歴史ぱびりよん

第五章 建武の失政


建武政権の誕生

人材登用

個別安堵の法

二条河原の落書

建武政権での正成

 


 

建武政権の誕生

六波羅と鎌倉の相次ぐ滅亡を知った千早攻囲軍5万は、パニック状態になって奈良へと逃走し、やがて後醍醐の武装解除に応じた。

考えてみれば、この5万は幕府の最精鋭部隊であった。それが大阪南部の山岳地帯に足止めされていたからこそ、赤松や名和や千種の快進撃、そして足利と新田の大戦果も可能だったと言える。千早城の功績は、純粋な軍事面でも極めて大きかったのだ。

さて、伯耆で名和長年とともに形勢を観望していた後醍醐は、六波羅の滅亡を知った直後の5月18日に京都への行進を開始した。もちろん、行く先々で多くの「横並び」の武士団が付き従った。

6月2日、播磨( 兵庫県 )西宮で、楠木正成率いる千早城籠城軍が合流した。後醍醐天皇は正成を傍近くに召して、「この勝利は、すべてお前のお陰ぞ」と心を込めて語った。正成は「これも帝の御徳あればこそ」と慎ましく答えたという。二人の間に、言葉では表現できぬ万感の想いが流れたことだろう。そして後醍醐は、栄えある凱旋軍の先陣に楠木軍を据えたのである。行列の先頭に立って騎行する正成は、さぞかし得意だったことだろう。もしかすると、これは正成の人生で最も幸せだった瞬間かもしれない。しかしこの瞬間、楠木正成は後醍醐と固く結び付けられ、離れられなくなってしまったとも言える。

京都に還行した後醍醐天皇は、元号を「建武」に改めた。そして、従来と全く異なる新たな政治を行おうとした。

「朕の新儀は、未来の先例なり」

この後醍醐の言葉から、彼の「革命」に賭ける心意気が十分に感じられる。しかし、それは辛く困難な道のりの始まりであった。

 

 人材登用

いわゆる「建武の新政」の特徴を述べる。

後醍醐政権はまず、完全な能力主義の人材登用を行った。

従来の日本は、門閥家柄などを基準にした身分差別が当然であった。そして、貴族の荘園などに住まない非農耕民は「凡下」や「非人」などと呼ばれて差別されていた。しかし、建武政権はこういった慣例を無視して、出自にかかわらず能力のある者を政府の要職に就けたのである。

地方の武装商人であった名和長年が、東市正(京都所司代)に任命されたのがその好例である。これはもちろん長年の能力と経験が、貴族や僧侶や武士のそれよりも、近畿圏の商業経済の舵取りに適していたためであろう。しかし、こういった措置は、古い考えから抜け出せない保守的な人々の嫉妬や怒りを買う結果となり、新政府の評判を落とすことにも繋がった。名和長年が、後に新政府に殉じて自殺的な戦死を遂げたのも、そのことと深い関係がある。

実は、楠木正成も、長年と良く似た状況に置かれたのだ。彼は、元弘革命の戦功によって従五位上に任官し、河内と和泉両国の守護(後に河内国司も兼任)になった。これを現代に喩えるなら、一介の零細個人事業主が、首相の鶴の一声で、いきなり勲章をもらって大阪府の警察署長(後に府知事も兼任)になったことを意味する。

それでも、正成びいきの論者の中には「この恩賞は、彼の殊勲に比べて低すぎる」と唱える向きもあるようだが、階級差別が当然であったこの当時の時代背景を考え合わせるなら、これは前例が無いほどの大出世なのであった。だからこそ、保守的な人々の怒りと恨みを買う結果に繋がったのである。

『保暦間記』いわく、「正成、長年、(伊賀)兼光、(結城)親光等が類、朝恩に驕りて、高位高位に登りて諌めののしる事、千秋万歳とぞ思いしに・・・」。

京の人々は、楠木正成、名和長年、結城親光、千草忠顕、異例の出世を果たした4人を「三木一草」と呼んで囃し立てたという。この言葉は、各人の官職や名前をモジる(楠木の「木」、名和伯耆守(ほうきのかみ)の「耆」、結城(ゆうき)の「城」、千種(ちぐさ)の「種」)と同時に、雨後の竹の子のように、どこからともなく生えてきた成り上がり物を揶揄しているのである。

ただし、こういった実力主義の人物登用は、もちろん悪いことではない。保守的な人々のやっかみも、有能な「三木一草」が抜群の仕事ぶりを見せ付けることで、次第に沈静化して行くはずだから。

しかしながら、建武政権の最大の失政は、土地問題で起きた。この致命的な失敗が、楠木正成の運命を暗転させて行くのである。

 

個別安堵の法

後醍醐天皇は、土地問題を抜本的に改正しようとした。

もともとこの国は、「公地公民」が建前であった。つまり、全ての国土が国家の所有物であり、人民はそこに住まわせてもらっている建前なのである。税金(租庸調)は、いわば地代の支払である。そして、この時代の憲法である『養老律令』にも、ちゃんとそのことが明記されてあった。

ところが、平安時代中期以降、「荘園」というのが出始めた。新たに開墾された農地などが貴族の私有地となり、国の租税を免れるようになったのだ。やがて、貴族の長であった摂関藤原一門が我欲から積極的にこれを推進したことで、いつのまにか私有地制が国家の基本になってしまい、これが朝廷の財政を弱らせて国軍や警察の廃止に繋がった。同時に、もともとは荘園の自警団であった地方豪族(武士)が力を付け、軍事を壟断し、ついに政治の実権を握るに至ったのである。

そう考えるなら、平安時代初期のような朝廷中心の中央集権国家を造ろうとする後醍醐にとって、「公地公民」の建前に回帰することは絶対的に必要な改革なのであった。

後醍醐としては、全ての私有地を国家で没収したいところだったろう。しかし、それをやってしまうと、全国の武士団のみならず、膝元の貴族や僧侶たちにも反対されることは明らかだった。なぜなら、今やこの国の土地のほとんどが誰かの私有地になっていて、強固な既得権集団が至るところに存在していたのだから。

そこで後醍醐は、全ての土地をいったん国家が収用し、それを改めてみんなに分配するというシステムを考えた。これが「個別安堵の法」である。この国の土地の所有者が、もともと朝廷そのものであることを全国民に知らしめるのが、この法律の目的である。またこれは、複雑化して錯綜した私有地の所有関係を整理整頓する上でも有効な法律だと思われた。

ところが、この改革がいきなり挫折したのである。

「個別安堵の法」では、地主が土地の所有権を政府に認めさせるために「土地証文」などの確証の提示が必要とされた。しかし、先祖代々数百年を経た土地ともなると、そんな証文は紛失していることが多かった。こうなると、自分たち一族が現実に住んでいる土地が、いきなり国や他人に没収されることに成りかねない。そうなると当然、この状況を利用して土地の横領を画策する者が現れるから、深刻な裁判沙汰が頻発したのである。

そもそも、「個別安堵」をもらうために、日本中の地主が京都に殺到する事態になったのだが、これを裁き切るような事務処理能力が朝廷に無かった。慌てた建武政府は、旧鎌倉幕府の降将(その多くは、旧千早攻城軍)を事務方に大量採用するなどして事態の打開を図ったのだが、キャパシティオーバーはまったく改善されなかったのである。

こういった事務上の混乱が起きると、賄賂や詐欺が横行するようになるのが世の常である。土地問題の責任者は、当然、貴族たちだったのだが、「ついに麿たちの天下が来た」と奢り昂ぶる彼らの多くにはモラルが欠如しており、平気で賄賂をとって土地の所有権を詐欺師に売り渡す例が続発した。これでは、鎌倉末期の北条一門の腐敗ぶりと変わりない。

もちろん、貴族の中にだって清廉で有能な人士はいた。しかし、たとえば後醍醐側近であった万里小路藤房は、こういった官吏の腐敗振りを厳しく糾弾し、これが容れられないと見ると絶望して出奔してしまう有り様だった(建武元年10月)。

窮した建武政権は、「個別安堵の法」を改正して事務負担を減らすなどの措置を講じたのだが、法律が不定期にコロコロ変わることは政府の信頼性を損ない、いたずらに世情を不安にさせるだけだった。

すべてがこんな有り様だから、恩賞沙汰もまったく出鱈目で、元弘革命で活躍したにもかかわらず事務上の手違いで恩賞をもらえない、あるいは賄賂や政争の影響でかえって所領を没収される武士団も多かったのである。

「世直し」を期待した武士団は、大きく失望した。これでは、鎌倉幕府の方が遥かにマシだった。

 

二条河原の落書

武士団のみならず、民衆も失望した。彼らは、政府をより無能なものに変えるために革命を推進したわけではない。ところが、新政府の方針は朝令暮改も良いところで、減税政策を打ち出した数ヵ月後に、前言撤回して戦後復興を名目にした大増税を開始するし、挙句の果てには「徳政令(借金棒引き令)」まで出す始末。これでは、鎌倉幕府の悪政よりまだ酷い。後醍醐の革命に参加した商工業者や金貸しが、激怒したのは言うまでもない。

後醍醐は、いちおうは畿内の貨幣経済に目配りし、新貨幣の鋳造プランを立ち上げたりした。しかし、造幣の実務能力を持つ者が政権内部に皆無であったため、これは企画倒れに終わった。

後醍醐天皇をはじめ、彼の取り巻きたちは夢想家肌の「書生」であった。その理想は正しいのかもしれないが、それを現実に落としていく上では実務手腕が必要とされる。しかし、建武政府の中核となった朝廷貴族たちは、ここ数百年もの間、煩雑な経済実務は全て鎌倉幕府に丸投げしていたために、実務能力が完全に欠落していたのである。だから、土地審理も恩賞沙汰も経済政策も出鱈目になったのである。

いわゆる『二条河原の落書』は、新政を次のように揶揄する。

このごろ都に流行るもの

夜討、強盗、にせ綸旨

召人、早馬、虚騒動

生首、還俗、自由出家

にわか大名、迷い者

安堵、恩賞、虚軍(からいくさ)

本領はなれる訴訟人

文書入れたる細葛(ほそつづら)

追従、讒人、禅律僧

下克上する成り出者

器用の堪否沙汰も無く

漏れる人なき決断所

(中略)

天下一統珍しや

御世に生まれて様々の

事を見聞くぞ不思議とも

京童の口ずさみ

十分の一を漏らすなり

 

こういった落書を書くのは、市井の教養人である。皇居のすぐ近くで、このような辛らつな批判文書を書かれるとは、相次ぐ失政で朝廷の権威がいかに失墜していたかが良く分かるのだ。

国民は常に、理想よりも現実の生活を重んじる。どんな立派な理想を掲げようとも、それを実現できないような無能な政府は有害無益なのである。

こうして、民衆の心も後醍醐天皇から離れていった。

 

建武政権での正成

このような状況の中で、「三木一草」に代表される「下克上する成り出者」は、我が世の春を謳歌していた。文観僧正や千種忠顕らは、連日のどんちゃん騒ぎで酒池肉林の生活ぶりだった。名和長年は、大名行列のようなものをしつらえて、京の町を得意げに練り歩いていた。彼らのこのような有り様が、新政に幻滅した人々の嫉妬と怒りを倍増させたことは想像に難くないのである。

しかし、楠木正成については、このような浮ついた話は残っていない。彼は、京の雑訴決断所で恩賞審議や土地問題解決の仕事もしていたのだが、基本的には領国である河内と和泉で戦後復興の仕事を積極的に進めていたようである。近畿南部の寺社に、正成によって寄進を受けたとか、修築を受けたとかいう文書がたくさん残っていることから、それが分かる。彼は、財貨や名利よりも、信仰などの精神性を重んじる人柄だったのだろう。

ころで、京の雑訴決断所での正成の仕事ぶりについては、一級史料に興味深いことが書かれている。

いわゆる『菊池武朝申状』によれば、元弘の恩賞沙汰において、九州菊池一族が審議から外されそうになったことがあった。その理由は、菊池氏の当主・武時が博多で討ち死にしていたことにある。新政府の貴族たちは、「死人は文句を言わないだろう」と官僚的に無情に考えて、菊池氏の功績を完全に無視しようとしたのであった。このとき、怒った正成が審議の席でこう発言したという。「元弘の戦では、多くの武士が朝廷のために立ち上がりましたが皆、身命をまっとうしております。ところが、勅命によってただ一人討ち死にを遂げたのが武時入道であります。そんな彼こそ、忠厚の上で最も第一とするべきではありませんか?」。この発言によって、菊池氏への恩賞が厚くなったのだという。これは、武時の曾孫である菊池武朝が、書簡の中ではっきり書いているのだから事実に違いない。

楠木正成が、肥後(熊本県)の住人であった菊池氏と直接面識があったとは思えない。それなのに、赤の他人のために朝野でこのような建言をしたところに、彼の個性が良く現れていると思う。非常に正義感と道徳心が強く、上層部に対する積極的な建言を恐れない反骨的な勇気の持ち主なのである。

そして、九州菊池一族は、正成から受けた恩を代々忘れることが無かった。

楠木正成が、同時代の多くの人から尊敬され慕われた理由が、こういった断片的な史料からも良く窺えるのである。