歴史ぱびりよん

第六章 新たな戦乱


派閥抗争

諸国の反乱

京都の攻防

正成の活躍

 


 派閥抗争

楠木正成は、あまり京都の政界に深入りしないようにしていたようだが、その理由の一つに、建武政権内部の派閥抗争があったと思われる。

もともと、反鎌倉幕府に立ち上がった人々は、同床異夢の寄せ集めであった。天皇や朝廷があり、商業従事者あり、寺社あり、武士団あり。彼らの一致点は「反鎌倉」というだけだったのだから、その鎌倉幕府が滅亡した後は利権の取り合いということになる。新政府がこれを上手に調整しないと、新たな軋轢が生まれることになる。

しかし後醍醐天皇の夢は、朝廷を中心とした公地公民の中央集権国家の樹立であり、また、皇統の独占支配である。こうなると、土地に権益を持つ諸国の武士団はもちろん、他の皇統(持明院統ら)が収まらない。

一方で、武士団や寺社や商人は、それぞれの立場から自己の利益の最大化を希求していた。逆に言えば、自分たちが最大利益を得られるのなら、彼らにとっては政府が建武政権でなくても天皇が後醍醐でなくても良かったのである。

つまり、南北朝の混乱の原因は、すでに鎌倉幕府滅亡直後に生まれていたといえる。

しかし、後醍醐は明敏な人物で、こういった危うい情勢を良く分かっていたので、当初はなかなか上手に舵取りを行った。

まずは武士団を宥めるために、旧幕府で最大の御家人であった足利高氏を懐柔した。彼とその一族に莫大な所領と高い官職を与え、自らの本名(尊治)から一字を与える厚遇ぶり。足利高氏は、このときから足利尊氏を名乗るのである。

後醍醐の腹積もりとしては、武士団の代表である尊氏を篭絡してしまえば事は済むと考えていたのだろう。

しかし、これに収まらないのが大塔宮である。前述のとおり、元弘革命は彼と楠木正成が命がけで実現させたのである。足利尊氏は、最初は彼らの敵だったくせに、終盤に入って突然寝返り、美味しいところだけ攫ってしまった存在に過ぎない。そう考えるなら、野心家で熱血漢の大塔宮が不満を抱くのは当然であろう。

こで後醍醐は、血気盛んな第三皇子を宥めるため、彼に「征夷大将軍」の地位を与えた。ただしこれは、「武士には二度と将軍位を与えない」という後醍醐の政治的デモンストレーションでもあったわけで、足利尊氏はこの措置を見て当然、不満を抱いた。

こうして、大塔宮と足利尊氏の派閥抗争が始まった。『二条河原落書』に出てくる「虚軍」とは、大塔宮と尊氏が戦争を始めるという噂が、市井に頻繁に流れたことを意味する。しかし、後醍醐はむしろこの対立を積極的に煽った気配が濃厚である。自前の武力を持たない朝廷は、こういう形で2つのパワーを対峙牽制させることで己の安全を保とうとする性向を持っている。

この均衡が破れたのは、後醍醐の后である阿野廉子が尊氏方についたことによる。後醍醐が最も愛した寵姫・廉子は、夫が隠岐に島流しになったとき、ただ一人同行して甲斐甲斐しく世話を焼いた。廉子としては、いわば危険なギャンブルに勝利したわけで、その果実をこれから得なければならない。具体的には、自分の息子を次の天皇にしたいわけなので、彼女の子ではない大塔宮が、英雄なり将軍として声望を集めている状況が実に気に食わないのである。そこで廉子は、千種忠顕や名和長年と謀り、大塔宮を失脚させることにした。彼女にとって、大塔宮が尊氏と対立していることは好都合である。おそらく、尊氏と打ち合わせたのだろう。大塔宮は、「足利尊氏暗殺の陰謀を企てた」という罪で、突然、宮中で逮捕されたのである。そして、当時の慣例に基づいてその身柄は尊氏に引き渡され、ついには鎌倉(尊氏の弟・直義が駐留していた)に護送された(建武元年10月)。

この事件の間、後醍醐は完全に事態を傍観していた。鎌倉へ向かう際、大塔宮は「尊氏よりも主上(天皇)が恨めしい」と呟いたと言われる。彼は、実の父親に見捨てられたのであった。

実際、後醍醐という人物には酷薄なところがある。他人を、「己の目的を達成するための道具」と見なしてすぐに割り切ってしまうのだ。この性向は、自分の子供に対しても例外ではない。彼の皇子のほとんどが、後に地方の山野で戦い彷徨い、そして無念の最期を遂げたのは、決して偶然ではない。

このときも、大塔宮は、阿野廉子と敵対したことで道具としての有用性を失った。だから後醍醐は平気で皇子を見捨てたのである。

そんな後醍醐が、次に目をつけた「道具」は新田義貞であった。鎌倉攻略の殊勲者である義貞は、尊氏と同じく源氏の名門の血統なのだが、先祖以来の因縁で尊氏をライバル視していた。後醍醐は、そんな義貞を煽てて昇進させることで、尊氏の勢力を牽制させようとしたのである。

これらの政争の過程で、楠木正成の名は史書にほとんど出てこない。彼は賢明にも、宮廷内の醜い争いから可能な限り距離を置いていたのだろう。

楠木正成の目には、こういった政界の薄汚さが良く見えていたことだろう。また、共に辛酸を舐めた同志である大塔宮が、陰湿な謀略によって逮捕され流罪になったのを見て大いに傷つき幻滅したに違いない。

いったい、何のための革命だったのか?何のために命を賭けたのか?

 

 諸国の反乱

新政府の無能ぶりと愚かな派閥抗争は、全国的な騒乱を招来した。日本各地で、北条氏の残党を中核とした反乱が頻発したのである。こうした反乱軍は、新政府に不満を持つ多くの民衆の支持を受けていたから、なかなか強勢であった。

恐れた建武政府は、京都で訴訟実務の仕事をしていた旧幕府軍の北条一門の大将たちを斬首した。彼らも裏切るんじゃないかと、疑心暗鬼にかられたのである。こうして政府は、実務手腕に長けた有能な人士を自らの手で失うことになった。

建武元年10月(1334年)、楠木正成は、紀伊(和歌山県 )の飯盛山に立て篭もった反乱軍の討伐に出陣した。この反乱軍の中核を構成するのは、地理や蜂起のタイミングを勘案するに、大塔宮の失脚に激怒した彼のシンパたちであったと思われる。つまり正成は、昔の同志と戦う羽目に陥ったのだ。彼の辛い心境は、いかばかりだっただろうか。

おそらく、主将の戦意不足のためだろう。飯盛山を包囲した楠木軍はまったく戦果を挙げることが出来なかったので、斯波高経(足利一門の名将)の軍勢に交代させられた。その後、反乱軍は呆気なく殲滅される結果に終わった。

反乱は、京都でも起きた。鎌倉幕府と密接な関係にあった貴族・西園寺公宗は、後醍醐政権下では当然ながら不遇にあった。そんな彼は、京に潜伏した北条残党と連絡を取り合って、後醍醐暗殺を画策したのである。しかし、この陰謀は密告によって露見し、捕らえられた西園寺は名和長年によって処刑された(建武二年6月)。

こうして、建武政府はなんとか畿内、西国と北陸の反乱を鎮圧することに成功した。

しかし、最大の反乱は関東で起きた。北条高時の遺児、時行は信濃(長野県)に逃れて時節を待っていたのだが、名将・諏訪頼重の補佐を受けて蜂起。鎌倉を守っていた足利直義を撃破して、先祖の地を奪還することに成功したのである(建武二年7月)。

足利直義は鎌倉を脱出する際、この地で虜囚となっていた大塔宮を殺害した。反乱軍に利用されるのを阻止するためだったと言うが、かつて兄(尊氏)が苦しめられた恨みを晴らしたのかもしれない。

鎌倉を占拠した北条時行の軍勢は強力だったため、建武政府は大いに恐れ脅えた。

ここで進み出たのが、足利尊氏である。鎌倉は彼の所領であったし、現実に敗走中なのは実弟の直義である。ここで救援に行かなければ、武士の本分が立たないのだ。

しかし、後醍醐は許可しなかった。彼は、北条残党よりも尊氏の方が恐ろしかった。尊氏を、あくまでも京都の膝元で窓際族のような状態で軟禁して置きたかったのである。

そこで尊氏は、独断で出陣した。当初は足利一門のみの軍勢だったのだが、頼みもしないのに諸国の武士が続々と馳せ参じ、たちまち数万の大軍に膨張したという。新政府に幻滅し、さりとて北条残党にも加担したくない武士たちは、尊氏の雄姿の中に何か新しい希望を見たのだろう。

こうして、勢いに乗る足利軍は、三河(愛知県)で直義の敗残軍を収容すると、この地まで進出してきた北条軍と衝突。これを連戦連破しつつ東海道を馳せ下り、ついに鎌倉を奪還した。諏訪頼重は壮絶な戦死を遂げ、北条時行は信濃に逃走した(建武二年8月)。

いわゆる「中先代の乱」はこうして鎮圧され、これにて一件落着である。ところが、これが新たな始まりであった。

足利尊氏は、後醍醐からの召還命令を無視して鎌倉に居座り、この戦いでの恩賞沙汰を勝手に行ったのである。おそらく彼は、無能な新政府の出鱈目な恩賞沙汰を待っていては、命がけで働いてくれた将兵たちに申し訳ないと考えたのだろう。彼はまた、恩賞沙汰を行う建前上、勝手に「征夷大将軍」(大塔宮の失脚後は空席になっていた)を名乗ったのであるが、これは「幕府」の復活を意味する。

考えてみれば、かつて鎌倉幕府が武士団の衆望を失った理由は、幕府という政治システムそのものの欠陥によるのではなかった。北条一門の首脳部が、腐敗し堕落して、真面目に仕事をしなくなったのが悪いのである。だったら、これからは、足利尊氏を中心とする清潔な幕府に期待をかけてみようじゃないか。建武政府の無能さに失望した日本全国の武士団の間に、こうした機運が漲ったのは当然であろう。

だが、言うまでも無く足利尊氏の幕府開設は、建武政府の立場からすれば完全な反逆である。しかもこのころになって、大塔宮が足利直義に惨殺されたとの確報が京都に伝わったのである。

朝廷は、もはや足利尊氏追討を決意せざるを得なかった。

左近衛将軍・新田義貞を総大将とする討伐軍が京を出陣したのは、建武二年11月。

建武の戦乱の始まりである。

 

京都の攻防

楠木正成はこの情勢下、新田義貞の遠征軍には参加せず、京都と領国を往復して通常の職務を行っていたようである。彼は、軍事組織的に後醍醐の親衛隊の位置づけだったので、京都を離れる必要が無かったのである。

しかし、彼がこのころ畿内の寺に奉納した写経がたくさん残っている。後醍醐の失政や諸国の反乱に煩悶する彼の、仏教の教えに魂の救済を求める心境が思いやられるのである。

さて、東海道を下る義貞の遠征軍は、当初は連戦連勝だったのだが、箱根の戦いで尊氏の奇襲攻撃に敗れたことをきっかけに味方の裏切りが相次いだことから、ついに三河(愛知県)にまで退却してしまった。味方に裏切りを出した件については、義貞個人を責めるべきではないだろう。多くの武士は、この時点で既に建武政府に愛想を尽かしており、それよりも的確な恩賞を迅速にくれる尊氏に付いた方が得だと正しく判断したのである。

うなると、「横並び」の日本人の心は大きく動く。尊氏が、義貞を追撃して東海道を攻め上がると、諸国の武士団はたちまちこれに馳せ参じ、その軍勢は6万を超えたと伝えられる。東国だけでない。九州でも四国でも北陸でも、尊氏に呼応した武士団が次々に蜂起したのである。

こうした情勢の中で、元弘革命の殊勲者であった播磨(兵庫県)の赤松円心も反乱軍に加担する始末だった。彼は、大塔宮のシンパと見られていたために阿野廉子に嫌われ、その活躍にもかかわらず元弘革命の恩賞をまったく貰えなかった。また、大塔宮に恩顧を感じていた彼は、宮の理不尽な失脚に強い憤りを感じたはずだ。そんな彼が、足利方に味方したのは、むしろ当然であったろう。

考えてみれば、大塔宮との関係という点では、楠木正成も赤松円心と似た境遇にあった。大きく違ったのは、正成は後醍醐天皇その人からも直接恩顧を受けていたこと。それゆえに、活躍に見合うだけの十分な恩賞を得ていた点である。

これが、正成と円心の運命を分けた。

楠木正成は後醍醐天皇を守るため、河内と和泉の軍勢を率いて京に出陣したのである。

さて、諸国の反乱によって京都が包囲される形勢になったので、三河の新田義貞は大急ぎで京都に取って返した。楠木正成は宇治に陣を構えた。勢田を守るのは名和長年と千種忠顕である。こうして見て行くと、後醍醐に忠誠を尽くす人たちは、今や新田義貞の一党と「三木一草」のみであったことが分かる。義貞と「三木一草」は、後醍醐の能力主義人事によって破格の厚遇を得て、後醍醐の恩顧を深く感じているという点で共通していた。

足利尊氏率いる大軍は、建武三年(1336年)正月に宇治に姿を現した。しかし、楠木正成の戦略によって宇治川南岸は既に焦土と化しており、足利の大軍は、軍需物資はもとより宿泊施設すら得られなかった。そして川向こうを見やると、宇治の北岸には堅牢な要塞が築かれていた。正成は、「宇治平等院」を取りこぼし跡地を焼き払い、その廃材を用いて城を築いたのである。ちなみに、このとき唯一焼け残った平等院の施設が、後に鳳凰堂という名で知られる阿弥陀堂である。

尊氏の軍勢は、正成のこの要塞を攻撃したのだが、あまりにも手ごわくてまったく歯が立たない。やがて尊氏は、攻城戦であの楠木正成を相手にすることの愚かさに気づき、別働隊を西の山崎に回し、こちらからの突破を試みたのである。

兵力不足の朝廷軍は、山崎方面を手薄にせざるを得なかったため、京都の防衛線はこうして西から破られた。宇治川の防衛で善戦していた新田、名和、千種、楠木勢は、敵に背後に回られることを恐れてやむなく陣を解き、後醍醐と公家たちを守りつつ比叡山に撤退したのである。この混乱の中で、「三木一草」の一人であった結城親光が戦死した。降伏を装って尊氏暗殺を狙ったのだが、あと一歩と言うところで果たせなかったのである。

足利尊氏は、京都さえ占領すれば、後醍醐が屈服して「足利幕府」を容認してくれるだろうと甘く考えていたようだ。しかし、後醍醐は彼が考えていたような甘い人物ではなかった。京に入った足利の大軍は、比叡山に立て篭もる後醍醐に長期持久戦に持ち込まれ、なまじ大軍であるがゆえの補給不足に陥ってしまったのである。

やがて、東北から鎮守府将軍・北畠顕家(彼も、異例の昇進組だ)率いる後醍醐方の援軍1万が駆けつけると、彼我の戦力は逆転した。攻勢に打って出た官軍は各地で足利軍を圧倒し、ついに京都から叩き出してしまったのである。

 

正成の活躍

楠木正成は、その率いる軍勢わずか数百騎でありながら、この戦いで大活躍したらしい。

『太平記』によれば、正成は画期的な新戦法で足利方の騎馬武者を翻弄した。彼は、正月27日の決戦で歩卒全員に縦長の軽い盾を常備させたのだが、これは金具を用いて互いに横に連結できる仕掛けになっていた。そして、足利方の騎馬武者が攻めてくると、この盾を地に置いて横に繋ぎ、即席の城壁にして突撃を食い止め、そして城壁の後ろから矢と石礫を浴びせたという。敵が退くと、金具を外して攻勢に打って出たという。簡単な工夫であるが、足利軍はこの戦法をどうしても打ち破れず、軍勢の数では圧倒的でありながら小勢の楠木勢にまったく歯が立たなかった。

この戦法は、『太平記』にしか出ていない話ではあるが、楠木正成は鎌倉幕府との戦いを経て東国の騎馬武者の特徴を知り尽くしているのだから、彼ならこの程度の戦法は考え付きそうな気がする。

また、正成はトリッキーな謀略を用いて足利方の首脳部を混乱させたという。ある戦いで新田義貞と楠木正成が戦死したとの誤報を流し、足利方首脳部を油断させておいてから、いきなり奇襲攻撃を仕掛けたというのだ。『太平記』によれば、義貞と正成の死体を戦場で捜す僧侶の群れ(泣き坊主)までチャーターして、尊氏と直義を騙したという。

これは、いくらなんでも『太平記』の創作かもしれないが、混乱状態の戦場の中で、実際に義貞と正成の偽の首級が河原にさらされたことがあったようだ。このとき、首級の横に貼られた市井の落書に、「これは似た(新田)首なり、正しげ(正成)なる虚言かな」と駄洒落まじりに書かれていたというから面白い。

ともあれ、義貞と正成ら「三木一草」、そして北畠顕家の必死の奮戦によって足利軍は大敗し、ついに京都を捨てて播磨(兵庫県)に逃走したのであった。

しかし、足利軍には「民意」が味方している。播磨で赤松円心らの援助を受け、中国地方の武士団の増援を得た尊氏は、再び京都奪還を目指して動き始めた。しかし、これを阻止したのが正成だった。摂津の地形を知り尽くした正成は、ゲリラ戦を仕掛けて足利本隊を足止めした。その間、京都周辺の残敵を掃討した義貞と顕家が、官軍主力を率いて摂津で正成に合流、2月12日、豊島河原(西宮市)で決戦となる。

『太平記』によれば、正成が山岳地帯に迂回機動して足利軍の側面をついたことで勝負は決した。足利軍はまたもや大敗を喫し、主将の尊氏や直義すら切腹を覚悟したほどだったという。しかし、からくも脱出した尊氏一党は、捲土重来を期して船で瀬戸内海を九州に漕ぎ出した。九州にも、彼を慕う武士団が多かったからである。しかし、船に乗り切れなかった足利軍の残存兵1万は、みな官軍の捕虜となって京に護送された。

鮮やかな大勝利である。

こうして、後醍醐は勝利し、政権を維持した。

楠木正成の勇戦奮闘は、またもや天皇を救ったのであった。