歴史小説家 三浦伸昭の歴史ぱびりよん

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歴史論説集

楠木正成伝

第四章 金剛山、ついに破れず


 赤坂の戦い

大宣伝工作

全国大動員

金剛山、未だ破れず

倒幕勢力の結集

鎌倉幕府の滅亡

 


 

赤坂の戦い

  楠木正成に関する最初の一級史料は、『天竜寺文書』の元弘二年(1332年)6月の記事に出てくる。皇室領であった臨川寺領の若松荘に悪党・楠木兵衛尉(正成のこと)が押し入って乱暴を働いたというのだ。

 この記事の内容については、かつて学者の間でさまざまな議論が起きた。皇室領を襲ったことから、正成が最初は幕府方だったなどという説も出た。しかし事件の日付などから素直に解釈するなら、正成は後醍醐天皇の許可を得て、付近の荘園から食糧や物資の徴発を行ったものと解釈するべきだろう。

 正成は、自らの居館近くの険阻な地を選び、赤坂城を築いていた。そこに、付近からかき集めた物資を搬入し、長期の籠城戦に備えたのである。

 後醍醐と正成の基本戦略はシンプルであった。今の彼らの力だけでは、幕府の武力にはとうてい勝ち目がない。しかし、彼らが頑強に籠城戦で抵抗していれば、やがて幕府の意外な弱さに気づいた「横並び」の武士団が、「雪崩式」に味方についてくれるだろうと算段したのであった。

 しかし、この壮大なプランは、たちまち瓦解した。笠置山が、あっけなく陥落したのである。元弘元年(1331年)9月27日、大仏貞直、金沢貞冬、足利高氏らが率いる幕府の圧倒的大軍は、人員不足で隙だらけの笠置山を、それこそあっという間に攻め落としたのであった。

 かろうじて脱出した後醍醐は、千種忠顕ら側近とともに赤坂城に逃れようとしたのだが、暗夜で道に迷ったところを大仏貞直によって捕らえられ、京都に護送されてしまった。反乱の総大将が、あえなく敵の捕虜となってしまったのである。

 こうして楠木正成は、いきなり孤立無援となった。

 彼の唯一の幸運は、大塔宮と尊良親王(後醍醐の第一皇子)が脱出に成功して赤坂に合流してくれたことだった。これで、なんとか蜂起の大義名分だけは保持できる。

 やがて、幕府の大軍は赤坂城を包囲した。寄せ手の総勢2万名に対して、籠城側は1千名もいなかったと思われる。そして赤坂城は、方12町の小城であって、とても日本全国を相手取って戦えるような代物ではなかった。

 赤坂に逃げ込んでいた尊良親王は、この様子に絶望して脱出したところを寄せ手に捕われて京都に護送された。また、寄せ手の武士たちは、貧弱な赤坂城を見て、「哀れな楠木よ、あんな小城、片手に載せて投げられる程度じゃないか。せめて一日だけでも保ってくれよ。さもないと、恩賞の稼ぎようがない!」と嘲り笑ったと言われる。

 しかし、赤坂城の戦いぶりは凄まじいものだった。10月17日から総攻撃をかけた幕府軍は、最初の数日で1千名を越える死傷者を出して敗退したのである。この事実は、現存する各種の軍忠状の記載からも裏付けられている。

 『太平記』では、崖の上から石礫を投げたり、大岩を転がしたり、熱湯をぶちまけたりといった派手な描写で籠城軍の防戦ぶりを活写している。誇張はあるだろうが、軍忠状に記載されている寄せ手の負傷原因などを見ると、まんざら作り話でもなさそうだ。

 幕府軍の主力である東国の武士たちは、平野で馬上疾駆しながら騎射をする戦技に長けていた。また、互いに名乗りを上げてから戦いを始める一騎打ちの気風も尊重していた。しかし、赤坂に篭る敵には、こういった常識が通じなかったのである。赤坂の兵は、幕府方の武士が名乗りを上げながら堂々と接近するのを見て、「これが噂に聞く東国の慣習か。面白い見ものだわい」とあざ笑い、そして遮蔽物の陰から石礫を投げつけたと言われる。これでは、幕府方の苦戦も当然であったろう。

 しかし、援軍の来ない籠城は無意味である。しかも幕府軍は、楠木勢の意外な手ごわさを知ると兵糧攻めに切り替えたのであった。

 これを見た正成は、このままではジリ貧になることを恐れ、いったん野に潜んで時節を待つことにした。そこで、10月21日の風の強い夜、城に火を放ち、大塔宮らとともに脱出したのである。

 『太平記』では、正成が自分に良く似た風貌の戦死者に自分の服を着せて城に残したため、その死体を見た幕府軍は正成が死んだものと思いこんで大喜びしたことになっている。しかし、現存する文書などを見ると、幕府はこの段階から正成の捜索に入っているから、実際には小説的な偽装工作は無かったと考えるべきであろう。

 しかし、必死の捜索にもかかわらず、大塔宮も正成一党も発見できなかった。彼らは、近畿南部の山々の中に、かき消すようにいなくなったのである。これはもちろん、近在の住民たちが、幕府の命令を無視して「世直しの英雄」を匿ったからだろう。このころの鎌倉幕府が民心を失っていたことは、この一例をもってしても明らかだ。

 ともあれ、こうして「元弘の変」は決着した。

 後醍醐とその皇子たちは、隠岐や土佐に島流しとなった。側近の中でも、先に佐渡に流罪になっていた日野資朝、新たに捕縛された日野俊基、北畠具行らはそれぞれ斬首となった。その他の加担者たちは、各地に流罪となった。

 また、京都では新たに持明院統の光厳天皇が即位した。

 幕府は、大いに安堵したことだろう。

 しかし、大塔宮と楠木正成に逃げられたことは、彼らの致命傷となる。

 

 大宣伝工作

  今や、野に潜む大塔宮と楠木正成のみとなった倒幕勢力。

 しかし、彼らの闘志は少しも衰えていなかった。

 彼らは、頑固一徹に当初の基本戦略を貫徹しようとした。すなわち、諸国の不満分子に多数派工作を仕掛けて反幕蜂起をさせようとしたのである。

 いつしか、大塔宮の令旨(命令書)が諸国に舞っていた。おそらくは高野山に潜んでいたのであろう大塔宮は、山のように手紙を書いた。「親王の名の下に命令する!幕府を倒せ!恩賞は思いのままだぞ!」。

 前述のように、幕府は主として西国の民心を失っていた。また、諸国の武士たちも、北条一門の専横に大いに憤っていた。そのためこの令旨は、ボディブローのようにジワジワと日本全国に染み入ったのである。

 しかし、宣伝だけでは「横並び」の日本人は動かない。大塔宮と正成は、それぞれ軍事行動を再開することにした。

 まずは元弘二年(1332年)6月26日、大塔宮が紀伊(和歌山県)で蜂起した。現地豪族の竹原八郎を味方につけて、幕府方の荘園を襲撃し、地頭や代官を追い払ったのである。

 続いて、楠木正成が再起した。12月、彼は幕府の占領下にあった赤坂城を奪還すると、ただちに兵力を糾合して河内、摂津(いずれも大阪府)一帯を荒らしまわったのである。

 赤坂城の奪還に際して、正成はユニークな策略を用いたとされる。すなわち、自分の兵の一部を、赤坂城に向かう兵糧輸送部隊の人夫に変装させた。そして、彼らが城の近くで楠木勢(これは本物)に襲われる様子を演出したのである。すると、赤坂城を守る湯浅入道は、あわてて援軍を出して人夫たちと輸送物資を救出し城の中に招き入れた。しかし、輸送物資と思われていたのは兵糧ではなく、刀や長刀といった武器であった。そして、これらを身につけた人夫たちは、正体を顕して城内で暴れまわり、城門を内側から開いたのである。これを城外で待っていた楠木勢の主力部隊は、たちまち城に殺到し、そして湯浅入道と守備兵を降伏させたのであった。

 これは、『太平記』にしか出ていない話であるが、楠木正成ならこの程度の策略は設けそうな気がする。また、こういったゲリラ戦術は、いわゆる西国の「悪党」が得意とするものだった。このような作戦は、東国の武士から見れば「卑怯」なのかもしれないが、もともと庶民から編成された西国の悪党は、そのような美意識とは無縁なのだった。

 さて、正成が摂津や河内で暴れまわるのを見た幕府は、事態を深く憂慮した。京都には、「楠木軍100万が攻めて来る」などの風評が乱れ飛び、大塔宮と正成を抑えきれない幕府の威信は低下した。この風評の乱舞は、大塔宮に操られた京都の反幕派の裏工作であった可能性が高い。

 焦った六波羅探題は、河内に向けて討伐軍を出撃させた。こうして起きたのが「四天王寺の合戦」(元弘三年1月19日)である。楠木勢2千は勇戦力闘して、六波羅軍5千を敗走させたのであった。もっとも、この時の六波羅軍は実戦経験の乏しい雑軍だったらしい。それでも、平野の合戦で大軍を打ち破ったという事実は、日本全国で成り行きを見つめる反幕勢力にとって希望に溢れるものであった。

 惨めな敗戦とその影響を深く憂慮した六波羅探題は、たまたま上京して来た宇都宮公綱率いる関東の精鋭を、四天王寺にて勝ち誇る楠木勢にぶつけることにした。公綱の郎党はわずか数百だったが、決死の覚悟で四天王寺に馳せ向かった。しかし、楠木勢はすでに赤坂に退去した後だった(1月23日)。こうして四天王寺を無血で奪回した宇都宮公綱は、赤坂に数十騎を威力偵察に送り込んだのだが、これは正成の待ち伏せにあって殲滅させられた。

 『太平記』の記事によれば、四天王寺に駐留した宇都宮勢は、たちまち不眠症に陥ったという。近在の山々が、毎夜、無数のかがり火に覆われるからである。これは、正成の意を受けた民衆たちの仕業だった。そうとは知らぬ宇都宮勢は、「正成の大軍」に包囲される可能性に脅え、やがて一戦も交えずに四天王寺を放棄して退去したのであった。

 このエピソード自体は、もしかすると『太平記』の創作かもしれない。しかし、「火の無い所に煙は立たない」のであって、何か民衆の動きが宇都宮勢の軍事行動を阻害したような事実があったのだろう。

 後に、正成は述懐している。「元弘の戦の折りは、頼みもしないのに多くの民衆が味方をしてくれました(『梅松論』)」。もっとも、それは楠木勢の軍規が厳正で、民衆に対する略奪暴行を行わなかったことも理由の一つであったはずだ。

 いずれにせよ、この事件は「楠木勢が宇都宮勢を撃退した」という風評となって諸国に伝わったのである。

 また楠木正成は、先に四天王寺を占拠したとき、そこに収められていた「聖徳太子の未来記」なるものを閲覧した。そして、その未来記が「幕府の滅亡を予言している」と読み解いたため、彼の兵士と近在の民衆たちは大いに奮い立ったと言われる。

 ともあれ、大塔宮の令旨ばら撒き、そして楠木正成の派手な軍事行動と未来記解読。これらは全て、一つの大戦略に基づくものだった。

 すなわち「宣伝」である。

 「鎌倉幕府は落日にあり、今では往年の武力も武運も喪失している。諸国の武士団よ、民衆よ、今が好機だ。共に立ち上がって革命を起こそうではないか!」

 ここに情勢は、次第に大きく動いていく。

 

 全国大動員

  さて、六波羅の度重なる失敗を見た鎌倉幕府は、再び全国の武士団に召集令を発した。何としても、大塔宮と楠木正成を討ち取らねばならぬ。幕府は、この両名の首級に莫大な恩賞をかけたのである。

 しかし、諸国の武士団は白け気分であった。なぜなら、大塔宮も正成も大きな領土を持っていないし富裕でもないのだから、彼らを首尾よく討ち取ったところで、実際の恩賞はほとんど期待できないからである。しかも、幕府命令に基づく「奉公」は、その費用をすべて自弁で賄わなければならないのだから、どう考えても御家人側の「持ち出し」になることは必至であった。

 それでも、「横並び」の武士団は、重い腰をあげて京都に集結した。『太平記』は総勢100万という。これはもちろん誇張であるが、少なくとも4~5万人の軍勢が集まったことは確実である(『保暦間記』)。

 これを迎え撃つ反乱軍は、大塔宮が吉野山を、楠木正成が金剛山をそれぞれ要塞化して準備に抜かりは無かった。平野での合戦を得意とする坂東武者たちを山岳ゲリラ戦で翻弄して長期持久戦を行うことで、幕府に幻滅するであろう諸国の武士団や民衆の蜂起を待つと言うのが、彼らの一貫した大戦略なのであった。

 大仏高貞を主将とする幕府軍は、まずは吉野山に襲い掛かった(閏2月)。大塔宮と僧兵は善戦したのだが、背後の間道から攻められたため、兵力不足の籠城軍はついに瓦解した。宮の側近、村上義光は宮の鎧を身にまとい、囮となって壮絶な戦死を遂げ、その隙に大塔宮はからくも脱出したと言われる。その後の宮は、畿内の山々を渡り歩きながらも、令旨を作成して諸国に配り続けることを忘れなかった。

 一方、阿曽治時を主将とする幕府の別働隊は、赤坂城に攻めかかっていた(2月下旬)。ここは、平野将監という者と楠木正季(正成の弟)が守っていて見事な奮戦を見せたのだが、周囲を厳重に包囲された上に、水の手を外部から止められたために抗戦を断念。楠木正季は脱出に成功したが、平野将監は捕虜となって斬首された(閏2月1日)。

 こうして、反乱軍の最後の砦は、楠木正成が立て篭もる金剛山麓の千早城のみとなった。今や幕府軍は、勝利を疑わなかっただろう。幕府軍5万に対するのは、もはや正成率いる1千に過ぎないのだった。

 吉野山を陥落させた大仏高貞の軍は、赤坂の阿曽治時軍に合流し、未曾有の大軍は金剛山にその威容を現した。楠木正成は、今や「日本全国」を敵に回しているのだった。しかし、城方の戦意は挫けなかった。金剛山の峻険な西斜面に築かれた千早城は、必勝の信念で沸きかえっていた。正成の優れた人身掌握術と統率術を思い見るべきである。

 筆者は、千早城を訪れたことがある。大阪府 内から行こうとすると、御堂筋線なんば駅で南海高野線に乗り換え、金剛駅で電車を降りてから、バスに乗ってかなりの山奥に入らねばならない。現代でもこれほど交通不便な田舎なのだから、700年前は尚さら不便だったことだろう。また、金剛山の麓から千早城の本丸まで登るためには、かなり急な石段を延々と登りつめなければならないから、汗だくだくになって息が切れる。本丸からの眺望がとても美しいので、疲労も容易に忘れられるのだったが。

 筆者が千早城に立って感じたことは、「幕府軍は、囮に引っかかって誘い出されたのだな。罠に嵌ったのだな」。

 大塔宮と楠木正成は、わざと派手な軍事活動と宣伝を行って、幕府に無理な動員をさせて、その精鋭を行動困難な僻地へと誘き寄せたのである。自らが、巨大な囮となって日本の情勢を動かそうと試みたのである。

  

金剛山、未だ破れず

 『太平記』は、千早城の戦いを勇壮に描写する。その概要は次のとおり。

 「幕府軍は、まずは力攻めの正攻法を挑んだが、城から落とされる岩や熱湯や糞尿によって阻まれた。険阻な崖をよじ登り、かろうじて城壁に取り付いた兵は、城壁がいきなり外れたために、城壁ごと谷底に転落した。千早の城壁は二重になっていて、その外側は着脱自在の偽の塀だったのだ。また、ある部隊は、天然の堀となっていた深い谷を、架け橋を用いて乗り越えようとしたのだが、城から油と火を落とされたために架け橋ごと谷底に焼け落ちてしまい、一度に7千人が戦死した。こうして、正攻法がことごとく跳ね返された幕府軍は、持久戦の兵糧攻めに切り替える。しかし、城内には食糧も水も豊富だったので、兵糧攻めはまったく効果を発揮しなかった。かえって、しばしば城内から奇襲を仕掛ける楠木軍によって大損害を受けるのだった。楠木軍は、城壁の下に多数の藁人形を並べておき、これを楠木軍の兵士と誤認して近づいた幕府軍に城から大岩を投げ落として大損害を与えるなどの奇略を用いた。やがて幕府軍は、千早城を山ごと掘り崩そうと土木作業を始めた。しかし、さすがに当時の技術では金剛山を崩すのは無理で、作業は堅い玄武岩に阻まれてしまった。こうして、士気の落ちた幕府軍は、城を遠巻きにすることしか出来なくなった」。

 『太平記』は小説であるため、随所に誇張はあるが、戦局はだいたいこのように推移したようである。一級史料に目をやると、たとえば「土木作業中に弓矢で負傷した」との幕府方の軍忠状が実在しているので、幕府軍が山を掘ろうとしたことは事実である(もっとも、これは単なる塹壕造りだった可能性もあるが)。また、双六のサイコロの目を巡って陣営内で殺し合いになったとの記録があるから、幕府軍の士気の弛緩と焦燥ぶりが確認できるのである。

 ところで、楠木軍が水に困らなかった理由は、千早城内に山伏が発見した湧き水が豊富だったからである。また、食糧や武器の補充に困らなかった理由は、金剛山の金剛輪寺が、武士が立ち入れない聖地だったため、この寺を経由して安全に補給を行えたからである。正成は、これらのことを何もかも計算した上で籠城したのであった。 また、大塔宮も、武装ゲリラを率いて千早城の後方支援に奮戦してくれた。

 このような楠木軍の勇戦奮闘ぶりは、全国の予想を完全に裏切るものだった。博多の承天寺在住の僧侶は、わざわざ日記に「金剛山は、未だに破れず」と書き残している(『博多日記』)。

 難攻不落の千早城を熱く見つめる「横並び」の日本人の心は、こうして少しずつ動き始めたのである。

  

倒幕勢力の結集

  大塔宮と楠木正成の熱い志は、ついに天下に伝わった。閏2月以降、西日本各地で幕府に反感を持つ武士団が挙兵したのである。

 まずは、播磨(兵庫県)で赤松円心入道則村が立ち上がった(2月23日)。彼は、次男の則祐を早くから大塔宮の近臣に付けていたから、比較的初期の段階で後醍醐方に心を寄せていた豪族(おそらくは悪党)であっただろう。挙兵が遅れた理由は、「様子見」だったかもしれない。しかし、幕府の大軍が金剛山に吸引されて苦戦している情勢を見て、ついに蜂起。一時は、京都近郊にまで攻め入って六波羅を震撼させた。

 続いて、伊予( 愛媛県)で、河野一族の土居、得能氏が立ち上がった。彼らは水軍を利用して、攻め寄せた幕府の長門(山口県)探題の軍勢を連戦連破した。

 さらに、九州でも兵乱が起こった。3月13日、肥後(熊本県)の菊池武時が、博多の鎮西探題に攻め入ったのである。しかしこの挙兵は失敗に終わり、武時は戦死した。

 この間、鎌倉幕府を顔面蒼白にさせる決定的な事件が起こった。隠岐に島流しにされていた後醍醐天皇が、現地豪族の手引きを受けて山陰に脱出したのである。このとき天皇を迎え入れたのは、伯耆(鳥取県)の豪族・名和長年であった。彼は、正規の武士ではなく、海運業を営む武装商人だったと思われる。というのは、名和一族は、このとき天皇に家紋を与えられたとの伝承があるからである。それまで家紋を持っていなかったのだから、武士ではなかったということだろう。

 名和長年は、攻め寄せた佐々木清高の大軍を退けると、たちまち山陰東部を平定してしまった。そんな彼の元に、幕府に不満を持つ武装商人や武士団が続々と駆けつけ、たちまち数万の大軍となったという。

 「山」は、大きく動いたのである。

 後醍醐の側近・千種忠顕を総大将として編成された山陰軍は、播磨の赤松円心と連絡を取り合い、京都攻略を目指して動き始めた。しかし彼らは、決して孤軍奮闘を続ける英雄のことを忘れていなかった。軍令書は言う。「この軍勢の目的は、六波羅探題の討伐と、千早城の救出である!」。

 彼らが勢力を強化し攻勢に移れたのは、楠木正成が自らを囮にして幕府の主力を吸引してくれたお陰なのであった。だから、なんとしても正成を救わなければならぬ。

 

 鎌倉幕府の滅亡

  日本人は横並び式であるから、時勢の流れが変わると情勢は一挙に動く。鎌倉幕府の滅亡は、それこそあっという間の出来事だった。

 京都の六波羅探題が、千種軍と赤松軍に挟撃される情勢を憂えた鎌倉幕府は3月20日、足利高氏と名越高家の軍勢を援軍として関東から派遣した。

 足利高氏は、源氏の血を引く名門である。その名のとおり下野(栃木県)の足利が本拠地だが、三河(愛知県東部)にも多くの所領を持ち、北条一門のみならず上杉氏など多くの名族と縁戚関係を結ぶ大勢力だった。彼は、重い病気を患っていたにもかかわらず、幕府に出陣を強制されて恨みを感じたと言われている。しかし、彼が幕府を離反した理由はそれだけではない。足利氏が、先祖代々、北条一門の専制を憎んでいたことは、様々な記録(『難太平記』など)から裏づけされている。しかし、「横並び」の日本人気質ゆえに、これまでは公然と反抗できなかったのである。

 密かに反逆の大望を抱く足利高氏は、近江( 滋賀県 )で、後醍醐の倒幕の綸旨を得ることに成功。そのまま何食わぬ顔で京都に入ると、千種軍と戦うと称して北上。やがて母方(上杉氏)の所領がある丹波(京都府北部)で倒幕の意思表示を行い(4月29日)、千種軍に合流してその大軍勢を京都に向けたのである。これに、久我畷の戦いで名越高家を討ち取ったばかりの赤松円心の軍勢も合流。ついに、京都攻略軍の総勢は2万となる。

 予想外の事態の急転に、六波羅探題はあっという間に壊滅し京都は陥落した(5月8日)。そして、幕府が仕立てた光厳天皇は捕虜となった。

 六波羅陥落の知らせを受けた千早城は、狂喜乱舞の喜びに包まれた(『太平記』)。これまでの苦労と努力は、ついに大きな実を結んだのである。

 恐慌状態になった鎌倉を、さらに北方の脅威が襲った。源氏の血を引く上野(群馬県)の豪族・新田義貞が倒幕の旗を揚げたのだ。当初は弱小だった新田軍だが、やがて「横並び」の武士団が次々に合流。小手指河原(埼玉県)と分倍河原(東京都)で幕府軍を打ち破ったころには、その軍勢は10万近かったと言われている。

 5月17日、鎌倉を完全包囲した新田軍は、干潮を利用して稲村ガ崎を電撃突破。5月23日、鎌倉市 街での大激戦の後、北条高時をはじめとする幕府要人は東勝寺にて自刃して果てた。

 この数日後、戦意阻喪した長門探題(山口県)と鎮西探題(福岡県)も相次いで陥落。

 紅蓮の炎の中に、鎌倉幕府150年の栄光は潰え去ったのである。

 幕府の大軍が千早城を包囲してから、わずかに4ヶ月。

 実に、呆気ない最期であった。

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