歴史ぱびりよん

第五話 幕府政治の登場

1、鎌倉政権の誕生
 
 源頼朝は、後世の評判は悪いが、極めて非凡な政治家であった。平清盛の失政を反面教師にした彼は、自らが宮廷貴族に同化されることなく武士の利権を確保する方法を発明したのである。それが、「幕府政治」だ。
 
 幕府とは、もともと中国の言葉で、軍司令官の本陣のことを言う。そして頼朝は、自ら「征夷大将軍」の官位に就き、それを幕府統治の根拠としたのである。すなわち、鎌倉幕府というのは、法制度的には「鎌倉に置かれた東国遠征軍の本陣」に過ぎないのである。
 
 しかし、それだけでは武士たちによる荘園統治を正当化出来ない。そこで頼朝は、政敵となった弟・義経が日本全国を逃げ回った際に、彼を追討するための権限を各地の武士団に与えるよう朝廷に申請した。義経に肩入れしていた後白河法皇は、おそらく頼朝の真の狙いに気づいてこの要求に不快感を抱いただろうが、頼朝の巨大な軍事力に威圧され、やむなくその要求に屈したのである。
 
 こうして、守護と地頭の制度が出来た(1185年)。各地の武士団は、荘園内において一定の警察権と裁判権を確保することが出来たのである。これがやがて経済的権益にも拡大し、日本経済は名実ともに武士たちに牛耳られることになった。
 
 こうして日本には、二つの権力中枢が出来たのである。法形式的には、京都の天皇と貴族が日本の主権者なのだが、その実質は、鎌倉に置かれた幕府(武士団)が国政の中枢を牛耳るという形態であった。そして、この奇妙な二重構造は、明治維新まで700年以上も続くことになる。
 
 ただ、鎌倉幕府は、非常に中途半端な過渡期の武士政権であった。なぜなら、天皇と貴族の権勢は未だに十分であって、いつ彼らの巻き返しが起きてもおかしくない状況であったし、幕府を構成する武士団の間に、幕府の主権者となるべき資格についてコンセンサスが出来ていなかったので、主権者の地位を巡っていつ内乱が起きてもおかしくない情勢であった。これらのバランスが大きく崩れた結果、南北朝・室町の戦乱が起きたのだ。
 
 それでも、鎌倉幕府は、不安定なバランスを保ちながらも、なんとか150年も生き延びた。その理由は、有能な政治家が続出したからである。特に、頼朝の外戚であった北条一門が優秀であった。
 
 初代将軍の源頼朝は、たいへん猜疑心の強い性質で、自分の権威を脅かす可能性を片端から排除した。従兄弟の義仲、叔父の行家、弟の義経と範頼を抹殺したのもその一環である。しかし、こうした政策の結果、有能な源氏一族は壊滅してしまった。そして頼朝の死後、彼の血脈が政争の中で絶えてしまうと、その瞬間から幕府の実権を握る熾烈な内部抗争が始まったのである。
 
 血で血を洗う抗争の末、幾多のライバルを滅ぼして最終的な勝者となったのが北条氏である。もともとは伊豆半島の小土豪であったこの一族は、独特の政治感覚で鎌倉政権を安定に導くことに成功した。
 
 狡猾なこの一族は、征夷大将軍(将軍)の地位に就こうとはせず、自らは補佐役として「執権」位に留まった。そして、将軍位は京都から皇族を迎えて埋めたのである。こうして、皇族の権威によって幕府内は纏まった。
 
 執権・北条義時、泰時、時頼らは、日本史上でも稀有の名政治家であった。泰時は、「御成敗式目」という鎌倉政権内での憲法を発布して、政権の安定に努めた。また、時頼には、諸国を漫遊して民の生活を視察したという伝説があるが、その真偽のほどはともかく、民がその善政を慕っていたことの傍証になろう。
 

2、承久の乱
 
 さて、東国の奇妙な臨時政府が朝廷の権益を脅かす情勢を、京都の天皇や貴族たちが座視していたはずはない。彼らは、様々な謀略を用いて幕府の屋台骨を揺さぶろうとした。初期の鎌倉政権内部で暗殺やクーデターが頻発したのは、朝廷の謀略の一環であった可能性が高い。
 
 三代将軍・実朝(頼朝の子)が暗殺されて源氏の血統が途絶えたとき、後鳥羽上皇は幕府撲滅の絶好の機会を見て取った。源氏の血統という中核を失った武士団は、纏まりを欠いた烏合の衆になることが予想されたからである。そこで上皇は、幕府の息があまりかかっていない西国の武士団を中心に据えて倒幕の兵をおこした。これが、「承久の乱」(1221年)である。

しかし、上皇は2つの点で誤算をしていた。
 
 1つは、鎌倉政権が、必ずしも源氏血統を絶対視していたわけではないことだ。この政権は、諸国の武士団が、荘園内での自己の権益を確保するために創設したものである。源頼朝が最初の将軍となった理由は、たまたま彼が担ぎやすい場所と地位にいたからに過ぎない。つまり、源氏の血統が滅んだとしても、武士団の権益へのニーズが生きている限り、その基盤が揺らぐことはなかったのだ。
 
 2つは、後鳥羽上皇が朝廷の権威を絶対視し過大評価していたことだ。彼とその取り巻き連中は、朝廷を敵に回した武士団は、天罰を恐れて戦わずに降参すると思い込んでいた節がある。しかし、既にそのような「神話」が物を言う時代ではなくなっていた。
 
 もちろん、朝敵の汚名を受けたとき、東国の武士団は大いに動揺した。しかし、尼将軍の異名を持つ北条政子(源頼朝の未亡人)が政権樹立までの苦節を語り団結を呼びかけると、彼らの戦意は高揚し、攻め寄せた朝廷軍を果敢に迎え撃って連戦連破したのであった。
 
 この戦いの結果、後鳥羽上皇とその取り巻きたちは隠岐などの遠島に島流しとなった。武士たちは、ついにその独立を戦場において公然と勝ち取ったのである。これは、日本史上において、民が官を打ち負かした最初の事件であった。革命と呼んで良いかもしれない。
 
 しかし、武士たちは朝廷を滅ぼして政権を一元化しようとはしなかった。その理由は、鎌倉政権が、あくまでも「朝廷の出張所」という建前でその権威を確保していたからである。つまり、彼らが朝廷を滅ぼしてしまうとその統治の根拠が失われてしまうのだ。また、天皇家には未だ強固な宗教的権威(日本神道の)があったので、それを失うことは日本人として憚られたのであろう。
 
 この辺りの複雑さが、日本史の顕著な特徴かもしれない。

 
3、御恩と奉公
 
 ところで、鎌倉政権というのは、現代で言うなら「農協」のような組織であった。いわば、農家(武士団)の寄り合い所帯だったからである。いちおう鎌倉には将軍や執権がいたが、彼らに期待された任務 は、武士団相互の利害調整であった。そのため、鎌倉政権の最も重要な機関は問注所(裁判所)であった。
 
 鎌倉幕府に参加した武士団は、「御家人」と呼ばれた。この御家人と幕府は、「御恩と奉公」と呼ばれる緩い契約によって結ばれていた。すなわち、幕府は、御家人の権益を護持し、働きに応じて恩賞を与え、あるいは他の御家人や寺社の間の利害調整を行う。その一方で御家人は、幕府の危難に際して軍事力や政治力を提供するという相互契約なのである。
 
 こういった緩い契約は、双方の利害関係が一致することで初めて実効を持つ。この政権の末路が呆気なかったのは、そのためであった。

 
4、宗教改革
 
 民間に目を向けると、鎌倉時代は農業生産性が上がり、庶民の生活が豊かになった時代だった。また、貨幣経済とそれに基づく信用経済が急激に発展し、いわゆる「民度」が急上昇した。それまでの寒冷期が、温暖期に変わったからである。
 
 また、「末法の世」になったという宗教観が、人々の心をむしろ自由にしたようだ。
 
 これを背景に、仏教世界の宗教改革が始まった。
 
 従来の仏教は、しょせんは朝廷の権威付けの道具であり、知識人たちの学府であり、あるいは怨霊鎮魂の装置であった。そこには、「民衆」という視線はまったく感じない。あくまでも特権階級のための道具だったのである。
 
 これに対し、鎌倉新仏教は、あくまでも「民衆の幸福」を主眼にしている点が新しい。これはまさに宗教改革である。日蓮(日蓮宗)、親鸞(真宗)、一遍(時宗)らは念仏の力で、道元(曹洞宗)、栄西(臨済宗)らは座禅の力で、民衆の精神生活を安定させ、彼らを極楽浄土に導こうとした。
 
 ヨーロッパの宗教改革(14世紀~17世紀)も、煎じ詰めれば、カトリック教会や王侯諸侯の権力行使のための道具であった宗教を、民衆の幸せのために敷衍した行為であった。日本の宗教改革が、彼らのそれほど過酷な経過を取らなかった理由は、仏教がキリスト教と違って攻撃的な教えでは無かったためであろう。
 
 仏教信者は、悟りをひらき極楽浄土に行くことを目的としているが、その手段は何でも構わないのが建前である。だから、念仏でも座禅でも自由に選んで構わないのである。そのため、キリスト教などの一神教世界と比べれば、流派の違いをもとに血で血を洗うような闘争に発展することが少ないのだ。もっとも日蓮は、法華経以外の経典を否定する立場をとって社会問題を引き起こし、鎌倉幕府に激しく憎まれたのであったが。
 
 ともあれ、仏教はこうして大衆化し、その影響は今日まで続く。

 
5、蒙古襲来
 
 13世紀のユーラシア大陸は、世界史的大事件に見舞われていた。
 
 モンゴルによる世界帝国の形成である。英雄チンギス・ハーンとその子孫たちは、ユーラシア大陸のほぼ全域を平定統一したのであった。
 
 東アジアでは、朝鮮半島の高麗王朝がモンゴルの膝下に屈し、女真民族の金と漢民族王朝の宋(南宋)が、相次いでモンゴルに呑み込まれた。すなわち、日本はモンゴルの勢力圏に完全に包囲された形となった。
 
 こうして東アジア一円を支配するに至ったモンゴル王朝「元」は、皇帝クビライ(フビライ)に率いられ、その勢威はベトナムやインドネシアにすら及ぶほどだった。そしてクビライは、朝貢を要求する使者を日本に送った。
 
 こういった場合、権力構造が多元化している我が国は、パニックに陥る場合が多い。朝廷と幕府は互いに責任のなすり合いをはじめ、結局、使者を無視することにした。
 
 これは、宣戦布告を意味する。
 
 日本と中国の間には、もともと朝貢関係(中国とその周辺国が結ぶ独特の主従関係)が存在しなかった。日本人は、「日本の天皇は中国の皇帝と対等の立場である」と自負していたのである。もちろん、中国皇帝の方は、日本を辺境の属国のように見ていただろうけど。
 
 クビライは、そういった複雑な政治関係を理解しておらず、他の周辺諸国に対するような軽い気持ちで朝貢の使節を日本に派遣したのに違いない。そして日本側は、そういったモンゴル側の政治的無知を斟酌しなかったのだ。戦争というのは、しばしばこういったボタンの掛け違いによって引き起こされる。
 
 それにしても、外交問題を一元的に解決しようとしないのが日本の悪いところである。この性向は、20世紀に入ると最大級の悲劇となってこの国に襲い掛かる。
 
 さて、モンゴルは、直ちに日本を攻撃する準備に取り掛かった。報復措置を取らなければ、大帝国の威信が保てないからである。そして、日本の歴史において、列島がこれほどまでに大規模な軍勢の侵攻を受けるのは初めてのことであった。
 
 開戦必至と見た日本は、全国の寺社に大規模な祈祷を行わせるとともに、九州沿岸に御家人を参集させた。
 
 文永十一年(1274年)、朝鮮半島を基地としたモンゴル軍3万が対馬、壱岐両島に襲い掛かった。両島はたちまち陥落し、武士のほとんどが討たれ、住民は奴隷のような扱いを受けた。女たちは、両手の掌に穴を穿たれ、そこに縄を通され数珠のように船に繋がれたといわれる。残酷だと思う人が多いだろうけど、戦争というのは本質的にそういうものである。
 
 さて、対馬、壱岐の両島を補給基地としたモンゴルの軍船は、博多湾に上陸を開始した。大宰少弐一族を主将とした日本軍は、海岸線でこれを迎え撃ち大激闘となる。モンゴル軍(その兵員の多くは高麗人だったと思われる)は、鉄砲(てつはう)という爆弾の一種を使用し、しかも槍衾を敷いた歩兵の集団戦法を得意とした。これに対する日本軍は、馬上から弓を射る個人芸だったために苦戦となった。大きなカルチャーショックを受けたであろう。
 
 それでも、尚武をむねとする武士たちの戦意は高く士気は固かった。モンゴル軍は、博多市内に攻め入って放火したため、この街は全焼したものの、モンゴル軍の人的損害も甚大であった。彼らの副司令官ですら、矢を射られて重傷を負ったほどである。そこで彼らは、空が明るいうちに海岸で待つ軍船に引き上げた。
 
 ここから先の出来事については、説が分かれる。従来の通説では、暴風雨によって軍船が難破してモンゴル軍が全滅したとされた。しかし、最近の研究では、この時期(冬)に博多湾で暴風雨は吹かないことから、モンゴル軍が自主的に退却したという説が有力である。
 
 思うに、この遠征はモンゴル軍の「小手調べ」であっただろう。彼らは、日本の軍事力について完全に無知であったから、とりあえず3万人を送り込んで「威力偵察」を試みたのではないだろうか。そして、想像以上に手ごわいことが分かったので、日本軍の情報を持っていったん引き上げたというところだろう。
 
 しかし、敵の情報を入手したのは日本側も同様であった。鎌倉政権は、次回の侵略に備えて綿密な準備をした。まず、九州方面の軍事力を充実させ、さらに山口県から長崎県に至る長大な海岸線に石で防壁を築いた。
 
 その間、モンゴル帝国は中国江南地方で粘る南宋をついに滅亡させた。この地の豊富な資源と人材を得た帝国は、その強大な軍事力を一気に日本に向けてきた。朝鮮半島を基地とする東路軍は5万、江南地方を基地とする南路軍は実に10万を数えた。
 
 弘安四年(1281年)の初春、先発した東路軍は、あっという間に対馬と壱岐を占領した。日本側は、この島を「捨石」と考えて、この地の防衛努力を最初から放棄していたのだ。そして東路軍は、前回と同様に博多湾に攻め寄せた。だが、海岸線に築かれた防壁が効果を発揮し、モンゴル軍は上陸を阻止されたまま海上を彷徨う運命に陥った。そんな彼らを、小船に乗った日本の武士団が夜襲して大いに苦しめる。
 
 遅れて到着した南路軍も、この戦況を逆転させることは出来なかった。博多湾を埋め尽くす大船団は、海岸に橋頭堡を確保出来ぬまま夏を迎え、そして悲劇が起こった。折からの台風が、この地域の海上気象に無知な侵略軍に襲い掛かったのである。モンゴル軍の軍船は、過重なノルマの下、やっつけ仕事で造られた欠陥船が多かったらしい。あっというまに浸水し、そして、その大部分が海の藻屑となった。
 
 あっけない幕切れであった。「神風が吹いた」のである。神州不滅の「神話」は、このとき形成された。
 
 モンゴル軍の敗退は、確かに台風の結果であった。しかし、初春に攻め寄せた彼らを、台風が訪れる晩夏まで海上に押し止めたのは、決死の覚悟で奮闘した武士たちの功績である。そのことは忘れるべきでないだろう。

 
6、鎌倉の落日
 
 鎌倉政権は、もともと非常に不安定な土台の上に立っていた。朝廷とのパワーバランスしかり、御家人たちとの緩やかな協定関係しかり。その土台を大きく揺さぶったのが蒙古襲来(元寇)であった。勝利した鎌倉政権は、勝利したゆえに不安定になったのである。
 
 幕府のために役務を提供した御家人は、「御恩と奉公」の契約において相応の恩賞を貰う権利がある。この場合の恩賞とは、結局は「土地」である。しかしながら、モンゴルとの戦いは防衛戦争だったので、得られた土地は寸借もない。九州で奮戦した御家人たちは、恩賞が貰えないことに憤った。これを契機に、一枚岩だった幕府に大きな亀裂が生じたのである。恩賞問題をめぐって鎌倉政権内部に恒常的に内紛が起こり、その過程で、幕府幹部たちが訴訟事件を出鱈目に処理したり賄賂を取ったりというモラルハザードが頻発した。つまり、幕府は、その構成員たちによって期待される本来の仕事を果たさなくなったのである。
 
 それ以上に重要なのは、鎌倉時代の中ごろを境にして、日本全体で経済社会が大変革を起こしたことである。すなわち、貨幣経済の大発展と商業資本の伸長である。大陸から輸入した貨幣(宋銭)を梃子にし、主に九州や関西などの西国で信用経済が成長したのだ。日本は、それまでの農業経済から商業経済に大きく移行しようとしていた。
 
 しかし、鎌倉政権は武士団(農業経営者)の集合体であるから、商業経済にはまったく興味を持たなかった。しかるに鎌倉末期になると、武士団が高利貸しから土地を担保に借金をして贅沢な遊びをし、その結果、先祖伝来の所領や馬具武具を質流れにされてしまう事件が頻発したのである。鎌倉幕府は、もともと武士団の権益を保全し、武士団相互の利益調整を本務とする機関であるから、商人と武士団との利害調整を行うことは想定外事項だった。そんな幕府は、結局、武士団を救済するために高利貸し(商業資本)を弾圧するしかない。それが徳政令(借金棒引き令)である。だが、このような政策が、時代の流れに逆行する一時しのぎであることは明白であるから、徳政令の乱発は信用経済を混乱させ、いわゆる「貸し渋り」が起きた。そのために、必要な融資を受けられずに窮乏化する武士たちが増えていった。彼らは、当然、幕府に不満を抱く。
 
 また、商業資本の蓄積が進んでいた西国では、幕府に反する反政府活動が頻発した。幕府は、西国で暴れまわる者たちを「悪党」と呼んで恐れたのである。
 
 そして、このような不穏な情勢に、ついに朝廷がからむことになった。

 後醍醐天皇の登場である。