戦争をダラダラと続け、革命勃発によって国家が転覆してしまうだろう」。

 一方の日本軍は、人的損耗が激しく、また砲弾の増産も間に合わない状態でした。前線での弾薬消費量は、当初の見積もりの十倍を超えていたのです。満州軍司令官・大山巌は、「ハルピンまで進撃するためには、あと1年以上の弾薬備蓄を待つ必要がある」と本国に具申しました。

 それでも、戦場の日本軍は、単純な戦闘レベルで考えれば、ロシア軍を打倒して進撃できる可能性はあったのです。しかし、これ以上国民を重税で苦しめるわけにはいかないし、これ以上外債を発行して後世の世代に負担をかけてはならない。天皇も政治家も軍人も、みな心からそう考えました。なんという見識の深さでしょうか?

 そこで、講和会議の深刻な対立を知った日本政府は、ポーツマスの小村に「賠償金も領土も諦めて良い」と指示したのです。その電報を受け取ったポーツマスの日本外交団は、悔しさのあまり嗚咽したと言われています。

 このまま行けば、日本側の「完全譲歩」で決着するところでした。

 ところが、ロシア政府は土壇場になって豹変します。ニコライ皇帝が、「樺太南部の割譲を認める」と声明を発したので、その方向で会議はまとまったのです。

 日本は、賠償金を諦めました。

 ロシアは、樺太の南半分を割譲することにしました。

 時に1905年(明治38年)8月29日。こうして、日露戦争は終結の日を迎えたのです。

 

(3) 日比谷焼き討ち事件

 賠償金を得られなかったとはいえ、日本は戦争目的である「朝鮮と満州からのロシア勢力の駆逐」を完全に達成しました。すなわち、大勝利を収めたのです。

 しかし、予想外の人的損害と重税に押しつぶされ、銃後の人々の苦しみは筆舌に尽くしがたいほどでした。そんな彼らは、戦勝によって巨額の賠償金と広大な領土を得られるものと早合点していました。そう考えて、自分たちを慰めていたのです。

 その件については、マスコミ報道にも問題がありました。新聞や雑誌は、日本政府の苦しい台所事情を秘匿し、景気の良い戦勝報道しか流さなかったのです。ただし、その理由は、今日の日本で恒常的に行われているような「問題の隠蔽」ではありません。マスコミ報道によってロシアに日本の苦境を知られてしまうと、講和に応じてもらえなくなる可能性があったので、日本政府は「敵を欺くために味方(国民)を欺く」という苦渋の選択を余儀なくされたのです。

 しかし、事実を知らない国民は納得しません。するわけがない。「大勝利なのに、これだけ大きな犠牲を払ったのに、どうして賠償金も出ない上に領土の割譲もわずかなのだ!」「政府はもちろん、外交団が腰抜けなのに違いない!」という世論が全国に沸き起こったのでした。

 こうして日本全国で愛国集会が決起し、激しいデモ活動が繰り広げられました。日比谷公園でのデモは大規模な暴動となり、警官隊と衝突して交番が焼き払われる事態になりました(9月5日)。

 小村外相は、ポーツマスでの殊勲者であったにもかかわらず、暗殺を恐れてお忍びでひっそりと帰国したのです。

 それにしても、あの当時の日本人はバイタリティがあったんですね。今の日本人は、政府がどんな横暴を通してもニコニコしているし、そもそも選挙にも行きません。H・G・ウエルズの小説『タイムマシン』に出てくるエロイ族のように退化しちゃったのでしょうか?このままではきっと、欧米や中国という名のモーロック族に食い殺されてしまうでしょう。少しは、この当時の覇気を思い出してもらいたいですね。

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