歴史ぱびりよん

第七話 革新の時代

nobunaga

織田信長

1、戦国時代とは何か?
 
 戦国時代が始まった理由は、朝廷や幕府といった中央政庁の権威と能力が完全に崩壊し、日本人を一つに束ねるための紐帯が消滅したからである。もともと諸大名に対する統制力が弱かった室町幕府は、応仁の乱以降はその実権を失っていた。将軍家を取り巻く管領などが、私利私欲を得るための道具としてこれを飾り物にするのみであった。
 
 そのような情勢下では、人々は地方ごとの自治体に身を寄せて生活の保障を得なければならなかった。その自治体は、本願寺などの武装宗教団体の場合もあり、堺などの武装商人町の場合もあったが、もっとも有力でポピュラーなのが戦国大名であった。
 
 戦国大名とは、室町幕府の地方行政機関が、独自の武力と政治機構を確立して幕府の統制から独立したものを言う。ただ、戦国大名にも様々な潮流があり、中には名も無い庶民が大名家を乗っ取って成立したり(斉藤道三)、小さな土豪が、実力で周辺勢力を併呑し巨大化したり(小田原北条家、毛利家、長曾我部家)といった変り種もあった。
 
 戦国時代の特徴は、完全な「実力主義」だったことである。どのような名門でも、能力が低ければ簡単に滅ぼされてしまうような「下克上」全盛の時代であった。だからこそ、斉藤道三のような庶民や伊勢長氏(北条早雲)のような流れ者が、大名家(美濃の土岐家、小田原の大森家)を乗っ取るような事態が起こり得たのだ。
 
 戦国大名は、激烈な実力主義の中で、己の統治の根拠を常に領内の民衆に示し続けなければならなかった。すなわち、周辺勢力との戦争に勝利し、また民生を充実させなければならなかったのだ。朝倉家、今川家、武田家、長曾我部家などは、領内に独自の法令を発布して民生の充実に努力した。また、武田信玄の治水工事(信玄堤)に代表されるように、領内でのインフラ整備に尽力した。
 
 戦国時代の戦争行為について、最近では「民衆に副業を与えるためだった」という説がある。すなわち、民衆の大半を占める農民は、農閑期には仕事が暇になる。そんな彼らが、戦国大名を突き上げて他領を侵略することで副業収入をゲットしたというわけだ。これは、戦国時代において、農閑期における戦争頻度が高かった理由の一つになるだろう。とにかく、戦国大名は領内の民衆に非常に気を遣ったのである。それは、戦国大名の存立基盤が権威に頼れない実力本位ゆえ、常に民衆感情に気を配らねばその地位を保全出来なかったからである。もしかすると、日本史の中で最も「護民」が意識されたのは、この時代だったかもしれない。
 
 また、彼らは戦争に勝ち続けなければならなかった。何度も戦争に負けて領内の民衆を保護できないような弱い大名は、部下や民衆に見限られてあっという間に滅亡に追い込まれる厳しい時代であったのだ。
 

2、鉄砲とキリスト教
 
 このような過当競争下では、技術改革や組織改革が急ピッチに進む。
 
 種子島に漂着した(交易に来たのだという説もある)外国船に乗っていたポルトガル人が日本に始めて鉄砲をもたらしたとき(1543年)、この近代兵器がわずか10年足らずで日本全国に流通することになろうとは誰も予想しなかっただろう。もともと手先が器用で技術力の高い日本人は、たちまち鉄砲の製造法を会得してしまったのである。この新兵器は、厳しい競争下の大名たちにとって極めて有益な道具であった。
 
 しかし、フランシスコ・ザビエルがもたらしたキリスト教は、それほど急ピッチには広まらなかった(1549年~)。領内でキリスト教の布教を許した大名は、南蛮(西洋)交易による経済力の強化に興味があり、キリスト教そのものはどうでも良かったからである。要するに、過当競争下の大名家にとっては、キリスト教は「役に立たない道具」だったのだ。
 
 この時期にキリスト教の宣教師がアジア各地を訪れた理由は、ヨーロッパでの政治経済事情が風雲急を告げていたからである。プロテスタントの宗教改革によって既得権益を失いつつあったカトリック教会は、ヨーロッパを遠く離れた新大陸(アメリカ)やアジアにその勢力を扶植し、もって本国での巻き返しを画策したのである。来日したザビエルは、反宗教改革の急先鋒イエズス会の大幹部であった。また、スペインとポルトガルを中心とした西欧各国は、この当時、富を求めて世界中に探検船や交易船を派遣していた(大航海時代)のだが、イエズス会の修道士はその先兵としても機能していたのである。
 
 西欧諸国は、日本を植民地にしようと狙っていたのであろうか?それは恐らく違うであろう。当時の西欧諸国は、アジアまで交易船と少数の軍隊を派遣するのが精一杯で、とても国単位での戦争を行える力は無かったからである。また、当時の中国や日本の軍事力は、西欧列強と比べても遜色の無いものであった。
 
 戦国時代の日本は、軍制改革や新兵器の技術革新が一段と進み、ほとんど世界最強の軍隊を持つ国家であった。ただ、その軍事力は地方ごとに分散され統一性の無いものであった。そもそも、日本を一つに束ねる政治的権威すら瓦解していたのであるから。
 
 この状況を一変させたのが織田信長である。

 
3、織田信長の天下布武
 
 織田信長は、日本史のスーパーヒーローである。日本人離れをした西欧型のカリスマである。彼は、和の精神なんてそっちのけ。怨霊なんて全然怖くない。とにかく自分のポリシーを絶対視し、逆らう者には全く容赦しないのだ。しかし、こういうタイプの政治家が必要とされる時代が必ずある。戦国時代こそ、まさしくそういう時代であった。逆に言えば、実力本位の戦国時代だからこそ、信長のような人格が育まれ鍛えられたのであろう。
 
 尾張(愛知県西部)の小領主の家に生まれた信長は、父信秀の後を継いでから10年で国内を統一し、それから20年足らずの転戦の末、京都を中心とした日本の中枢を完全に支配した。道半ばにして部下の裏切りで暗殺されなければ、間違いなく日本全土を掌握していたことだろう。
 
 彼の成功要因を箇条書きしてみよう。
 
(1)若いころから天下統一の野心を燃やし、その実現に尽力した。
(2)室町将軍や天皇といった「昔の権威」を飾り立て、自分の政治行動の正当性を担保するバックボーンとした。
(3)抵抗勢力に対して非妥協的態度を貫いて殲滅に努めたため、すなわち妥協したり和合したりしなかったため、あらゆる政治行動を完全なフリーハンドで行えた。
(4)商業資本を重視しその育成に努めたため(楽市楽座)財政が充実し、その結果、農村と切り離された専業兵士を基幹戦力に位置づけ、新兵器の鉄砲を大量に装備できた。
(5)徹底的な能力主義の人材登用と人材評価を行ったため、信長の下に経験豊富で優秀な部下ばかりが集まった。
 
 以上のことから窺えるように、信長の政策は何から何まで革新的で革命的だった。
 
 織田信長は、今川、斉藤、朝倉、浅井、三好、武田、そして本願寺といった抵抗勢力を次々に倒して行き、ついには抵抗勢力と結託した足利将軍家(十五代将軍・義昭)を京都から放逐してしまう。これが室町幕府の滅亡である(1573年)。
 
 信長は、安土(滋賀県)に広壮な居城を築き、ここを拠点に天下を睥睨した。彼の圧倒的な軍勢は、北に上杉氏と戦い、東に関東諸豪と戦い、西に毛利氏と戦った。
 
 そのころの朝廷は、天皇自らが書画などの内職をしなければならないほど落剥困窮していたが、信長が天下人となって行く過程で様々な援助を受け、ようやく政治機関としての機能を回復していた。そんな朝廷は、信長を征夷大将軍に任命しようと考えていた。この強大な独裁者と朝廷との位置関係を明確にしたかったのである。
 
 しかし信長は、右大臣以上の官位を得ようとはしなかった。彼の夢は「天下布武」。あくまでも、武士階級を日本の主権者とし、朝廷は武士を権威付けるための単なる宗教機関で良いと考えていた形跡が濃厚である。
 
 そんな信長は、天下統一に王手をかけた矢先、京都にて部下の明智光秀の突然のクーデターに倒れた。本能寺の変である(1582年)。この明智光秀は、低い身分から信長によって大抜擢され、忠勤に励んでいた重臣である。信長は、彼を深く信頼していたようである。その光秀が、なぜ突然反逆したのかは歴史上の一大ミステリーになっている。
 
 保守的な性質の持ち主だった光秀は、朝廷をないがしろにする主君を見て、朝廷の消滅の危機を深く憂えて反逆したのかもしれない。もしもそうなら、古代ローマ世界で、共和制消滅の危機を憂えてカエサルを殺したブルータスの心事に近いものがある。歴史上、あまりにも過激な改革を行う独裁者が、最も信頼していた側近に裏切られるのは良くある話だ。
 
 その光秀は、中国地方の遠征を切り上げて上京して来た羽柴秀吉(信長軍の西部戦線司令官)にあえなく討ち取られた。信長横死後、わずか11日間の天下であった。
 
 そして、信長の後継者となったのは、その遺児ではなく、この羽柴秀吉であった。実力主義の戦国時代では、血統など何の価値も持たないのだ。光秀の果実を奪い取った秀吉の立場は、カエサル死後の古代ローマにおけるオクタヴィアヌスに似ているかもしれない。

 
 4、豊臣政権の正体
 
 羽柴秀吉は、巧みな政治工作でその地位を高め、信長の重臣ナンバーワンであった柴田勝家を賤が嶽の戦いで破り(1583年)、信長後継者としての地位を確立した。柴田勝家の立場は、カエサル死後のローマにおけるアントニウスに似ているかもしれない。夫に殉じたお市の方(勝家夫人で信長の妹)は、さしずめクレオパトラか。
 
 さて、秀吉は前項の(1)~(5)の基本路線について原則的に信長路線をそのまま踏襲したのだが、(3)については信長に比べると日本人的な政治家で、敵対勢力と和合してこれを取り込むことを得意とした。彼の天下制覇の過程で滅亡にまで追い込まれた有力大名は、小田原北条氏のみである。それ以外の諸大名、すなわち中国の毛利氏、九州の島津氏、四国の長曾我部氏、北陸の上杉氏、奥州の伊達氏、そして東海の徳川氏などは、小競り合いと政治工作の末に秀吉に屈服し、その従属者となった。また、信長の最大の強敵であった本願寺は、秀吉の謀略によって西本願寺と東本願寺に分裂させられて牙を抜かれてしまった。こういった柔軟な政策によって、秀吉は信長の後継者の地位を固めてからわずか7年で天下統一を達成することが出来たのである。
 
 以上のことから分かるとおり、秀吉の政権は有力大名の寄せ合い所帯であって、室町幕府の再生と言うべきものであった。しかし、ここで問題になるのは秀吉の持つ「権威」である。彼はその独特の政治力と軍事力で仮初めの天下人となったわけだが、その地位を維持するためには絶対的な権威が不可欠である。しかし彼は、足軽から成り上がった「下克上の申し子」ゆえ、血統に基づく権威は存在しない。そこで、窮した彼は、朝廷の権威に縋り付いたのである。
 
 羽柴秀吉は、その姓を「豊臣」に変えた。朝廷から高貴な姓を授けてもらう形で権威付けを行ったのだ。また、その官位は貴族の最高位である関白にまで昇った(1585年)。さらに、大阪の地に広大な大阪城を築いて諸大名を圧伏して見せた。こうして豊臣政権は、平清盛の政権と室町幕府の折衷案みたいなものになったのである。
 
 この過程で、もはや「死に体」であったはずの「王権」が、その権威を取り戻すのだから皮肉である。秀吉は、自らの威信を高めるために、朝廷と天皇をとことんまで尊ぶ必要があったからだ。
 
 しかし、いかに関白や太政大臣になったとしても、秀吉が賤しい出自であることは周知の事実であるから、その権威の維持と政権の安定確保はなかなかの難事であった。それを知る秀吉は、有力大名同士を競合させたり派手な恩賞をばら撒いたりして、大名たちを牽制、懐柔したのである。
 
 幸いなことに、豊臣政権の全盛期は、日本が経済バブルに見舞われた時代であった。掘削技術の進歩によって日本全国から金や銀が多量に産出され、また戦乱の終わりとともに商業資本が急成長して日本全国が好況の波に乗ったのである。秀吉は、茶会などでこのムードに乗った陽気な演出を行い、その威信確保に努めたのであった。大阪商人が、今でも秀吉の時代を懐かしむのは、このときのバイタリティ溢れる空気を忘れがたいからであろうか。
 
 日本は、室町から戦国時代の間に、豊かな文化と技術を極限にまで研ぎ澄ませてきた。たまたま政治が混乱していたから、国家レベルでその実力を発揮できなかったのである。しかし、豊臣政権が誕生したことによって、その民度はようやく一つの紐帯によって繋がれ、そして真の実力を出せるようになったのだ。桃山時代の豊かな文化と経済は、こうした文脈で初めて説明することが出来るだろう。
 
 ヨーロッパの宣教師たちが競って賞賛したほどの日本のパワー。しかし、そのパワーは、不幸なことに対外戦争という形で放出されることになる。
 
 朝鮮出兵である。
 

5、朝鮮出兵
 
 ここで、安土桃山期の日本の対外関係について解説しよう。
 
 この時代の特徴は、西欧諸国との通商関係が芽生えたことである。この当時、スペイン、ポルトガルを中心とした勢力は、積極的に東アジアへの進出を図っていた。ポルトガルはインドとマレーシアを、スペインはフィリッピンを拠点として、日本や中国と通商を行ったのである。戦国大名は、西欧の珍しい物品や知識に大いに興味を示し、彼らとの交流をおおむね歓迎した。
 
 バイタリティの権化であった織田信長は、西欧の衣装を好んで身につけ、ワインを嗜み、キリスト教の宣教師の話を聞くのを楽しみにしていた。また、宣教師が連れてきた黒人を従者として貰い受け、弥助と呼んで可愛がった。彼は、哲学論を繰り返す仏教の坊主より、西欧の合理主義や科学知識を深く身につけた宣教師に好感を抱いたようである。有力大名の 子弟にヨーロッパ諸国を視察させようとするイベント(天正少年使節団)は、宣教師の助言を受けた信長の発案であった。
 
 信長の後継者となった豊臣秀吉は、旧主の路線を引き継いだ。しかしながら、キリスト教宣教師が、しばしば諸外国で侵略の先兵となった事例を耳にしてから、少しずつ彼らと距離を置き、やがて禁圧を行うようになる。
 
 そんな秀吉は、海外遠征を思い立った。明(中国)を征服し、インドまで兵を送ろうと言うのだ。その目的のために朝鮮半島を通り道にしようと考え、李氏朝鮮王朝に道を借りるための使者を送った(仮道入明)。朝鮮は、当然ながらその要求を拒否する。こうして、日本の大軍が朝鮮に襲い掛かった。「朝鮮の役」の勃発である。
 
 朝鮮出兵の本当の狙いについて、学者の間で議論がある。すなわち、「あの天才政治家の秀吉が、中国とインドを征服しようなど愚かなことを本気で考えるはずがない。真の狙いは別にあったはずだ」というのだ。しかし、それは日本史だけに視点を据えた狭い議論だと思う。
 
 この当時、世界は大航海時代の潮流に乗り、先進国は競って海外進出を行っていた。いわゆる「帝国主義」のスタートである。秀吉は、宣教師などからこうした海外事情を聞き知って、統一日本もこのムーブメントに乗るべきだと考えたのだろう。
 
 しかも、客観的に見て、当時の日本は民度も経済力も高く、戦国で鍛え抜かれた大勢の兵士たちは錬度も高く、しかも彼らは最新兵器の鉄砲で重武装されていた。そもそも、日本の総人口は、西欧諸国全てを合わせたよりも多かったのだ。絶頂の波に乗る秀吉が、西欧諸国の世界進出が成功している情勢を見て、今の日本がその流れに乗って失敗するはずがないと思い込んだのも無理はない。
 
 秀吉の朝鮮出兵は、スペインとポルトガルの世界進出の状況に良く似ている。イベリア半島のキリスト教国家は、数百年に及ぶイスラム教徒との戦いの後、ようやくイベリア半島を奪い返した(レコンキスタ)。その統一の喜びとエネルギーが、そのまま海外に流れて行ったのが、いわゆる大航海時代の事始めであった。そう考えれば、バブル景気と天下統一の喜びに弾ける日本のエネルギーが、対外進出という形を取ったのは、世界史的に見て極めて当然のことであった。ここに、怪しむべき要素は一つも無いのである。
 
 そして、純粋な国力や戦闘力という観点では、日本が中国やインドを征服することは十分に可能だったと思う。しかしながら、戦争は戦闘力だけでは決まらないのだ。過去に外国に占領されたり外国を占領したことのない日本人は、そういうことが全く分かっていなかった。それが、秀吉の遠征が失敗した最大の理由なのである。そして日本人は、それと全く同じ過ちを、20世紀初頭にもう一度繰り返すことになる。
 
 文禄元年、秀吉の30万の大軍は、朝鮮半島南部に上陸し一斉に進撃を開始した。文禄の役の勃発である(1592年)。
 
 当時の朝鮮は、明の属国のような立場にあったので、明を刺激しないように軍備を著しく縮小していたのだが、今やそれが仇となった。朝鮮半島はあっという間に日本の掌中に入り、朝鮮国王は満州との国境にまで逃げ延びる始末であった。
 
 当時、明は満州で勢力を強化する女真民族を警戒し、この地に大軍を置いていた。しかし、朝鮮全土が倭人の手に落ちるのを見た明は、慌ててこの軍を半島に投入したのである。半島北部に突出していた日本軍は、この大軍に押しまくられてたちまちピョンヤン(平壌)を奪還され、やむなく半島南部に退いて態勢を整えた。そしてソウル(開城)南方「碧 蹄館の決戦」でようやく明軍を撃破したものの、それ以上前進出来ない状況に陥ったのである。
 
 日本軍の停滞の理由は、大きく分けて3つあった。①補給の軽視、②占領地域の民衆感情の無視、③兵士の戦意の無視、である。
 
 ①について。日本軍は、当然の事ながら、海路を用いて補給物資を前線に運んでいた。しかし、シーレーンを保護する方策をほとんど講じなかったのである。そのため、この脆弱なシーレーンが名将・李舜臣(イスンシン)率いる朝鮮水軍に食い破られ、前線の将兵が飢えに苦しんだのだ。
 
 ②について。日本軍は占領地域の民衆を安心させ慰撫する政策を何も講じなかった。しかも、①の理由で補給が枯渇すると、民衆から組織的な略奪を情け容赦なく行ったのである。その結果、多くの朝鮮人がゲリラとなって日本軍を襲い、こうして日本軍の損耗と補給難はますます深刻になったのだ。日本軍が、明の攻撃を受けてたちまち半島南部まで撤収した理由はここにあった。
 
 ③について。日本軍は、この戦争の動機付けをあまり行わなかった。戦争に参加した大名クラスは、「新たな領土がもらえる」という物欲につられて奮闘したのだが、将校や下級兵士は、「せっかく戦国時代が終わって平和になったのに、どうしてまた戦わなければならないのだ」「罪もない朝鮮の人々を殺戮し奪いつくすのはどうしてだ」という当然の疑問を抱いたのだ。そのため、兵士たちの厭戦気分は日増しに高まり、多くの脱走兵が朝鮮ゲリラに参加して行ったのである。
 
 こうして、次第に講和の機運が高まった。しかし、明が秀吉の提案をすべて撥ね付けたことから、再び戦火が吹き荒れた。慶長の役である(1597年)。このときの日本軍は、朝鮮半島南部の城砦に閉じ込められて一歩も前進出来なかった。①~③の問題点を、まったく改善しなかったからである。
 
 やがて秀吉が病没し、朝鮮での戦争は終わった(1598年)。
 
 日本の対外進出は完全な失敗に終わり、豊臣政権の威信は地に落ちたのである。
 
 そして、徳川氏の台頭が始まる。
 

6、徳川政権の誕生
 
 豊臣政権は、有力な大名家の寄り合い所帯であり、しかも豊臣秀吉個人の能力と政治的威信のみによって支えられた政権であった。その親族は少なく、遺児・秀頼は6歳に過ぎなかったから、秀吉の死によって日本が再び戦国時代に逆戻りする可能性は大いにあった。
 
 しかし、そうはならなかった。豊臣政権下のナンバーツーであった徳川氏が急速に台頭し、あっという間に日本全土を統合したからである。
 
 徳川氏は、もともと三河(愛知県東部)の戦国大名であった。その当主・家康は、織田信長の従属的同盟者として武田氏と戦い、自家の勢力を拡張した。その後、秀吉政権に屈服して関八州に国替えとなったが、江戸(今日の東京)を中核として関東平野を整備して国力を強め、また、その事業の困難さを口実にして朝鮮出兵に参加せず、ついに秀吉の晩年には絶大な勢力を誇る大大名に伸し上がったのである。
 
 秀吉は、家康の勢力を大いに恐れ、様々な手段で掣肘を加えようとした。彼は、親友であった前田利家を家康のライバルに位置づけて、徳川を押さえ込もうと図った。しかし利家は、その能力も体力も家康に及ばなかった。利家は、秀吉の死後、その後を追うように病没し、それを契機に加賀百万石といわれた前田家は徳川家の膝下にくだったのである。
 
 豊臣政権の大官僚であった石田三成は、この情勢を大いに憂えて家康を抹殺しようと考えた。密かに同志を糾合した彼は、美濃(岐阜県)の「関が原」で徳川氏に決戦を挑むが、あえなく敗れ去った(1600年)。
 
 徳川家康は、それまではあくまでも豊臣家の重臣という建前で勢力を拡大していたが、石田三成ら反徳川派を一網打尽に滅ぼした後は、豊臣家の頭越しに朝廷と結びつき、ついに征夷大将軍となった(1603年)。江戸幕府の開闢である。さらに、この情勢に焦燥感を強める豊臣家を挑発して戦争に引きずり込み、二度の激戦(大阪冬の陣、大阪夏の陣)の後に大阪城ごと焼き滅ぼすことに成功したのであった(1615年)。
 
 こうして、名実ともに天下人となった徳川家康は、この国を新たな政治ステージに導き入れたのである。すなわち、鎖国政策と幕藩体制の成立である。