歴史ぱびりよん

第一章 はじめに


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千早城内の楠木神社

はじめに

謎の人物

史料について

『太平記』について

 


 

  はじめに

今回のテーマは、楠木正成。

この人は、14世紀初頭、鎌倉末期から南北朝時代初期に活躍した武将である。鎌倉幕府の滅亡は、この人の活躍が起爆剤となって実現した。

まずは、時代背景の説明を交えて、この人の生涯を概観しよう。

源頼朝がひらいた鎌倉幕府は、12世紀後半から13世紀にかけて、日本の地主領主(武士団)を統括する重要な政治機関であった。しかしながら、13世紀中盤の蒙古襲来を撃退する過程で疲弊し、また、首脳部の腐敗によって武士団の信望を急速に失っていった。

この間、幕府によって政治の実権を奪われていた京都の朝廷勢力は、この情勢を見て後醍醐天皇を中心にして決起。しかしながら、武力に劣る朝廷側は連戦連敗の結果、天皇自身が捕虜となって隠岐に島流しになる始末であった。この情勢を逆転させたのが、河内(大阪府東部)の豪族であった楠木正成である。

天皇方として蜂起した彼は、生き残った唯一の倒幕勢力として孤軍奮戦し、消えかけた倒幕の灯火を必死に守り続けた。彼が立てこもった金剛山麓の千早城は、鎌倉幕府の大軍の猛攻を3ヶ月にわたって持ちこたえ、そのことが幕府に幻滅感を覚えていた全国の武士団の衆望を集め、天皇の隠岐脱出をもたらし、一気に形勢を逆転させることに繋がったのである。

こうして鎌倉幕府は滅亡し、後醍醐天皇による新政権が京都に樹立された。しかしこの貴族政権は、相次ぐ失政の結果、わずか2年で武士団の信望を失うに至る。やがて旧幕府の大豪族・足利尊氏を中心にした武士団は、圧倒的な軍事力を元手にして朝廷と対決する。このとき新政権の要人であった楠木正成は、最後まで屈せずに足利氏と戦い、そして兵庫湊川の決戦で壮烈な討ち死にを遂げるのであった。

まさに、激動の生涯である。

 

謎の人物

日本の歴史を大きく変えた重要人物であるにもかかわらず、楠木正成ほど実像が曖昧な人も珍しい。なにしろ、出自はおろか、生年や父親の名前すら分からないのである。かろうじて分かっている事績についても、「歴史小説」や「戦前の国定教科書」によって大きく歪められている。そのことが、かつては軍国主義を礼賛するプロパガンダに利用された事実は、年配の人なら良くご存知だろう。

昭和戦前において、楠木正成が活躍した鎌倉末~南北朝時代は、日本史の最重要必修項目になっていた。あのころの日本人は、国家によって「楠木正成のように天皇に忠義を尽くし、最後は華々しく玉砕すること」を美化奨励されたのである。逆に、足利尊氏のように、天皇に反抗した者は「逆賊」と呼ばれ、国民の反面教師とされていた。

しかしながら、正成が後醍醐天皇のために働いて戦死したのも、尊氏が天皇に反逆したのも、当時の時代の要請に即した結果に過ぎない。これを「善悪」といった視点から単純に論じることこそ、歴史の歪曲に他ならないだろう。

戦前の若者たちは、「楠木正成は、天皇とその取り巻きの無能さを知りながら、それでも忠節の炎を燃やして玉砕した正義の人物であり、彼こそが日本人の鑑である」と教えられて育った。このことが、戦争中、大本営の高級官僚たちの無能さの肩代わりとなって死んでいく特攻隊員らの倫理的根拠として悪用されたのである。なんという悲劇であろうか。

その反動から、今日ではこの時代そのものがタブーのようになっていて、小説でもテレビドラマでも、ほとんど採り上げられることがない。今の若い人の中には、楠木正成という名前すら聞いたことがない者が多いだろう。たまに小説化される場合であっても、戦前とは逆に、足利尊氏ら北朝を美化し、後醍醐天皇ら南朝を悪く描く内容が多いようだ。いずれにしても、歴史の真実に目をそむけた「歪曲」がまかり通っているという点では同じだ。戦前と比べて、まったく進歩が見られない。

そこで、この論文では極力客観的な立場から、南北朝時代と楠木正成の実像を分析することを目的としている。

 

史料について

歴史から学ぶためには、史料を良く吟味しなければならない。

良く耳にするのは、「南北朝期の研究が進まないのは、史料が乏しいからだ」という議論である。しかし、これは事実に反している。南北朝時代は、日本人の民度が非常に高まったため、政府から民間レベルまで実に多彩な文献資料が執筆され遺されているのである。

まずは、軍記物語の『太平記』が有名だ。これは小説ゆえに、眉唾な記述も多いのだが、大衆向けの「カネ儲け」を目的として書かれたものではない純文学なので、割合と史料価値が高い。その発展版の『難太平記』、そして史書としては『梅松論』、『神皇正統紀』、『園大暦』、『楠木合戦註文』、随筆として『徒然草』、『増鏡』、『博多日記』。これ以外にも各種の軍忠状など、さまざまな一級資料が現存している。この時代は、日本全国を巻き込む大動乱だったため、地方の僻村にも重要な文献が保存されるケースが多く、それゆえに、これらが後の時代の戦災からも無事に生き残ったのである。

実を言うと、南北朝期の史料は、むしろ戦国時代よりも良質なものが多いくらいだ。これも良く誤解されているのだが、戦国時代の史料はまともな内容のものが少ない。我々が知っている戦国時代の通説というのは、江戸時代の大衆小説家が描いた空想が元になっている場合が多いのである。何度も言うが、大衆小説を1万冊読んだって、歴史の真実に近づくことなど出来はしない。それなのに現代では、専門の学者ですら三文小説家の戯言を史実と思い込んでいる場合があるから始末に悪い。

それでは、どうして南北朝の研究が、戦国時代に比して進まないのか?

まずは、昭和戦前の特殊な事情がある。南北朝の政治史は、そもそも皇室の動向が密接にからむので、明治から昭和戦前にかけての日本ではタブーとされる部分が多く、あまり突っ込んだ研究が出来なかった。たとえば、足利尊氏を褒めた学者が、「逆賊を擁護するのは皇室に対して不敬だ」として、その社会的地位を剥奪されるような事件があった。このような偏見に満ちた環境では、科学的な研究など出来はしない。

じゃあ、戦後はどうなったか?むしろ、退行してしまったのである。小説家があまりテーマに取り上げなかったため、大衆の関心が薄くなり、したがって学者の関心も遠ざかってしまったのだ。確かに、南北朝期はいろいろと複雑なので、大衆娯楽の題材にはしにくいかもしれない。それでも、幕末維新よりは分かりやすいしドラマチックだと思うのだが、幕末維新よりもマイナーなのは実に不可思議だ。

結局、「司馬遼太郎や山本周五郎や藤沢周平が小説に書かなかったから」というのが、南北朝史が不遇に落ちた最大の理由なのだろう。ここに、戦後の日本人の「知性の低さ」を思い見るべきかもしれない。

 

『太平記』について

南北朝を語る上で避けては通れないのは『太平記』の存在である。これは、古典文学の大傑作であると同時に、南北朝時代の真っ最中に書かれたという点で、リアルタイムの記録でもある。ただ、本質的に「小説」であるため、その記述内容の信憑性が従来から疑われてきた。しかし、最近の研究では、作中で書かれる様々な政治的事件については、かなり史実どおりであることが明らかになっている。

ここで強調したいのは、「歴史書」と「歴史小説」は根本的に異なるものだという点である。「歴史書」は歴史的事件の正確な記録であるが、「歴史小説」は執筆者の恣意に基づいて歴史を材料として加工された創作物に過ぎない。

この「歴史小説」は、大別して2種類に分けられる。すなわち、「娯楽小説」と「文学」である。

「娯楽小説」は、基本的に執筆者のカネ儲けのために書かれる。そのため、大衆の興味を誘い、大衆の財布の紐を緩めるようなことがたくさん書かれる。そもそもの執筆目的がカネ儲けなので、執筆者に都合が良いように史実が改変されオミットされる場合が多い。また、執筆者の能力や資質も劣悪である場合が多い。

これに対し「文学」は、執筆者が自分の思想ないし哲学を人々に伝えるために書かれる。思想の根拠として歴史上の事件を用いるため、思想性というバイアスを度外視して見れば、かなり正確な記述が多いし、執筆者の能力も非常に高い場合が多い。

この「文学」の代表が、『平家物語』であり、『太平記』なのである。

『平家物語』は、盛者必衰の理、すなわち「無常」がテーマになっている。しばしば「無常」を誇張する傾向があり、細部には創作もあるが、歴史的事実を逸脱するようなことはほとんど無い。著者(とされる)の信濃禅師行長は、朝廷に通じた教養人であった。

これに対して『太平記』は、因果応報、すなわち「天命」をテーマにしている。著者(とされる)の小島法師は、漢文学に通暁したたいへんな教養人であった。彼は、豊富な中国史と漢詩の知識を基に、鎌倉~南北朝を「天命」の移り変わりというタームで論じようとした。すなわち、鎌倉幕府が滅亡したのは、北条高時(幕府の最高実力者)が暗愚な悪人であったために天命に見放されたからである。これに対して、後醍醐天皇は、当初は善政を敷く名君であったため、鎌倉幕府を奇跡的な逆転勝利で倒すことが出来た。しかしその後醍醐も、たちまち堕落して悪政を敷いたため、ついに天命に見放され、足利尊氏の台頭を許すことになったのである。小島法師は、こういった文脈で『太平記』を書いた。

そういうわけで、『太平記』には文学上のバイアスがかかっている。すなわち、北条高時や後醍醐天皇が、実像以上に悪く描写されているのである。しかし、実際の歴史というものは、言うまでもなく、高時や後醍醐の個人的資質で左右されるような単純なものではない。政治のみならず、経済や宗教や文化など、様々な複雑な要因によって複合的に動かされているのである。そういった事情を捨象して単純化していることが、小説『太平記』の限界であると言えよう。しかし、この点を注意して読むならば、非常に優れた「歴史書」とも言えるのだ。少なくとも、「カネ儲け」のために、史実を幼稚な技法で改変する愚行はしていないのだと確信できる。

それでは、『太平記』の中で、楠木正成はどのような役割を与えられているのだろうか?

『太平記』の正成は、著者に近い立場から、時代の冷静な観察者として振舞う。彼は、天命の動きを見通せる一種の「予言者」として物語の中に立っている。そのため彼は、後醍醐に対して、しばしば批判的で辛らつな視線も向ける。

つまり『太平記』の正成は、戦時中の軍部が捏造したような単純な「忠臣」ではないのである。彼は、天命に見限られた悪逆な君主に強いられて、非業の死を遂げる聡明な悲しい人物として描かれるのである。

しかし、実際の正成がそのような人物だったかどうかは、別に検討が必要である。何度も言うようだが、『太平記』は「小説」だからである。