歴史ぱびりよん

第三章 後醍醐天皇と正成


 

後醍醐天皇

正中の変、元弘の変

南向きの大樹

 


 

後醍醐天皇

こうした市井の状況を的確に把握したのが後醍醐天皇であった。このバイタリティ溢れる天皇は、西日本の反幕府勢力や幕府に不満を持つ御家人を結集すれば、倒幕を実現できると正しく判断したのである。

もともと京都の朝廷は、鎌倉幕府に敵意を抱いていた。

鎌倉幕府の実態は、市井から見たら「農協組織」であるが、朝廷から見たら「暴力団」に他ならない。なぜなら、鎌倉に武士団専用の政府を勝手に構え、「御成敗式目」などという通達を勝手に発し、しかも武力に物を言わせて朝廷や貴族の荘園利権を奪い取っているからである。

鎌倉幕府のトップの肩書きは「征夷大将軍」であるが、これは本来、東北のアイヌを討伐する際に設けられる臨時職に他ならない。「幕府」という言葉も、もともとは中国の言葉で「前進基地」を意味する。そんな鎌倉幕府は、アイヌ討伐をするわけでもないのに、これらの呼称を代々続けてのさばっているわけである。

怒る朝廷は、後鳥羽上皇の時に倒幕の兵を起こした。いわゆる「承久の乱」(1221年)である。しかしこの壮挙は、幕府御家人たちの猛反撃を受けて粉砕された。あの当時の幕府は、まだまだ御家人たちから深く信頼されていたからである。

しかし、今は違う。臥薪嘗胆を重ねてきた朝廷は、36歳の活動的な後醍醐天皇を頂くことで、再び年来の宿願を果たそうと試みたのであった。

こういった背景とは別に、後醍醐には、幕府を倒さなければならない個人的理由があった。いわゆる「両統迭立」問題である。

この当時、鼠算式に子孫を増やした皇室は、天皇の後継者争いに狂奔していた。さまざまな皇統が沸き起こり、それぞれが次期天皇の座を要求し、互いに呪詛しあう有様だった。これを見かねた鎌倉幕府は、それぞれの皇統から「替わりばんこ」に天皇を出すことを提案したのである。そして朝廷はその提案を呑んだのだが、それは現在の天皇が、自分自身の皇子ではなく、遠い親戚に皇位を譲らなければならないことを意味していた。

そんな中、後醍醐天皇は、さまざまな幸運な偶然によって36歳の働き盛りで即位した。バイタリティ溢れる聡明な人物であった彼は、多くの政治的理想を胸に抱き、それを実現させたいと心から願う人物だった。そんな彼は、即位直後から持明院統などの他の皇統によって早期の「退位」を勧奨されて大いに苛立つ。他の皇統は、早く自分たちの「順番」が回って来て欲しいのである。

後醍醐天皇は我欲の強い人物だったので、自分の帝位を可能な限り長く保持していたかった。そして、その帝位を自分の子に譲りたいと願っていた。しかし、この宿願を果たすためには、朝廷に「両統迭立」制度を押し付けている鎌倉幕府を倒すしかない。

また、勉強家の後醍醐は、宋(中国)から渡来した新しい学問「朱子学」に熱中した。この学問は、「正議」を主張する。彼は知った。日本の主権者である天皇は、無道な「暴力団」である幕府にその権威を脅かされたり、皇統の問題に口を出されたりするべきではないということを。

こうして、後醍醐の野心は理論武装され、絶対に曲げられない強固な信念と化したのである。

 

正中の変、元弘の変

後醍醐天皇は、即位した当初から政治に意欲を見せ始めた。飢饉に際して、官の穀物庫を解放して飢民を救い、朝廷内での人材登用も従来の慣例を無視する完全な「能力主義」で行った。後醍醐のために、文字通り命を捨てて働いた千種忠顕、日野資朝、日野俊基、そして北畠親房と顕家親子らは、この時に低い身分から取り立てられて恩義を感じた公家たちである。

この様子を見た持明院統の花園上皇は、敵対関係にあった後醍醐の治世を「近日政道淳素に帰す。君すでに聖王たり。臣また人多きか」と賞賛している。

やがて後醍醐は、こうした新進気鋭の若い公家たちとともに倒幕の密議を開始した。

『太平記』によれば、彼らはスケスケの薄絹1枚を身にまとった美女たちと乱痴気パーティーをしながら密議をしたことになっているが、これは「小説」というものだろう。だいたい、スパイが紛れ込みやすい環境下でわざわざ密議をするバカがいるはずがない。もっとも、後醍醐はかなりの好色家だったから、若い公家衆と一緒に乱痴気パーティーをしたのは事実だろう。だが、それは密議とは無関係だったはずだ。

ともあれ、密議の結果、日野資朝と俊基が諸国を回って同志を集めることに決まった。彼らは、わざと仕事でミスをやって停職処分となった。それから、自宅に蟄居していると周囲に思わせて、実際には山伏に変装して諸国を回ったのである。この当時、朝廷内部にも幕府のシンパ(保身や財産目当て)が大勢いたから、秘密保持に万全を尽くさなければならなかった。

さて、楠木正成は、この時期にすでに後醍醐のサロンと関係を持っていたと思われる。正成の所領が置かれた河内赤坂は、観心寺や金剛寺を通じて文観僧正(後醍醐のブレーン)と密接な関係があった。正成の人柄や能力を知った後醍醐のサロンが、彼に接触しないはずはない。

しかし、この時の正成が、どういう反応を示したかは想像を逞しくするほかはない。恐らく、彼のことだから、「挙兵には賛成だが、時期は慎重に見定めたほうが良い」などと答えたのではないだろうか?

しかし、後醍醐の密謀は、密告によってたちまち幕府の知るところとなった。正中元年(1324年)9月、『太平記』によれば同志の一人であった武士、多治見国長の縁者が、恐怖にかられて六波羅探題(京都の幕府駐在所)に駆け込んだのである。これが「正中の変」である。

後醍醐は、必死に幕府に釈明した。倒幕計画は日野資朝一人の独断だったことにして、彼の身柄を鎌倉に引き渡したのである。これは、貴種の良く用いる危機回避策である。

鎌倉幕府は、このときは穏便に済ませた。日野資朝を佐渡に流罪とし、それ以外はお咎めなしとした。幕府は、衰え行く己の実力を自覚していたのかもしれない。

しかし、これを見た後醍醐は、幕府の実力を過小評価して増長した。彼は、再び同志たちを集めて倒幕計画を練り始めたのである。また、幕府に対する派手な呪詛調伏を行った。

だが、この陰謀は、やはり密告によって漏洩した。このときの密告者は、意外なことに後醍醐のブレーンであった吉田定房であった。この定房が、どうして急に密告する気になったのかは謎である。しかも彼は、裏切り者となったにもかかわらず、後の建武政権で後醍醐に重用されるのである。

もしかすると謀略好きの後醍醐は、定房にわざと密告させることで、踏ん切りが付かずに挙兵を迷っている同志たちの背中を押したのかもしれない。それと同時に、定房を密告者として幕府に信用させることで、彼に高級スパイの役割も担わせたのかもしれない。事実、この後の後醍醐陣営の情報収集能力の高さは驚異的であったから、この推測はまんざら的外れでも無いだろう。

さて、幕府は当初、日野俊基や北畠具行らを詮議して事実確認に努めたのだが、今度はもはや後醍醐の関与を無視することが出来なかった。幕府内でも意見が割れたようだが、結局、軍勢を出して後醍醐を捕らえることに決まったのである。

しかし、これを未然に察知した後醍醐は、かねてよりの手はずどおり倒幕挙兵を行った。

時に元弘元年(1331年)8月24日、彼は側近の花山院師賢を自分に変装(!)させて比叡山に送り込み、「天皇ここにあり!」と満天下に宣言させた。延暦寺の僧兵は、以前より後醍醐の第三皇子・護良親王(大塔宮)を天台座主として迎え入れることで十分な根回しを受けていたため、喜んで反幕挙兵の主力となったのである。

この偽装工作に騙された幕府は、後醍醐が比叡山にいると思い込んで、六波羅の軍勢を延暦寺に向けた。しかし、「天皇動座」で士気上がる僧兵たちの奮闘は、幕府軍をまったく寄せ付けなかった。後醍醐の謀略は、まずは成功である。

その間、本物の天皇は、少数の側近とともに夕闇に紛れて笠置山(京都府南部)に入っていた。彼は、幕府の大軍が比叡山で釘付けになっている間に、この地に大軍を糾合しようと考えていたのである。「囮を用いた陽動作戦」は、この人物の得意技で、この後も頻繁に出てくる。

しかし、後醍醐には2つの点で誤算があった。

第1の誤算は、笠置山に集まる兵力が予想外に少なかった点である。後醍醐の根回しを受けて協力を約束したはずの武士の多くが、理由をつけて様子見に転じたからである。日本民族は、本質的に「横並び」である。後醍醐の周囲が意外に寂しいのを見て、「やっぱり止めた」になっちゃったのである。

第2の誤算は、比叡山の戦闘が意外に早く終息した点である。「にせ天皇」である花山院師賢の変装が、後醍醐と面識のある僧侶によって見破られたことから、延暦寺僧兵たちの戦意が急降下した。これに不安を感じた師賢と大塔宮が、闇に紛れて比叡山を抜け出したため、呆気なく幕府と延暦寺の間に停戦が成立してしまったのだ。大塔宮らは、無事に笠置に入ったのだが、陽動部隊が本隊に合流してしまったら意味が無い。

諸国の反幕府勢力は、ますます「様子見」に転じ、幕府軍は包囲の輪を笠置に縮めてきた。まさに絶体絶命である。

しかし、ここで彗星のように登場したのが、楠木正成なのであった。

 

南向きの大樹

『太平記』は、正成の初登場を印象的に記す。

笠置山の後醍醐天皇は、あばら家のような行宮と脆弱な味方の有り様に心細い思いをしていた。そんなある日、うたた寝をしていると、夢の中に広い庭が現れ、文武百官が庭園内の宴席に着いていく光景が見えた。自分の席を探していると、どこからともなく現れた美しい童子が、「主上の御座は、南向きのあの立派な大樹の下に御座います」と言った。目を覚ました天皇は、これを神のお告げと考えて謎解きを行ったところ、「あの夢は、『南の木』すなわち『楠』という者を頼りとせよ、という神意に違いない」との心証を得た。側近に聞けば、この近くに楠木正成という武勇の者が住んでいるという。さっそくこの者を召し出すこととなった。

素晴らしい文学的表現である。楠木正成という謎の英雄の登場を、神意に託して表現したのである。確かに、同時代人から見たら、正成の突然の登場は「神仏の奇跡」であったろう。

ただし、歴史的には、後醍醐がこの時点になるまで正成の存在を知らなかったことは有り得ない。

一級史料の『増鏡』には次のように書かれている。

「事のはじめより頼み思し召されたりし、楠木兵衛正成といふものあり。心猛く、すくよかなる者にて、河内国に己が館のあたりを厳しくしたためて、このおはします所(笠置山のこと)、もし危機あらん折は、行幸をもなし聞こえんなど用意しけり」。

つまり、事前に根回しを受けていた正成が、当初の手はずどおりに後醍醐のために立ち上がったという事だ。しかし、それでも快挙であることには変わりない。多くの同志が「日和見」に転じた中で、正成一人が約束どおりに行動したのだから。

『太平記』によれば、笠置に参内した正成は、後醍醐と大塔宮に戦略を尋ねられたとき、御前で次のように申し述べたという。

「もしも武力だけで戦うならば、相模と武蔵(神奈川県と東京都)の兵にさえ勝てないでしょう。しかしながら東国は、武勇はあれど知略に欠けておりますから、計略にかけるのは容易きこと。合戦の習いですので、一度や二度の勝敗をご覧になってはなりません。この正成一人存命であるなら、必ずや聖運が開けると思し召されませ」

なんとも、頼もしいことを言ったものだ。天皇も親王も大いに喜び心を安んじたというが、それも当然である。このセリフは、『太平記』一流の文学的表現であるが、この当時の正成の心事を正確に表していると思う。

世界史の中にしばしば現れる「革命児」は、リスクを恐れない。むしろ、逆境の中にあればあるほど闘志を燃やして権力に抵抗するのである。

正成は、天皇の側近や皇子たちと戦略を語り合ってから笠置を辞去した。本拠地の赤坂で、抵抗運動を組織するためである。