歴史ぱびりよん

第四話 平安時代

1、「平安」という時代
 
 さて、増大する寺社や貴族の権勢に危機感を覚えた桓武天皇は、新規蒔き直しを図るべく京都に遷都を試みた。紆余曲折を経て、平安京が出来上がる。これが、いわゆる平安時代の開幕である(794年~)。
 
 この天皇は、さらなる皇室の威信増加を目論んで、東北地方に蝦夷討伐軍を派遣し、一定の成果を挙げた。征夷大将軍・坂上田村麻呂が活躍したのはこの時である。天皇家の威信は、岩手県北部にまで及んだのだった。しかし、ただでさえ危機的な国家財政は、遷都や遠征でついに破綻を喫したのである。
 
 桓武天皇は、ついに軍隊を廃止した。首都警備隊と九州防衛隊(防人)のみを残して。国軍の廃止とは、随分と思い切った措置であるが、これは、日本が荒波に守られた島国だから可能な政策であった。ただ、古代の軍隊は警察も兼ねていたから、この乱暴な政策の結果、地方は無法地帯と化したのである。
 
 地方で私有地を有する豪族(名義のみ「荘園」となって、租税を免れている者が多かった)は、自衛のために武装を開始した。中央で部屋住みとなっていた皇族や貴族の末子は、この情勢を見て、地方で身を立てようと武芸を磨いて移住していった。清和天皇の子孫は源氏となり、桓武天皇の子孫は平氏となったのである。これが、「武士」の起こりである。
 
 平安時代の奇妙なところは、支配階級である中央の朝廷が軍事力をほとんど持たないのに、被支配階級である地方の豪族たちが強大な軍事力を保有していた点である。これは、世界史的に見て極めて奇妙な現象である。
 
 通常の場合、支配の根拠というのは軍事力によって表彰される。支配される側というのは、軍事的に歯が立たないので支配に甘んじるのが普通なのである。
 
 ところが、日本の朝廷や貴族たちは、軍事力を持たないくせに、何となく税金を集めてその上に乗っていたのである。具体的な政治は地方豪族たちの裁量に任せ、自分たちはまともな政治を行わず、和歌を詠む毎日であった。
 
 どうして庶民は、このような状況に甘んじていたのだろうか?平安時代は、各地で国司や代官に対する訴えは頻発したが、政権を打倒しようとする革命運動は生じなかった。
 
 第一の理由は、日本が豊かな国だからである。平安時代は寒冷期で貧しかったとされているが、それでも諸外国に比べれば恵まれていたのである。庶民は、貴族によって搾取されても、まだ飯が食えていた。飯が食えているうちは、たいていの権力の不正に目をつぶるのが庶民の習い性なのである。これは、現代でも同じ事が言える。
 
 第二の理由は、やはり日本神道の影響だろう。天皇は神の子孫であり、朝廷は神々と人間を結ぶ大切な宗教機関である。だから、ちょっとくらい税金が重くても、貴族が和歌を詠んで遊んでいても、甘んじなければならないというコンセンサスが出来ていたのだろう。もっとも、当時はマスコミが無かったから、貴族が日ごろ何しているかなんて、庶民には知りようも無かったのだろうが。
 
 たまたまこの実情に気づいたのが、例えば平将門のような人物である。常陸(茨城県)で挙兵して新王を名乗った彼は、単なる野心家ではなく、民衆のために国を変えようとした革命家だったのかもしれない。その壮途は、道半ばにして破れたのだが(天慶の乱。939年)・・。

 
2、権力闘争
 
 宮廷では、お公家さんたちが和歌を詠んだり夜這いをかけたりしているだけではなく、なかなか薄暗い権力闘争が行なわれていた。
 
 天皇は、単なる飾り物であった。貴族たちの良いように祭り上げられるだけで、政治の実権には全くタッチできなかったのである。
 
 政権を独占したのは、貴族の藤原一門であった。彼らは、娘を天皇家に輿入れさせることで「外戚」となり、政治を壟断したのである。そんな彼らの覇権に挑戦した者は、菅原道真(大宰府に左遷)や伴善男(応天門の変)のように、罠に嵌められて失脚する運命にあった。
 
 それでも、天皇の中には覇気を持つ者がいて、平安末期に「院政」という政治の仕方を思いついた。すなわち、早めに退位して上皇となり、藤原氏の手の及ばない隠居所を拠点に政治を行なおうというのだ。また、藤原一門といえども、適当な女子に恵まれず、天皇家との恒常的な縁戚関係を維持できない時期もあった。こうして、少しずつ藤原一門の勢力は衰えていった。
 
 だが、冷静に考えるなら、これらの権力闘争はいわば宮廷という「象牙の塔」の中の話であって、日本全体にとってはさしたる問題ではなかった。なぜなら、公地公民制が崩壊した時代においては、民生を掌るのは荘園領主、そして武士団だったからである。
 
 平安末期になると、武士団は、大別して源氏と平氏の二大勢力に収斂されていた。
 清和天皇の後裔を自認する源氏は、主として東国でその勢力を伸ばした。その契機となったのが、いわゆる「前九年後三年の役」(1051年~)である。陸奥(岩手県)の大豪族、阿部頼時の反乱を鎮圧するために出陣した源氏勢力は、九年の歳月をかけてこれを滅ぼし、その後、阿部氏に代わって権勢を誇った清原氏の内部抗争を三年の歳月をかけて鎮定したのであった。この戦いで功績を立てた源義家(八幡太郎)は、源氏の守護神となる。

一方、桓武天皇の後裔を自認する平氏は、主として西国で勢力を伸ばした。その契機となったのは、大海賊・藤原純友の反乱の鎮圧である(941年)。
 
 武力を持たない朝廷は、地方の戦乱の鎮圧を有力な武士団に委ねざるを得なかった。そして、そのような事態が頻発すれば、朝廷の権力が次第に武士に蚕食されて行くのは自然の流れである。
 
 やがて、朝廷の皇族や貴族たちは、自分たちの権力争いに源氏と平氏の武力を利用するようになった。こうして起きた「保元の乱」と「平治の乱」の結果、朝廷の実権を握ったのは、平氏の長である平清盛であった(1167年)。
 
 朝廷内の権力争いは、武士に国の実権を奪われる形で終結したのである。
 

3、言霊の世界
 
 平安時代の顕著な特徴は、王朝文学が非常に盛んだったことである。世界最古の長編小説と言われる『源氏物語』や『竹取物語』、そして『古今和歌集』など、世界的にも高水準な文学作品が目白押しであった。
 
 その理由は、我が国独特の「言霊(ことだま)」文化によるところが大きい。
 
 日本人は、言葉には霊力が宿ると信じる性向がある。すなわち、言葉に心をこめて念じれば、その願いが本当になるというわけだ。この傾向は平安貴族の間で特に顕著であって、彼らが日がな一日歌を詠んだり本を書いたりしていた理由は、それが世の中のためになると信じていたからでもある。
 
 言霊という考え方は、必ずしも日本だけのものではない。中国でもヨーロッパでも、そういう文化が無いわけではない。ただ、日本神道は、言霊を重んじる傾向がとりわけ強いのである。
 
 また、日本神道は、「言霊によって対象を美化(ことあげ)することによって、対象が抱く怨念を鎮魂できる」という特殊な考え方をしていたようだ。そして、怨霊さえ鎮魂されたなら、気候不順も天災も疫病も克服できると信じていたらしい。
 
 『源氏物語』が成立したのは、藤原一門の権威が絶頂だったころで、筆者の紫式部は藤原道長に仕えていた。そういった事情を鑑みると、この小説は、道長の政敵たちの怨霊を鎮魂するために書かれた可能性が高い。すなわち、小説の中で不幸な生い立ちの「光源氏」を美化し称揚することで、皇位にもつけず高い官職にも就けなかった幾多の「負け組」たちを鎮魂したという解釈である。
 
 『竹取物語』についても、似たような解釈がある。すなわち、竹取というのは賤民の総称で、かぐや姫は賤民の代表である。そのヒロインが、貴族たちや天皇を袖にする有様を描くことで、時の朝廷に虐げられていた人々の怨念を鎮めたという解釈である。
 
 『古今和歌集』にも、似たような解釈がある。小野小町ら六歌仙は、最近の研究では政争に敗れて落剥した人々であった可能性が指摘されている。この歌集の撰者たち(紀貫之ら)は、彼らを美化し称揚することで、その怨念を鎮めたというのである。
 
 要するに、歌や文学には怨霊を鎮める効用があり、藤原一門を中心とする平安貴族たちは、政争によって後ろ暗いことをし続けた自分たちを、こういった方法で安心させていたのである。その動機は不純だが、それでも彼らの恐怖心のおかげで世界最高峰の文学が日本から生まれたことを感謝すべきであろう。
 
 ちなみに、神社というのも鎮魂の道具である。出雲大社は大国主尊(おおくにぬしのみこと)の霊を慰める施設だし、太宰府天満宮は菅原道真の霊を慰める道具であった。これが、明治以降は「英雄を称揚する道具」に変質するのであるが。
 
 さらに言えば、比叡山延暦寺や南都興福寺といった仏教寺院は、学府としての機能も果たしてはいたが、その最も期待された役割は「怨霊鎮魂」であったらしい。
 
 言霊と怨霊は、平安文化を語る上で欠かせぬキーワードである。
 

4、平氏政権
 
 話は、再び政治の世界に戻る。
 
 12世紀終盤、政治の実権は平氏一門に握られていたのだが、そのリーダー平清盛は、なかなかの傑物であった。
 
 彼は、朝廷内に入り込んで、自分の娘を天皇に娶わせる方法で政権を掌握した。また、平氏一門に朝廷の要職を独占させた。ここまでは、従来の摂関藤原氏の同工異曲である。しかし、清盛は従来にない手法で日本の国富を増そうと考えた。すなわち、海外交易である。
 
 日本の外交史を俯瞰すると、外国との窓を閉じたり開いたりの繰り返しである。古代は、割合と開きっ放しであったが、白村口の戦いで朝鮮半島の拠点を喪失してからは、あまりチャンネルを持たなくなった。それでも、奈良朝廷のころから「遣唐使」という形で中国に連絡船を派遣し、当時の世界的先進国であった大唐帝国からの文物の導入に努めた。科挙に合格して中国の官僚になった阿部仲麻呂や、密教の摂取に勤めた空海や、渡来僧の鑑真などが活躍したのもこの時代の話である。しかし、唐が「安史の乱」で大混乱状態になると、朝廷は菅原道真の建議を受けて「遣唐使」を廃止した。その後は、すでに摂取済みの外国文化を、日本流にアレンジする日々であった。そういう点でも、日本の地政学的優位は明らかである。四方を荒波に囲まれた我が国は、自分の都合に合わせてチャンネルを閉じたり開けたり出来たのだから。
 
 そして平清盛は、海外とのチャンネルを、文化ではなく経済交流という形で開こうと考えたのであった。彼は宋に貿易船を送るとともに、都を京都から福原(神戸)に遷すことまで行った。
 
 しかし彼の政策は、あくまでも朝廷と貴族サイドに偏っていて、国の実権を握りつつある武士団のニーズを全く無視していた。その点、後の後醍醐天皇の失政に似ているかもしれない。
 
 この時代の政治制度の大問題は、各地の荘園の実質的権力者である武士団が、法的には貴族の奴隷に過ぎないという点であった。武士たちはこのことが不満で、自分たちのリーダー(であるはず)の清盛に抜本的解決を期待していたのだが、自らが貴族社会の一員となった清盛には、彼らの望みを適える意思も手段も皆無なのだった。
 
 こうして、日本に大戦乱が訪れる。
 
 源平合戦である。
 
 「平治の乱」で敗北して以来、平氏(平家)の膝下に置かれていた源氏の残党は、源頼朝を中心にして東国で蜂起した。平家の政治に不満を持っていた全国の武士団は、この動きに同調する。しかし、これを迎え撃つべき平家方は、京都以西の西国が大飢饉に見舞われ、さらに大黒柱の平清盛が病没するという大波乱。その間、源氏方には天才的な名将・源義経(九郎判官)が登場し、「一の谷」、「屋島」で平家の拠点を覆滅した彼は、ついに関門海峡の「壇ノ浦の戦い」でこの一門を滅亡させることに成功したのである(1185年)。
 
 こうして、源氏の天下が到来した。