歴史小説家 三浦伸昭の歴史ぱびりよん

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歴史論説集

楠木正成伝

第二章 時代背景


 

出自と生い立ち

革命の埋め火

商業経済と「悪党」

 


 

出自と生い立ち

  以上を前提に、踏み込んで行く。

 まずは、出自と生い立ちを探ってみよう。

 楠木正成は、敏達天皇の末裔、すなわち橘氏の出身とされる。しかしこれは、彼が出世した後で、箔付けのために操作された系図によるものである。

 日本の名家は、4姓しかないとされる。すなわち、源、平、籐(藤原)、橘である。そういうわけで、歴史上、功なり名を遂げた傑物は、みなこの4姓のどれかに成りたがる。たとえば織田信長は「平」、徳川家康は「源」に自家の系図を書き換えた。

 正成の「橘」というのも、これと同じことであるから信ずるに足りない。

 結局、「河内国赤坂近辺に所領を持つ豪族だった」ことしか分からないのである。

 古文書を紐解いて「楠木」姓を探して見ると、正成以前には2例しかない。源頼朝が最初に上洛をしたときに、雇従者の中に楠木七郎という名前がある。正成との関係は分からない。また、鎌倉末期に播磨国(兵庫県)で狼藉を働いた「悪党」の中に、楠木正遠という人物が出てくる。地理的に河内に近いことや名前の類似性を勘案するに、おそらく正成の縁者なのだろうが、正成との関係は分からない。正成の父親とする説もあるようだが、その確たる根拠はない。

 楠木正成の挙兵以前の社会的地位についても、実は全く分かっていない。朝廷に仕える北面の武士だったという説もあれば、幕府に所領を安堵された御家人だったという説もある。朝廷とも幕府とも無縁の「悪党」(武装ゲリラ)ないし「武装商人」だったという説もある。

 正成の出自や挙兵以前の社会的地位に関する文献資料は、まったく存在していないため、議論百出、百家争鳴状態になるのである。

 ここでは、筆者の考えを述べる。

 私は、楠木正成は鎌倉幕府の御家人であったと考えている。そう考えるのが、最も自然だからである。その最大の根拠は、『高野春秋』の中のいわゆる「湯浅合戦」の記事である。

 紀伊( 和歌山県 )の湯浅一族は、かねてより幕府に対して反抗的で、命令に服しようとしなかった。幕府はしばしば討伐しようとしたのだが、相手が強勢で手が付けられない。そこで、河内の有力豪族であった楠木正成に討伐を命じた。元享二年(1322年)8月、正成は、何度もフェイントをかけて油断させた後、いきなり奇襲攻撃を加えたため、さしもの湯浅一族も壊滅した。

 以上が、「湯浅合戦」の概要である。正成は、幕府の命令に従って軍事行動(奉公)を起こしているのだから、これを素直に考えれば正成は「幕府の御家人」だったのである。

 もっとも、この「湯浅合戦」の実在について否定説がある。一級史料に載っていないからである。しかし、いくつもの状況証拠が実在を裏付けている。すなわち、

(1)      紀州湯浅氏は、非常に有力な武士団だったのに、鎌倉末期の一時期を境に急激に力を失った。これは、武力討伐を受けて弱ったものと考えられる。

(2)      正成の最初の居城・赤坂城が陥落したとき、幕府はその城代に、紀州の湯浅入道定仏という者を任命している。当時の慣習では、占領した城の管理者には、元の城主と宿敵の関係にある武士が選ばれていた。

(3)      正成は、天皇のために挙兵する以前から、「武勇と智謀に優れた武士」との評判が高かった。ということは、彼の能力を満天下に知らしめるような優れた軍事行動が、挙兵以前に必ずあったはずである。

 以上のことを素直に勘考すれば、「湯浅合戦」は実在の事件だと考えて良いと思う。

 しかし、「正成=御家人」説は不人気である。なぜなら、正成が幕府の配下だったとするなら、後に朝廷のために挙兵した彼は、幕府に対して「裏切り行為」を働いたことになるから、彼の「忠義一徹」イメージと大きく外れてしまうからである。しかし、筆者に言わせれば、「正成=忠義一徹」という先入観に基づいて歴史を見る姿勢のほうが間違いなのではないだろうか?

 それでも、正成が道徳心溢れる人物であったことは、さまざまな一級資料の記事から見ても否定できない。そんな彼が、どうして幕府に背いて後醍醐天皇のために起ったのだろうか?

 実は、『太平記』には明確な説明がないのである。正成挙兵の前後においては、その時点での小説の主人公である後醍醐天皇の立場からしか状況が語られないからである。

 そこで、学者や学説の出番となる。

 結論から先に言うなら、正成の挙兵は、日本史の中では数少ない「革命行動」であった。

 

 革命の埋め火

  日本初の武士政権である鎌倉幕府が、武力を持たないはずの朝廷勢力によって呆気なく滅亡に追いやられた理由は、多くの武士団や民衆が幕府を見放したためである。

 どうして、幕府は見放されてしまったのだろうか?

 まず、武士団に見放された理由について述べる。

 鎌倉幕府というのは、そもそも「農協」のような組織であった。

 幕府は、日本全国の武士団の利権(土地の所有権)を、朝廷や寺社から保護し、武士団相互の利害対立を調停するために設けられた政治機関である。こうしたメリットを享受するために幕府の保護下に入った武士団は、「御家人」と呼ばれた。御家人は、幕府の保護機能ないし調停機能の恩恵を受ける見返りに、有事のときは「いざ、鎌倉!」と叫んでその軍事力を幕府のために自弁で提供しなければならない。そして功績を挙げた武士団には、幕府は恩賞を与えるであろう。これが、「ご恩と奉公」と呼ばれる契約である。

 「ご恩と奉公」は、いくつもの危うい前提の上に成立していた。まず、幕府による武士団権益の保護調停が、常に公正に行われること。次に、幕府が御家人に恩賞を与える能力を恒久的に維持し続けること。この2つの前提が破綻した場合、幕府の存在意義は消滅するのである。

 そして鎌倉末期、2つの前提が同時に破綻したのであった。

 まず、「蒙古襲来」が、幕府の恩賞提供機能の喪失を満天下に知らしめる結果となった。博多湾に侵入してきたモンゴル軍を撃退したのは、「いざ、鎌倉!」の掛け声とともに参集した武士団であった。しかし、これは防衛戦争であったため、功績を挙げた武士に対して支払うべき恩賞の原資は得られない。自弁で命を賭けたというのに恩賞をもらえなかった武士団は、当然ながら、幕府に対して不信感を募らせた。

 次に、幕府の実権を掌握していた北条一門の腐敗がある。いつの時代でもどこの国でもそうだが、競争にさらされることのない安逸な環境は、人間や組織を堕落させ腐敗させる。鎌倉時代初期の熾烈な政権闘争の中から「一人勝ち」となった北条氏は、当初の質朴で堅実な政治理念を見失い、いつしか自己の利権のみに固執する堕落集団になっていた。

 内管領・長崎高資(北条一門)が、津軽の安東氏の一族内部の土地訴訟において、対立する双方から巨額の賄賂を受け取り、賄賂の大きい側を無理やりに勝訴させたために、かえって混乱を招き、東北一円で戦争が起きたことなどは、ほんの一例に過ぎない。

 カネに目がくらんで、本来の仕事を真面目に行わなくなった幕府に対して、武士団は不信感を募らせた。

 しかし武士団は、この時点では直接的な反乱は起こさなかった。なぜなら、北条一門の軍事力は極めて強大だったので、これに立ち向かうのは無謀と思われたからである。

 日本民族は、本質的に「横並び」である。周囲の顔を見て、「みんなが我慢するなら、俺も我慢しよう」と、なるのが普通なのである。しかし、大勢の流れが変わると、雪崩現象を起こして、あっという間に大勢側に付いてしまう。これが日本人である。

 ここで、雪山に最初の一石を投じたのが後醍醐天皇であり、その一石を触媒にして雪山全体に振動を与え、これを大雪崩に変えたのが楠木正成なのであった。彼らの偉大さは、まさにその点にある。

 しかし、武士団だけでは「革命」は起こせない。革命の原動力は、いつの時代でも民衆なのである。そしてこの当時、一般の民衆も鎌倉幕府に不満を抱いていた。

 

商業経済と「悪党」

  先述のとおり、鎌倉幕府は「農協」のような組織であった。あくまでも、農家(武士団)を保護するために存在する組織だったのである。

 しかし、鎌倉中期以降、日本(特に西日本の先進地域)では貨幣を媒体とした商業経済が急激に発展し、信用取引や高利貸が盛業となった。農業経済が十分に成熟すると商業経済が発展するのは、人類史の宿命だと言える。鎌倉時代の日本は、まさにこうした発展段階にあったわけだ。

 ただし、当時の日本には造幣局が無かったため、貨幣は全て、中国から輸入した「宋銭」が用いられた。鎌倉時代はしばしば疱瘡が流行したのだが、迷信深い人々は、病人の皮膚に出来る痘痕の形が宋銭に似ていたことから、これを「銭の病」と呼んだ。このエピソードの中に、市井の人々の急激に流入した新しい文化に対する不安が感じられて興味深い。

 さて、ここで問題になったのは、幕府の御家人がしばしば土地や武具を担保に高利貸からカネを借り、期日返済が出来ずに担保流れになるケースが続出したことである。武士である御家人が、財産を一介の民間人に奪われるという異常事態が起きたのだ。

 御家人が借金生活を送るようになった理由は2つある。1つは、太平の時代が長く続くうちに贅沢志向になったこと。2つは、当時は分割相続が普通だったため、太平の中で子孫が鼠算式に増えた御家人は、その所領を子孫に均等に分配していくことで経済的に衰退したためである。

 いずれにせよ、御家人の生活が商人に握られてしまうことは、鎌倉幕府にとって深刻な問題であった。幕府は、御家人たちが財産を失うことで十分な「奉公」を行えなくなることを恐れた。そもそも、幕府は御家人の利益を守るために存在する組織であるから、高利貸ひいては商業経済そのものが、幕府政治の敵ということになる。

 そこで幕府は、しばしば「徳政令」を出した。すなわち「借金棒引き令」である。御家人たちは、国家権力によって借金を帳消しにしてもらえるので大喜びである。

 当然ながら、高利貸は迷惑し激怒する。政府の理不尽な法令によって、一夜にして生活の糧を奪われてしまうのだから。そんな彼らは、信用経済や商業の道理を根底から否定する幕府を深く憎んだのである。

 高利貸のケースは、ほんの一例で、鎌倉幕府はもともとが「農協組織」であるがゆえ、商業経済や信用経済の権益をまったく認めようとしなかった。幕府は、商人と御家人の利益が対立した場合、武力を用いて商人を弾圧したのである。

 これは、ようやく商業経済の恩恵を受けつつあった先進地域(西日本)の民衆全体にとっての大きな不利益であった。彼らは、自らの幸福を守るため、幕府に対する反政府活動を開始したのである。御家人の所領に押し入り、担保となった土地を強制的に略取したり、兵糧米を強奪したりした。

 こうした軍事行動の担い手は、商業経済を支援する民衆と、彼らと経済的に結びついた武士団であった。これらの武士団は、商品の運送に携わって報酬を得、あるいは担保土地の強制収用に際して商人に軍事力を提供して対価を得る人々である。これらの武士団は、一騎打ちなどの古風な戦術を捨て、砦に立て篭もったり石礫を投げつけたりといったゲリラ戦術を得意として幕府方を悩ませた。

 鎌倉幕府は、こうした一団を「悪党」と呼んで大いに恐れたのである。

 楠木正成は、公的にはおそらく幕府の御家人ではあったが、私的には先進地域の商業経済と結びつき、新たな時代の波に乗って活動する武士であったことは間違いない。彼は、幕府の横暴によって苦しむ人々を見て怒りを感じ、同時に幕府の存在そのものが、楠木一族の将来の経済的発展への障壁となることを深く憂えたことであろう。

 彼が、「世直し」のために反政府活動に乗り出す機運は十分にあったのである。そんな彼の背後には、幕府への怒りに燃える無数の民衆たちがいた。

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