歴史ぱびりよん > 歴史論説集 > 日本史関係 通説や学説とは異なる切り口です。 > 概説 日本史 > 第九話 明治維新
1、明治維新の意味
明治維新は、しばしば世界史上の大快挙だと言われる。すなわち、鎖国によって西欧から300年以上も遅れていた日本を、わずか数十年でキャッチアップさせた大革命だというのである。もしもその通りなら、確かに世界史上の大快挙であろう。しかし、本当にそうだろうか?
この議論の基本的前提として、「徳川時代の日本は、世界的に見て貧しく劣等な後進国であった」という事がある。しかし、この前提は間違いである。
確かに、徳川時代の日本では戦争が無かったために軍事技術や造船技術などは育たなかった。しかし、それ以外の点では、必ずしも西欧に劣っていたわけではないのである。江戸は世界最大の人口を擁する一大文化都市だったし、飛脚などの通信網は完璧に機能していたし、都市部の上水道は世界に誇れるものだったし、しかも学問の発達によって民間の識字率は世界最高水準だったのだ。また、商業資本の発展は農村周辺に緊密な家内制手工業を整備しており、すでに産業革命の下地が出来ていたのである。明治政府は、これらの基盤をそのまま利用したのに過ぎない。
明治政府が行った重要な改革とは、西欧文化を導入し(憲法の制定、議会制度の導入、近代的常備軍の育成、太陽暦の採用、学校制度の普及、鉄道の施設、ついでに洋服、牛鍋、カレーライス、ざんぎり頭、ダンスパーティーの導入)、身分制度を打破し、廃藩置県を実施したことである。つまり、日本の国体を「近代的封建国家」から「西欧型の帝国主義国家」に改造したという話なのだ。必ずしも300年分の遅れを一気に取り戻したわけではないのである。もちろん、改造事業だけでも物凄い快挙であったわけだが。
明治政府が、これほど激しい改革に挑戦できた背景は、何といっても国家全体を覆いつくす「恐怖」という名の暗雲であった。この当時、西欧列強の世界征服の野望はますます激しさを増していた。特に、あのインドと中国が、列強の実質的な植民地にされてしまったことは、日本人に最大の衝撃を与えた。なにしろ、長い日本の歴史の中で、インドと中国は文明の「お手本」であったわけだが、その「お手本」が西欧文明に無残に敗れ去り搾取を受けている情勢は、「次は我々の番かも」という痛切な恐怖をもたらしたのである。明治政府の過激な改革が、国内の保守勢力に比較的スムーズに受け入れられた理由は、こうした深刻な恐怖感のおかげであった。
江戸幕府は、本質的に官僚的な組織であったから、こうした危機的な情勢を知りながら「問題先送り」をダラダラと続けていた。そういう意味では、薩長の若者たちが幕府を倒してこれに取って代わったのは大正解であった。また、江戸幕府が欧米と取り交わした「不平等条約」によって日本経済は塗炭の苦しみにあったから、これを改善するのが新政府に期待された急務であった。
明治政府は、西欧列強の侵略に対抗し、さらに不平等条約を改正させるための解決策を必死に考えた。そして得られた結論は、「自らが西欧列強の仲間入り」をすることであった。
論者の中には、これを指して「無節操」と非難する者がいる。かつて攘夷を唱えた連中が、政権を握ってから変節したというのだ。でも、それはたいへんな間違いだ。かつての維新の志士たちは、日本を列強の侵略から守るために攘夷を唱え、そして薩英戦争などで無残に敗北した。それを反省した彼らは、まずは西欧列強の軍事力を盗み取り、その後で攘夷を再開しようと考えたのである。その攘夷が実現したのが、すなわち日露戦争や太平洋戦争であった。つまり、志士たちは攘夷を捨てたのではなく、攘夷のやり方を変えたのだ。「日本を列強の魔手から守る」というコンセプト自体は、ここではまったく変わっていないのだ。彼らは、まずは西欧から「学ぶ」ことに特化したのである。
2、国体の大改造
明治政府は、まずは国体を西欧型に改良しようと考えた。
倒幕維新の成り行き上、「天皇を中心とした一元的国家」にするという基本コンセプトは既に決まっている。後は、これをどのように具体化するかが問題だった。
西欧を視察した新政府の要人たちは、イギリスの議会政治に着目した。彼らは、天皇をイギリス国王と同様の象徴的な地位に置き、実質的な国政は議会が行うこととしたのだ。そして議会は、国家の基本理念としての「憲法」に拘束される。すなわち、彼らは「立憲君主制度」を始めたのである。ここで重要なのは、新政府の天皇は、かつて後醍醐天皇が目指したような帝国主義国家の独裁者ではないという点である。天皇は、あくまでも議会に従属するのである。その議会を構成するのは、薩長の要人を中心とした議員たちであるから、彼らとしては天皇を飾り物にした方が、仕事がやり易くて好都合なのであった。
こうして制定された新たな国号は「大日本帝国」。その基本理念である「大日本帝国憲法」は、明治二十二年(1889年)に紆余曲折の末、発布された。
実は、日本には以前から憲法が存在した。すなわち「養老律令」である(718年制定)。しかし、公地公民制を前提としたこの憲法は、発布されて間もなく死文と化した。日本という国のおかしなところは、法令の本則を改訂したり変更するのを嫌う点である。死文化した「養老律令」は、それから1千年以上も「ほったらかし」であった。その間、鎌倉幕府の「御成敗式目」や室町幕府の「建武式目」、そして江戸幕府の「諸法度」といった様々な「通達」が憲法の代わりにこの国を統治していたのである。法令よりも通達の方が実効を持つというこの国の体質は、今に始まった話じゃないわけだ。これも、多神教ならではの大らかさといえば聞こえは良いが、日本人はあまり法を重視する民族ではないのである。
ともあれ、議会制度と憲法の発布によって、明治日本は、形の上ではイギリスみたいな国に変身できたというわけである。
ところで、行政面では、明治政府は江戸幕府の遺産を大いに活用した。幕府が遺した機構や仕組みは「保守的で官僚的」という欠点を除けばなかなか優秀であったから、使えるものはそのまま利用したのである。例えば、新政府の首都を江戸(東京)に定めたのは、幕府の中央官僚機構をそのまま利用しようという目論見があったからだ。
ただし、江戸幕府の基本コンセプトであった「鎖国」と「幕藩体制」は、抜本的な改正が必要であった。このうち、既に「鎖国」は崩れ去っているから、問題は「幕藩体制」である。
明治政府は、大名からその領土を取り上げて日本政府の直轄とした。これが「版籍奉還」である。公地公民制は、じつに1千年ぶりに復活したのであった。かつて後醍醐天皇が試みて大失敗に終わったこの改革が簡単に成功した理由は、前述のように「西欧列強の侵略の恐怖」のためだろう。大名たちは、もはや既得権益に固執していられる場合でないことを知っていたのである。彼らは、日本という国のために、一丸となって近代的な中央集権国家を樹立したいと願ったのである。もちろん、旧大名の中には華族になったり県知事になった者が多かったので、彼らもそれなりの見返りを得られたわけだが。
また、江戸幕府のコンセプトであった「士農工商」も廃絶された。身分差別は否定され、「四民平等」の社会になったのである。しかし、最下層民であった「えた」や「非人」に対する差別意識は払底できず、これは「部落問題」として今日まで継続している。
さて、「四民平等」によって最も大ダメージを受けたのは、特権階級の武士(士族)であった。士族の中でも、幕府中枢にいたエリート層はそのまま新政府に吸い上げられて重用されたのだが、それ以外の多くの者はサラリーを絶たれ、「ただの人」になってしまったのだ。彼らはもともと、先祖代々「官僚」であったから、世間のことなど何も知らないのである。仕方なしに慣れない商売を始め、大失敗する事例が相次いだ。いわゆる「士族の商法」である。そんな彼らの不満は、やがて戦乱の火種となる。
3、西欧文明の導入
当時の日本人は、西欧列強の仲間入りを果たすためには、国体だけでなく文明も西欧化しなければならないと考えた。
まずは、暦を西洋風の「太陽暦」に改めた(1872年)。それまでの日本は、中国から導入した「太陰暦」を用いていたのである。西洋化の第一歩は、暦からであった。
日本人は、それまで仏教の禁忌によって動物の肉を食べなかった。しかし、「文明開化」の美名のもとに、牛肉や豚肉を喜んで食べるようになったのである。その結果、牛鍋やライスカレーが食卓を賑わすことになった。いい加減といえば実にいい加減である。信心深いイスラム教徒やヒンズー教徒がこの事実を知ったら、きっと眉をしかめることだろう。
また、ファッションも様変わりした。人々は「髷(まげ)」を落とし、総髪(ざんぎり頭)になり、洋服を好んで着るようになった。男性はネクタイを締め、女性は下着をつけるようになった。建築物も、西欧様式が目立つようになった。無節操な気もするが、さすがは多神教ゆえの大らかさと言うべきだろう。
日本は、260年ぶりにキリスト教を公認した。その反動であろうか、この当時、日本にやって来た西欧人は、厳格な教育を受けキリスト教的価値観にこり固まった者が多かったようだ。彼らは、道徳について勝手な価値観であれこれうるさいことを言い、そして従順な日本人はその言いなりになる場合が多かった。例えば、男女間の風紀がうるさく指摘されたため、銭湯での混浴の習慣は無くなり、女性の処女性が重んじられるようになった。なんだか、「大きなお世話」という気がするが。
そういえば、「夫婦同姓」になったのは、実はこの時代からである。それまでの日本人は、庶民はそもそも姓を持たなかったが、武士や貴族の世界では「夫婦別姓」が当たり前だった。例えば、源頼朝夫人は北条政子、足利義政夫人は日野富子と実家の姓を名乗っていた。これは、中国がそうだからであろう。しかし、明治に入って西欧人に叱られたため、彼らの価値観に合わせて「夫婦同姓」になったのである。しかし、そこまで白人に媚を売る必要は無かったのではなかろうか?今日の日本では、ようやく夫婦別姓が議論されているようだが、筆者は原則的にこれに賛成である。日本は、伝統的に夫婦別姓だったのだから、元に戻すのはむしろ当然という気がする。白人の顔色を窺ってペコペコするのは、いい加減にやめたらどうだろうか?
話を明治に戻すと、井上馨などという政治家は、白人に媚を売ることで不平等条約を改正できると思い込んでいたらしい。彼は、鹿鳴館というダンスホールを作り、ここに白人を招いてパーティー三昧の日々であった。でも、そのような政策で条約改正できるほど、世間は甘くなかったのである。不平等条約の完全撤廃は、日露戦争の勝利の日を待たなければならなかった。
こうして見ると、当時の日本はすごく情けない状態だったようだが、意外と、文化的には西欧諸国の賞賛を浴びる存在であった。日本画や骨董品や庭園様式などは、ヨーロッパの文化に極めて大きな影響をもたらした。アールヌーボーなどがその好例である。また、日本を訪れた西欧人の中には、日本人の清潔さや礼儀正しさや優しさに深い感銘を受ける者が多かった。日本人は、近代技術はともかく、道徳や文化では決して西欧に負けていなかったのである。
そして、市井の文化人の中には、急激な西欧化を嘆く者も多かった。彼らは、この国が外見では西欧化しても、心だけは本来の美しさを残して欲しいと強く願ったのだ。すなわち「和魂洋才」である。正岡子規や夏目漱石らは、そういった思いを込めて優れた文学を書き残した。
今日の日本では、そんな彼らの奮闘はまったく忘れ去られている。
4、富国強兵
ともあれ、新しい文明の導入によって、都市部はハイカラになり華やかさを増した。しかし、不平等な関税条約によって経済事情は日増しに悪化し、農村部では江戸時代を懐かしむ声も出始めた。だが、明治政府は彼らの怨嗟の声を押さえつけ、なおも改革路線を邁進するしかなかった。日本を西欧に負けない強国に改造しなければ、より多くの苦難がこの国を覆うことになるだろう。明治政府は、この恐怖感を国民と分かち合ったのである。また、日本が「万世一系の天皇家を仰ぐ世界でも類例を見ない伝統ある国」であることを強調し、国民の愛国心と誇りを鼓舞したのであった。
新政府は、宗教を用いて民衆をコントロールしようと考えた。すなわち「廃仏毀釈」である。政府は仏教を弾圧し、そして伝統的な神道を強化したのだ。この当時、新たな神社が日本全国に出来た。日本史上の英雄は、片端から「神様」として神社に祀られたのだ。例えば、吉田松陰は松陰神社、楠木正成は湊川神社、菊池一族は菊池神社の祭神となった。明治天皇も東郷平八郎も、死んでから神様にされた(明治神宮、東郷神社)。戦死者は、靖国神社でまとめて神様になった。日本全国どこもかしこも神様で溢れかえったのである。日本の庶民は、こうした神々に囲まれて愛国心を燃やし、生活の苦しさに耐えながら必死に働いたのである。
そして、「富国強兵政策」は、こういった国民の愛国心を前提としていた。
国体の改造も西欧文明の導入も、実はこの政策の前提作りであったと言える。
地租改正は、全ての庶民から満遍なく税を取り立てるため。
学校制度の普及は、画一的教育によって未来の愛国心あふれる兵士を作るため。
全国民に姓名をつけて戸籍制度を導入したのは、徴兵制の施行のため。
鉄道などの最新技術を敷衍したのは、近代工業を根付かせるため。
こうして、日本に近代機械工業と近代的野戦軍が誕生した。酪農や牧畜の技術も急速に進歩した。日本人は、西欧から高給で招いた教官たちから熱心に学んだため、もともと潜在的能力を秘めていた近代化は、みるみるうちに進んだのである。
その一方で、日本は西欧から多額の借金をして海防力を高めた。最初のうちは、主要な港湾に巨大な大砲を据えつけたのだが、そのうち、それだけでは不十分だと気づき、造船技術を磨くとともにイギリスなどから軍艦を購入した。こうした分野では、徳川300年の安泰が仇となった。日本人は、海防と軍艦について、一から学ぶしかなかったのである。
こうした高価な大砲や軍艦を買うための財源は、貿易によって賄った。当時の日本が世界に輸出できた品目は、生糸と銅のみである。工場や鉱山で、庶民たちは必死に働いた。紡績工場では栄養状態が極端に悪い上に異常な重労働を強制され、「女工哀史」などの悲劇が生まれた。足尾銅山などでは深刻な公害問題が起きた。それなのに、不平等な関税条約のせいで、これらの血まみれの製品は外国に安く買い叩かれたのであった。しかし、こうした庶民たちの犠牲的な働きこそが、日本の躍進を助ける重要な原動力となったのである。我々は、彼らに心からの感謝を捧げなければならない。
5、大リストラ
政治の世界に目を向けると、明治新政府の閣僚は、倒幕維新で功績を挙げた諸藩の寄り合い所帯であった。その主流は薩摩、長州、土佐(高知県)、肥前(佐賀県と長崎県)の出身者たちであったが、岩倉具視や三条実美などのお公家さんも顔ぶれに加わっていた。
政界では、それなりに派閥闘争があったが、最も重大な事態をもたらしたのは、「征韓論」についての論争である。西郷隆盛や板垣退助らは、朝鮮半島の情勢に目を向けて、この国を日本と同様に近代化させる熱意を燃やした。もしも朝鮮がそれを拒むなら、一戦しても構わないというのである。しかし、西郷の幼馴染であった大久保利通らは、征韓論に反対であった。彼らは、まずは国内の改革に注力するべきであって、海外のことは後回しにすることを主張したのである。
結局、西郷ら征韓論派は政争に敗れ、そして官を辞して野に下った(1873年)。西郷隆盛という人は、基本的に革命家気質の冒険家であった。戊辰戦争のときに、最も徳川家に対して攻撃的だったのは彼であった。そして明治政府は、このような過激な人物を必要としていなかったのだ。
政争に破れて野に下った実力者たちは、しかし意外な運命にさらされた。リストラされた不平士族たちによって、反乱の神輿として担ぎ上げられてしまったのである。前述のように、新政府によって全ての特権を剥奪された武士たちは、新しい時代に順応することが出来ずに暗い怒りを研ぎ澄ませていた。徳川時代初期の「浪人」と同じ境遇に陥ったのである。そんな彼らは、次々に武装蜂起した。佐賀の乱、秋月の乱、神風連の乱、萩の乱と続き、ついに鹿児島で最大の反乱が起きた。その総大将に担がれたのは、他ならぬ西郷隆盛。西南戦争の勃発である(1877年)。
東京の大久保利通は、容赦しなかった。直ちに、編成終わった近代的野戦軍を出動させたのである。彼は、幼馴染の西郷ごと、旧時代の残骸を一掃する決意であった。西郷軍は、熊本城で破れ、田原坂で破れ、ついに鹿児島まで押し返された。西郷は、最後まで奮闘して城山で散った。
無慈悲なことだが、これは近代日本にとって避けられない産みの苦しみだったのだろう。政治というものは、しばしば残酷でなければならない。
勝者となった大久保利通も、東京で不平士族の残党に暗殺された(1878年)。
これも、近代日本の悲しいドラマであった。
6、明治政府の実態
明治維新は、しばしば過大評価される傾向がある。その理由は、やはり司馬遼太郎などの大衆作家が、好んで小説のテーマに採り上げて美化したからであろう。その結果、「維新の志士たちはみな優秀だったのに若死にした。彼らが長生きして政権の中枢を担っていれば、日本はもっとマシな国になっていた」という神話が誕生したのである。
確かに、吉田松陰、佐久間象山、藤田東湖、橋本左内、高杉晋作、武市瑞山、坂本竜馬、中岡慎太郎らは、道半ばにして横死した。しかし、彼らが生き延びたとしても、日本の状況は大して変わらなかったと思う。例えば、志士の生き残りである木戸孝允(桂小五郎)は、新政府の閣僚になったものの、たいした仕事もせずに病死している。また、西郷隆盛は「負け組」となって敗死している。乱世の革命闘士は、高度に官僚化された近代国家の中では、必ずしもその能力を発揮出来ないのである。その点では、新政府樹立後に、閣僚にならず貿易商人になろうと考えていた坂本竜馬は、鋭い見識の持ち主であったと思う。彼は、暗殺を免れることが出来たなら、起業家として五代友厚や岩崎弥太郎に負けないくらいの働きを見せていたかもしれない。
ところで、明治新政府を担った政治家の中で最も重要な役割を果たした人物は、大久保利通であったろう。彼は、新生日本の改革を円滑に進めるための鍵を的確に見出したのである。すなわち、「官僚統制」である。
前述のように、明治政府は江戸幕府の全てを否定したわけではない。むしろ、江戸幕府が築き上げた「高度官僚統制システム」を承継し、これをそのまま利用したのであった。そして、この路線を強力に推進したのが大久保利通だったのである。
少々ややこしいのだが、明治政府は日本の国体をイギリス型の「立憲君主国」に変えた。天皇を擁立する薩長の閣僚たちにとって、その方が好都合だからである。しかし、それはあくまでも表向きのことであって、国家行政の実際的な運営方針は、むしろプロイセン型の「官僚主導国」のそれであった。その方が、江戸期以来の日本の国体に近くて運営しやすかったからである。
プロイセン(後にドイツ)は、当時の日本と良く似た状況に置かれていた。ドイツ民族は、プロイセン、オーストリア、ザクセン、バイエルン、マインツなどの中小領邦国家に分断されていて、近代化という側面ではイギリスやフランスに大きく遅れを取っていたのだ。しかし19世紀末、鉄血宰相ビスマルクを中心としたプロイセンは、猛然とドイツ民族の統一に乗り出す。そして1871年の普仏戦争の勝利によって、今日のドイツの基盤が形作られたのである。新生ドイツは、イギリスをライバル視し、猛烈な勢いでこれにキャッチアップを図った。そのためにこの国が採った方針は、「優秀なエリート官僚を大量に育成し、彼らにイギリスの技術を学ばせる。そして、彼らが国家全体を指導し啓蒙する」というものであった。まさしく、官僚統制型のシステムである。
当時の日本は、近代化を目指すという点でドイツと全く同じ立場に置かれていたから、慧眼の大久保利通らはその仕組みをパクッたのである。もともと日本は、江戸時代以降、官僚統制型のシステムが十分に整備されていたから、この路線は極めて容易に実現できたのだ。
もちろん、江戸期の官僚と明治の官僚は、その人材層を異にする。江戸期の中央官僚は、徳川家譜代の武士階級が世襲で就任していた。これに対して、「四民平等」となった明治期では、国家試験で優秀な成績を収めた庶民が官僚になるのである。それでも、徳川300年を君臨してきた官僚主導のドグマは生き残った。日本の官僚が、しばしば政治家をないがしろにする伝統は、既にこのときから始まったのである。
こうして日本には、二つの矛盾する政治の流れが出来上がった。
(1)イギリス型の立憲君主政治・・・政治家が官僚を統制する。政治的意思決定は政治家が議会で行い、君主(天皇)がそれに承認を与える。
(2)ドイツ型の官僚主導政治・・・官僚が政治家と民衆をコントロールする。政治的意思決定は、中央官庁が勝手に行う。
いわゆる明治の元勲が健在なうちは、前者の流れが優勢であった。しかし、優秀な元勲が死に絶え、そして政党政治家の失政が相次ぐうちに、いつしか後者の流れが顕在化したこの国は、官僚に乗っ取られてしまうのである。
明治政府というのは、結局は「形を変えた徳川幕府」だったのかもしれない。