歴史小説家 三浦伸昭の歴史ぱびりよん

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歴史論説集

楠木正成伝

第八章 湊川に散る


 新田義貞について

湊川の決戦

正成の最期

正成の死の意味

その後

まとめ

 


 

新田義貞について

  楠木軍700騎は、5月24日に兵庫湊川に陣を張る新田勢に合流した。

 新田義貞は、おそらく失望したであろう。彼の手元の1万に加えて、待ち望んだ援軍がわずか700では、総勢6万に膨張した足利軍に対抗できるはずがない。誰がどう見ても、これは無謀な戦である。

 それでも作戦会議の結果、義貞は湊川の海岸部で足利尊氏率いる水軍を迎え撃つこと、正成は会下山付近の内陸部で足利直義率いる陸軍を迎え撃つことが決定された。

 『太平記』によれば、24日の夜、正成と義貞は帷幕で酒を酌み交わして語り合ったという。

 正成は問うた。「ここで戦うのは、新田どのの本意ではないのでしょう?」。

 義貞は正直に応えた。「敗軍の小勢で、勢いに乗る大軍と争っても勝ち目はない。しかし私は、昨年は箱根で破れ、今また中国筋では赤松円心の城を落とすことが出来なかった。このままでは、世間からあまりに不甲斐ないと笑われるから、ここは勝敗を度外視して一戦交えるほかない」。

 しかし、正成はこう言って励ました。「衆愚な連中の言うことなど、気にする必要はありません。戦うべくときに戦い、引くときに引くのが真の良将というものですぞ」。

 死を目前にして僚友を慰める正成の心の有り方は、本当に尊い。もちろん、この会話自体は『太平記』の創作なのだろうけど、火の無いところに煙は立たないわけで、何か正成の生前の人柄が反映されているように思われてならない。

 ところで、新田義貞は、戦後に入ってから暗愚の無能将軍と評されることが多い。確かに、彼は負け戦が多いのだが、彼が悪く言われる理由は別のところにある。

 大衆小説家という人種は、効率的にカネ儲けをするために、歴史上の人物を都合よく改変する。これは極めて安易なことだと思うのだが、義貞を暗愚の将に仕立てれば、ヒーロー役の楠木正成や足利尊氏を効果的に引き立てるという作劇上のメリットが得られるので、小説がたくさん売れるようになって容易にカネ儲けが出来るのだ。だからである。

 また、義貞は戦前戦中、「忠臣」として祭り上げられて来たので、戦後はその反動が起きたという社会情勢も無視できない。

 しかし、言うまでもなく、それは歴史を見る上で正しい姿勢ではない。

 筆者は、義貞はなかなかの将軍だったと思っている。

 新田家は、鎌倉幕府の要人たちと早くから敵対していたため、鎌倉末期には尾はね打ちからし、とうとう先祖伝来の田畑を切り売りして糊口をしのぐ有り様だった。一族郎党の数も少なく、ほとんど破産寸前だったのである。彼が鎌倉幕府に反逆した理由も、実は幕府の臨時増税に応じる資力が無くて、取立てに来た代官との間に争いが起きたからだという説がある。後醍醐は、だからこそ彼を昇進させて飼い馴らした。破産寸前だった義貞は、後醍醐に深い恩義を感じ、忠義を尽くすしか無くなったのである。

 これに対して、義貞が対決した足利家は、日本各地に所領を持つ大豪族だった。尊氏の母方の実家・上杉氏も丹波(京都府北部)に領土を持つ大豪族だったし、三河(愛知県東部)には足利の有力支族である一色、畠山、細川、吉良、今川、桃井氏らがいた。

 つまり義貞と尊氏の対決は、企業にたとえるなら、「貧乏な八百屋の親父が、一部上場の多国籍企業に一騎打ちを挑むようなもの」だったのである。それなのに、義貞はしばしば勝利し、尊氏を自殺寸前にまで追い詰めている。この状況を素直に考えれば、義貞はなかなかの名将だったのではないだろうか?

 彼が悪戦苦闘の末に悲劇的な最後を遂げたのは、「後醍醐に取り込まれた」ことによる悲劇であった。その点で、楠木正成や名和長年と全く同じなのである。だから、正成を美化して義貞を貶める風潮には、筆者は反対である。

 筆者がこんなことを言う理由は、義貞のように愚直で朴訥で不器用な人物のことが好きだからでもある。

 

湊川の決戦

  湊川の戦いは、5月25日の午前中に始まった。

 楠木勢は、内陸の会下山に陣を敷いていた。会下山は小さな丘だし、前日に到着したばかりの楠木勢には、防御陣地を構築する余裕も無かったことだろう。

 『太平記』には、楠木勢700騎とあるが、実際にはもう少し多かったと思われる。なぜなら、楠木一族以外の将兵が、同じ戦場で戦死していることが一級史料から読み取れるからである。これはもちろん、新田義貞が部隊の一部を分けてくれたのだろう。

 正成が対決したのは、足利直義を総大将として山陽道を東上して来た数万の敵である。数の上では、とてもじゃないが衆寡敵せず。このような状況で小勢が勝つ方法は一つしかない。

 楠木正成自ら率いる部隊は、足利直義の首級を狙って敵本陣に突撃を仕掛けて中央突破した。直義は、馬に乗ってからくも後方に逃れたのだが、背後に追いすがられてもう少しで討ち取られるところだったという。楠木勢は、その後も諦めずに突撃を繰り返したため、直義軍は大混乱に陥ったのである。

 この状況を観察するなら、楠木勢は戦役の当初から「死兵」となっていたことが分かる。

 「死兵」とは、死を覚悟し、死を目的とした兵士のことである。「死兵」は、地位にも恩賞にも興味がない。一人でも多くの敵を巻き添えにして死ぬことが、戦う目的であり意味なのである。おそらく、太平洋戦争で玉砕戦を戦った孤島の守備兵の多くが「死兵」であったろう。硫黄島の戦いでは「一人十殺」が守備隊の合言葉になっていたそうだが、このような兵は強い。

 普通の兵士は、「仕事だから」戦う。もちろん恩賞をもらいたい気持ちはあるのだが、死ぬのは怖いし怪我をするのは痛いから嫌なのである。だから、普通の兵士はなるべく安全に戦おうとする。出来るだけ、遠いところから飛び道具を使おうとする。スタローンやシュワルツェネッガーがハリウッド映画で演じたようなアクションヒーローは、現実の戦場にはなかなかいないのである。

 しかし、「死兵」は違う。一人でも多くの敵を道連れにして自分も死ぬのが目的だから、積極的に接近戦を挑んでくる。だから、「死兵」が来たら、みんな逃げようとする。直義の本陣があっというまに突破されたのは、まさにこのためだろう。

 似たようなことが、「大阪夏の陣」でも起きた。真田信繁(幸村)率いる赤備えが、「死兵」と化して突っ込んできた時、日本最強を謳われた「旗本八万旗」は、徳川家康を見捨ててみんな逃げた。大久保彦左衛門は、『三河物語』の中で、そのときの情けない様子を良く描写している。真田隊は、何度も何度も突撃して体力が尽き果てた時点で全滅した。総大将の信繁は、神社の境内で疲れて座り込んでいるところを雑兵に討ち取られた。

 真田信繁もその兵たちも、時代に取り残されて行き場を失った者たちであった。今さら徳川に投降しても処罰されるだけだから、不利だと知っていても「死兵」になって奮戦するしか無かったのである。

 そう考えるなら、湊川の楠木勢も、「元弘還地令」と「後醍醐の恩顧」によって進退の自由を完全に縛られていたため、真田の赤備えと良く似た立場に立たされていた。おそらく、正成に最後まで付き従った700騎は、彼に心服しきった者たちだろう。彼らは総大将の決意と覚悟を知り、そして「死兵」となったのである。

 そのころ新田義貞の軍勢は、海岸沿いに東進して来た足利尊氏軍を相手に善戦していた。しかし、敵水軍が彼の背後に上陸しようと大阪に向けて大きく動き始めたのを見て、ついに敗北を悟った。退路を断たれて包囲されたら、全滅するだけだ。そこで彼は、全軍に退却を命じた。

 このとき、楠木勢に連絡が行かなかったため、楠木勢は敵中に孤立する形勢となってしまったのである。

 「義貞嫌い」の小説家の中には、義貞が自分の命が惜しいばかりに、正成を囮に使って敵中に見殺しにしたと評する人もいる。しかし、敵水軍に背後に回られる前に東に退却しようとした義貞の軍事的判断自体は間違いではない。また、戦場は大混乱の状況だったし、楠木勢は「死兵」となって敵中深く暴れていたのだから、野戦電話も無い時代に義貞の退却命令が伝わらなかったとしても不思議はない。義貞が正成を見捨てる形になったのは、結果論だったと考えざるを得ないのである。

 また、「義貞嫌い」の作家たちが意図的に無視するのは、生田の森(三宮市)まで逃げて軍を立て直した義貞が、再び西に向けて軍事行動を再開した史実である。彼は、おそらく正成を救出しようとしたのであろう。しかしこの軍事行動は、ただでさえ弱体化している新田軍の損害をさらに増やすだけだった。もしも義貞が真の名将であったなら、彼はむしろ正成を見捨てて京に逃げるべきだっただろう。それが新田義貞という武将の限界であった。義理やメンツを過度に重んじ、冷酷に物事を割り切る能力がなかったいう点で言うなら、彼は確かに名将ではなかったのかもしれない。義貞軍は、結局、壊滅状態となって京に逃走する。

 ただ、正成の軍勢が包囲されたのは、敵の総大将・足利尊氏の軍事的判断にも原因があった。尊氏は、東に向けて退却する義貞を追撃するよりも、西の「死兵」相手に苦戦中の弟・直義の救援を優先したからである。

 こうして、小勢の楠木勢は、尊氏と直義の両軍によって腹背を挟み撃ちにされる状況となってしまったのである。

 死闘を繰り広げること約6時間。突撃すること13度。生き残りわずか73騎となり、体力も尽き果てた楠木勢は、総大将を守りながら、空き家となっていた大きな農家に入った。

 このとき『太平記』によれば、正成の指示によって、多少の体力を残していて動ける者はみな間道から河内に落ち延びたという。この事実は、一級史料から裏づけが取れる。湊川で戦った一族の者が、後の時代の史料の上でも活躍しているからである。

 つまり、楠木勢は完全に包囲されていたわけではないのである。逃げようと思えば、山中の間道を使えたのである。しかし、正成は逃げなかった。

 彼は、重傷を負って動けなかったのだろうか?それとも、最初からこの地で死ぬつもりだったのだろうか?

  

正成の最期

  仲間たちを間道から故郷に逃した後、農家に残った最後の楠木勢は28名であった(『南都興福寺文書』)。

 一同、居並んで念仏を唱えた。

 『太平記』によれば、正成はここで弟の正季と向き合い、こう問うた。

 「最後の一念で来世の運命が分かれるというが、お前の存念は何だ?」

 正季は応えた。「七生まで人間に生まれ変わり、朝敵を滅ぼしたい」

 正成は笑った。「罪深い妄念だが、私もそう願う」

 言うまでもなく、これは『太平記』の作り話である。落ち着いて考えれば簡単に分かることだが、この会話を聞いた人は、この直後にみんな死んでいる。だから、正成の末期の言葉が後世に伝わるわけはないのである。

 この「七生報国」の会話は、実はそんなに深い意味がある創作ではない。これは、後のストーリーへの伏線なのである。『太平記』には、この後も「正成の怨霊」が登場して足利方を苦しめる。これに上手に繋げるために、正成の最後の言葉をこのように締めくくったのである。正成は、「罪深い妄念」を抱いて死んだから、怨霊になったと言いたいのだ。

 しかし昭和戦前は、この「七生報国」の会話が史実ということになった。そしてこの会話は、正成の魂が怨霊になるための作劇上の伏線ではなく、愛国心ゆえの言葉ということにされたのである。真面目な若者たちは、これを合言葉にして特攻機で出撃して行った。まさに、歴史が悪用されたのである。

 だから、「小説」を読むときは十分に気をつけなければならない。

 一級史料から分かることは、最後の楠木勢28名(『梅松論』では50余名だが)が農家で腹を切って自決したことだけである。

 時に、延元元年5月25日申の刻(午後4時)のことであった。

 このとき、菊池武吉という者が共に自害している。名前から分かるとおり、肥後の菊池一族の者である。このころの菊池一族の当主は、元弘革命の際に博多で戦死した武時の嫡男・武重であったが、彼は新田軍の一員として義貞とともに戦っていた。武吉は、兄に命じられて正成の救援に行き、「おめおめと見捨てるのは武士の恥だ」と考えて、楠木一族と共に自決したのであった。

 先述のとおり、菊池一族は建武の論功考証の際に、楠木正成から深い恩義を受けていた。正成の生前の人徳が、殉死者を出したのである。

 ちなみに、多々良浜で尊氏と戦った武敏は、この武重と武吉の弟に当たる。そして菊池一族は、「南朝の柱石」と呼ばれて南北朝合体の時まで孤軍奮闘する。その原因を作ったのが楠木正成だったのは、なかなか興味深い史実と言えよう。

 正成たちの遺骸が発見されたのは、翌26日の朝だった。発見したのは、高一族だったとか細川一族だったとか河野一族だったとか、諸説あってはっきりしない。

 足利直義が首実検をして、「本物に間違いない」と安堵したと『梅松論』にある。彼は、京都の戦いの時のように、偽物を掴まされるのを心配していたのだろうか。

 足利尊氏は、西宮で正成の死の報告を受けると、ただちにその最期の地に立つ称名寺に田地五十町を寄進して供養を命じた(『南都興福寺文書』)。正成の首級は、兵庫の陣に2日間掛けられ、それから足利軍占領下の京都に持ち込まれて六条河原にさらされた。しかし、尊氏はしばらくしてその首を回収させると、これを河内で待つ正成の妻子の元に届けさせたのである(『太平記』)。

 以上の事実は、足利尊氏の人徳を示すエピソードとして示されることが多い。しかし、尊氏がここまでした相手は正成だけである。新田義貞や北畠顕家の首級に対しては、彼はこんなことはしていない。

 このエピソードは逆に、楠木正成の生前の人徳を物語っているのではないだろうか?

 彼は、最大の宿敵からも愛され惜しまれるような人物だったのである。

 『梅松論』は言う。

 「まことに賢才武略の勇士とも、かような者を申すべきとて、敵も味方も惜しまぬ人ぞなかりける」。

 

正成の死の意味

  ところで楠木正成は、どうして湊川で死んだのだろうか?

 やはり、後醍醐政権に絶望して、最初から「自殺」する目的で湊川に出陣したのだろうか?

 『太平記』も『梅松論』もそういう解釈に立っている。正成は、勝てる見込みが無い戦場で、最初からヤケッパチになっていたと解釈する。確かにそう見える。だが、本当にそうだろうか?

 前述のとおり、『太平記』は無常をテーマとする文学であって、楠木正成を著者に近い立場から天命を見通す予言者として描いている。そして、「天命に見放された後醍醐には、もはや勝ち目が無い」ことを悟って、その絶望に殉じたと解釈しているのだ。そしてどうやら、『梅松論』も『太平記』の解釈に引きずられているように思える。そして、現代の小説家の多くが、この見方に引きずられている。かくいう筆者も、小説『黄花太平記』ではこの解釈に立っている。

 確かに、正成は仏教を深く信仰する人物であり、「来世」を強く信じていた。そのことは、現存する写経や願文などから明らかである。つまり、彼には厭世的な傾向があった。現世(後醍醐)に絶望した正成が、来世への早期の移行を願ったとしても不自然ではない。

 しかし、「最初から諦めていた」とするのには、湊川での最期の奮闘は凄まじすぎる。数の上で圧倒的に劣っていたのにもかかわらず、足利直義軍を大苦戦に陥らせ、その本陣を衝いて敵全軍を危機にさらしているのだ。もしも足利尊氏軍が新田勢への追撃を打ち切って楠木勢の背後を突かなければ、戦況はどうなっていたか分からない。

 筆者は、楠木正成は、「死兵」を用いて「最後の大逆転」を前向きに狙っていたのだと考えている。

 彼は、勝とうとしたのである。

 敗北も自決も、結果論に過ぎない。

 この時代の軍事組織は、近代ほど組織化されておらず、いくつもの中小武士団が寄せ集まって一つの軍を構成していた。「鶴翼の陣」だの「魚鱗の陣」だのというのは、実は江戸時代の大衆作家の創作である。日本には、明治時代になるまで「陣」と言えるほどの軍組織は存在しなかった。だから、「死兵」が突入すれば案外と容易に敵の本陣を衝けたのである。そして、敵の総大将さえ討ち取れば、戦局は完全に引っくり返る。

 だから小勢を率いる名将は、昔から必ずそれを狙ったのである。

 だから、源義経は一の谷や屋島で平家の大軍に勝利したのだし、毛利元就は厳島で陶晴賢を討ち取れたのだし、織田信長は桶狭間で今川義元の首級を挙げられたのだ。

 真田信繁だって、もしかしたら「大阪夏の陣」で徳川家康を討ち取れたかも分からない。楠木正行だって、「四条畷の戦い」で高師直の首級を挙げられたかも分からない。

 成否を分けたのは「運」である。

 しかし、歴史学者や小説家の多くは、どういうわけか「運」という要素を認めたがらない。彼らは、義経や信長や元就は「作戦」が優れていたから成功したのだが、正行や信繁は「作戦」が劣っていたから失敗したと考えるようだ。だが、筆者に言わせれば、昔の戦争の結果なんて、少なくとも戦術面においては、「運」が良かったか悪かったかの相違が大きいのである。なぜなら、人工衛星どころかインターネットも電話も無い時代では、敵味方の状況を適時に正確に掌握することは不可能であるから、どんなに優れた精密な作戦を立てても無意味だからだ。そのようなカオスの中で成否を分けるのは、「将兵の闘志」と「運」である。

 楠木正成は、湊川では残念ながら武運に恵まれなかった。しかし彼は体力が尽きるまで諦めず、直義軍と尊氏軍の両方に総計13度も突撃を仕掛け、残存兵力が73騎になるまで頑張った。

 歴史上の「革命家」は絶対に諦めない。

 キューバ革命のカストロは、強襲上陸先でバチスタ軍数万の待ち伏せに遭い、兵力の過半数を失い、生き残りがわずか十数名になったとき、「俺は勝ったぞ!」と叫んだ。なぜなら「俺が生き残ったからだ」と。これを聞いた盟友のチェ・ゲバラは、カストロのことを狂人なのかと思った。しかし、カストロが最終的に勝利したのは周知の事実である。

 高杉晋作は江戸幕府の大軍に町人上がりの「奇兵隊」を率いて挑んだし、西郷隆盛は新政府軍によって城山に追い詰められても、まだ自ら先頭に立って突撃した。

 「革命児」というのは、本質的にそういう人種なのである。上で紹介したカストロ、高杉晋作、西郷隆盛に共通するのは、物質的な名利よりも、むしろ精神的な価値を重んじ、理想と夢を諦めず、危険と冒険を求める生き様である。これはまさに、楠木正成と同一である。

 かつて千早城に篭る1千名で、日本全国の軍勢に勇敢に立ち向かった正成は、まさに「革命児」であった。だから彼は、湊川でも最後まで諦めなかったのである。

 彼がこの地で自決したのは、疲労が濃すぎたか負傷が重かったかして、退却できなかったからだろう。『太平記』によれば、正成は11箇所も負傷していたという。もしも逃げる余力があったなら、彼は京都に退却し、まだまだ戦い続けたのではないだろうか?

 「革命児」楠木正成は、最後まで希望のために戦った。仮に後醍醐の失政に失望していたとしても、必勝の献策を衆愚な者たちに棄却されたとしても、それでも自らが勝ち得た「元弘革命」の夢を捨てようとしなかった。

 筆者はそう信じている。

 

 その後

  湊川で大勝利を収めた足利の大軍の入京は、5月29日のことであった。

 後醍醐は、新田義貞に守られて比叡山に逃げた。

 光厳上皇ら持明院統は、この混乱に乗じて脱走し、足利軍に身を投じ北朝になる。

 楠木正成を失った比叡山の朝廷軍は、敵を包囲するどころか逆に包囲を受ける形勢となった。千種忠顕も名和長年も、京都を巡るこの戦いで戦死し、「三木一草」は枯れ果てたのである。これも、正成の必勝の戦略を棄却した当然の報いである。

 やがて後醍醐は、新田義貞を北陸に追いやって自分は投降した。しかし、尊氏と講和の条件が折り合わないものだから吉野(奈良県)に脱走して南朝を造った。こうして日本は、70年にわたる南北朝の戦乱に突入するのである。

 正成の遺児たちは、南朝のために粉骨砕身した。長男の正行と次男の正時は、四条畷の戦い(正平三年(1348年)正月)で、壮絶な戦死を遂げた。遺された三男の正儀は、南北朝の合体工作に大いに尽力した。

 南北朝の合体は、三代将軍・足利義満の策略によって、北朝が南朝を吸収する形で実現した(1392年)。この結果、楠木氏は山間の土豪にまで後退してしまったのである。その後の室町幕府に対するいくつもの反乱の影には、常に楠木氏の名が出てくる。

 最終的に楠木氏の「朝敵」の汚名が消えたのは、豊臣秀吉の側近であった楠木正虎という者の尽力によってである。

 やがて江戸時代に入って文化が栄え、『太平記』が人気小説になると、軍学者が「楠木流」という流派をこしらえたのだが、これは実際の正成とはまったく関係ない。

 やがて頼山陽らの文学者たちが、「儒教」の観点から、皇室のために奮闘した南朝の忠臣たちを褒め称えて美化した。その影響で、明治維新の志士たちが南朝の忠臣たちを尊敬し崇拝したことから、楠木正成はいきなり明治政府によって大英雄に祭り上げられたのである。これが昭和の戦争のころまで続き、多くの若者が犠牲になったことは全文の冒頭でも述べた。

 

 まとめ

  鎌倉末から南北朝期は、社会全体が複雑な激動に見舞われた大変革期であった。この渦中では、後醍醐天皇も足利尊氏も時代の波の中で翻弄される存在にしか過ぎなかった。楠木正成も、それと同じである。この時代が、大衆作家にあまり好まれない理由がそこにある。

 しかし楠木正成は、日本人にしては珍しいことに、長期的展望を持って大所高所から世の中の趨勢を洞察できる人物であった。また、逆境や困難を物ともしない不屈の闘志と勇気を持った「革命家」であった。ところが、肝心の「革命」が新政府の失策によって失敗に終わったため、悲劇的な最期を遂げることになった。ある意味、フランス革命のナポレオン、キューバ革命のチェ・ゲバラに良く似た運命を辿ったのである。

 正成は、生年も不明だし父親の名すら分からない謎の人物だ。しかし、その功業や事跡は様々な小説や史料から読み取ることが出来る。義侠心に厚く、篤い仏教の信仰心を持ち、味方から彼のために殉死する者を出し、敵にさえ愛され惜しまれる個性の持ち主であった。

 このような人物が先祖の歴史の中で活躍したという事実は、日本人すべてが誇りに思って良いことなのではないだろうか?

 楠木正成は、実際にはどのような人物だったのか?鎌倉・南北朝時代は、実際にはどのような時代だったのか?意外と、専門家でさえも良く分かっていない。

 この小論は、あくまでも素人作家としての考えを纏めたに過ぎない物であるが、読者の考察の役に立てるのであれば、南北朝時代をこよなく愛する筆者にとって、それに勝る喜びはないのである。

 

 

おわり

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