歴史ぱびりよん

第七章 哀しき献策


元弘還地令

卑しき正成・・・

最後の献策

桜井の別れ

 


 元弘還地令

足利尊氏を九州に追って、建武政権は慢心した。奥州の大軍を率いる北畠顕家を東北に送り返し、新田義貞を膝元に留めて京の治安警護に当たらせた。

その隙に、尊氏に逆襲の機会を与えてしまったのである。

尊氏は、無為無策に九州に逃げたわけではない。

彼は赤松円心の献策に従って、密かに持明院統の光厳上皇と連絡を取り、後醍醐追討の院宣を受け取った。足利軍が、大軍を擁していたにもかかわらず京都で連戦連敗を喫した大きな理由は、朝廷の権威に逆らって「逆賊」の汚名を着せられたことによる将兵の戦意不足にあった。そのため尊氏は、「逆賊」の汚名を逃れると同時に、戦いの大義名分を得るために、後醍醐の大覚寺統に対立する持明院統の権威を利用しようと画策したのである。ただしこの策は、後の南北朝の皇統対立の根本原因になる。

また、弟・直義の献策に従い、「元弘還地令」を出した。これは、建武政権が打ち出した土地政策や恩賞を完全に無効とする法令である。「個別安堵の法」に代表される出鱈目な法令や恩賞支給に翻弄された武士団は、これに大いに喜んだ。なにしろ尊氏に味方すれば、それだけで先祖代々住んでいる土地が自動的に保証されるし、新たな恩賞も得られるからだ。

逆に見れば、後醍醐によって破格の恩賞をもらって昇進した者は、既得権益を守るため、何が何でも尊氏を打倒しなければならなくなった。もちろん、楠木正成ら「三木一草」や新田義貞や北畠顕家が、このような人たちに該当する。

そして、建武政権に不満を持つ武士とそうでない武士を比べた場合、前者の方が圧倒的多数であったことは言うまでもない。つまり尊氏は、多数派を結集するために「少数者の切捨て」を断行したのであった。

楠木正成や新田義貞ら「少数者」が、最後の最後まで足利方と戦った真の理由がここにある。一部の大衆作家や戦前の軍国主義教育が主張するような「朱子学の大義名分論」や「天皇家に対する無垢な忠誠心」ではないのである。

さて、「光厳上皇の院宣」と「元弘還地令」という2つの強力な武器を得て、足利尊氏は北九州に上陸を果たした。ここに、少弐や大友といった九州の名族が勇んで馳せ参じる。

しかし、後醍醐方の菊池武敏が先制攻撃を仕掛けたため、足利方は大苦戦に陥った。博多郊外の多々良浜の合戦(建武三年3月2日)では、足利方の軍勢1千に対し、菊池方2万だったという。しかしこれは、菊池優勢と見て勝ち馬に乗ろうとする連中が金魚の糞のように付いてきただけの大軍だったので、戦場で真面目に戦ったのは菊池武敏とその盟友・阿蘇惟直の手勢だけだった。そして、足利方の決死の奮闘で武敏が負傷すると、日和見の武士たちが一斉に足利方に寝返ったため、ついに菊池勢は敗走し、阿蘇惟直は戦死した。

何度も言うが、日本人は本質的に「横並び」なので、誰かが有利な行動を取ると、みんなその真似をする。忠義も道徳も義理人情も関係ない。「赤信号、みんなで渡れば怖くない」の世界なのである。

菊池武敏を肥後(熊本県)の山中に追い落とした尊氏は、あっという間に全九州の「横並び」連中を従えると、再び6万の軍勢の支配者となった。

この様子を見て驚愕した朝廷は、遅まきながら新田義貞の軍勢2万を中国筋に進発させたのだが、赤松円心をはじめ有力武士団が山岳地帯に要塞を築いて抵抗したため、義貞の進軍は遅々として進まなかった。

 

卑しき正成・・・

『梅松論』によれば、このとき楠木正成が後醍醐にこんな献策をしたという。

「ただちに義貞を誅罰して、尊氏と和平を結んでください。和睦の使者として、この正成が九州に参っても構いません」。

正成ほど冷静正確に時勢の分析が出来る男であれば、このような判断をしたとしても不思議はない。後醍醐政権が生き延びるためには、何らかの形で尊氏に妥協するしかない。いったんは尊氏の幕府開設を認めて戦乱を収め、その後で政治的な解決を図ることが賢明だと思案しても不思議はない。

しかし、それでもこの記事が事実かどうかは疑問である。なぜなら、もしも正成のこの献策が本当だとしたら、彼は建武政権で得た既得権益を全て手放す覚悟を決めたことになる。尊氏と和睦するということは、「元弘還地令」の受け入れを意味するからだ。しかし、仮に正成が無欲恬淡で清潔な人物だったとしても(その可能性は高いが)、彼の妻子眷属や一族郎党がそれを承認するであろうか?

この時代の武士団は、組織的には現代の小規模同族会社みたいなものであった。一族の存亡にかかわる重大事は、合議の上で決めるのが普通だから(現代の同族会社だって、株主総会や役員会は行う)、当主の勝手な判断で一族全体の運命を決めるのは困難なのである。

そういう意味でも、「楠木一族が後醍醐に忠義を尽くした理由は、当主の正成が朱子学の信奉者だったからだ」と、当主個人の精神の有り方を振り回す議論には疑問を感じる。そもそも、正成が朱子学を勉強していたという証拠は、実はどこにも存在しない。こういった議論は、職業作家の妄想の産物なので要注意である。

また、「義貞を誅罰して」というのも不思議だ。この献策の時点では、新田義貞は京都の戦勝をもたらした大英雄であって、何の失策も犯していない。もちろん、正成がこう言ったのは、「義貞を罰すれば尊氏の歓心を買える」と考えたからだろうが、何の罪も犯していない義貞を、どうやって朝廷が誅罰できるというのだろうか?

さらに「正成が九州に参る」というのも腑に落ちない。尊氏と真剣に和平を結ぶのであれば、建武政権のトップクラスの要人(北畠親房など)が下向すべきであろう。成り上がり者の正成が行っても、尊氏とは格が違いすぎて猫の使いにしかなるまい。

そのように考えると、『梅松論』の記事は「小説家の創作」という気がする。もともと『梅松論』は、足利方の視点から書かれた書物であって、正成の口を使って後醍醐方への批判を行い、同時に足利方の正当性を擁護する傾向があるので要注意である。

もっとも、仮に献策が事実だったとしても、公家一統の野望に燃える後醍醐のサロンが尊氏との妥協を認めるはずはなかった。『梅松論』によれば、貴族たちは「我々は(京都での)勝者なのだから、敗者に頭を下げる必要などない」「楠木の知恵の鏡も曇ったか」などと言って、正成の献策を笑い飛ばしたという。

『梅松論』の正成は、しかし勇気を奮って言葉を続けたという。「諸事情を考えますと、尊氏は西国を平定し、大軍で近日中に攻め上がって来るでしょう。そうなったら、とても防ぎ切れません。上に千慮ありといえども、軍略に関しては卑しき正成の申すことに間違いはありません。どうか、ご再考ください」と言って、はらはらと涙を流した。

「卑しき正成」という言葉が哀しい。彼は「差別」を感じていたのだろうか?成り上がり者に向けられる侮蔑的な視線が辛かったのだろうか?

しかし、後醍醐も貴族たちも、この熱誠を無視したのである。

こういった愚か者たちが京で浮かれている間に、水軍を整備した足利軍は、山陽道と瀬戸内海で、陸海併用での進撃を開始していた(延元元年(1336年)5月1日)。

このとき、松山の沖を航行中の足利船団に、足利の旗印を挙げた謎の船団が五百艘接近した。すると足利水軍は、「楠木の奇襲だ!」と叫んでパニック状態に陥ったという(『梅松論』)。この船団は結局、足利軍に合流しようとした伊予(愛媛県)の河野氏の軍勢であることが判明するのだが、足利軍が正成の謀略をいかに恐れたのかが良く分かるエピソードである。

このエピソードが本当だとすると、正成は正月の戦いにおいて足利軍に変装して奇襲を仕掛けた事実があったのだろうか?あるいは、『太平記』にある「偽首」の謀略は実話だったのだろうか?

ともあれ、味方よりも敵のほうが、正成の軍略を高く評価してくれていたというのは、悲劇としか言いようがない。

 

最後の献策

足利軍の水陸併進作戦で、新田義貞の中国筋での戦いは無意味となった。水軍に背後に回られて補給を絶たれたら、袋のネズミになるからだ。そこで義貞は、福山(広島県)付近にまで進出させた軍勢に総退却を命じ、これを湊川(兵庫県)に集結させて尊氏に決戦を挑む作戦を立てたのである。

しかしこの行軍の過程で、例によって例のごとく、義貞を見限って敵に寝返る者が続出したため、兵庫に陣を敷いた新田軍は総勢1万に過ぎなかった。今さらながら、北畠顕家の奥州勢を東国に返してしまったことが悔やまれる。

5月20日、窮した後醍醐天皇は、楠木正成に出陣を命じた。

出陣の挨拶に後醍醐の前に進み出た正成は、最後の献策を行った。『太平記』はこう伝える。

「尊氏が、既に筑紫九国の勢いを率いて上洛なれば、その軍勢は定めし雲霞のごとくでしょう。味方の疲れた小勢をもって、敵の勢いに乗る大軍とまともに戦おうとすれば、味方の敗北は必至です。そこで、新田どのを直ちに京へ召還し、(天皇には)以前のように山門(比叡山)に臨行していただき、正成も河内に罷り下って畿内の軍勢を用いて河川を封鎖し、全軍で敵の糧道を封鎖するなら、敵は次第に疲れて脱落し、味方はますます強勢となりましょう。そうなってから、新田どのが山門から、正成が搦め手から一気に総攻撃すれば、朝敵を一挙に殲滅できるでしょう。新田どのも、きっとそう考えているはずですが、一戦も交えず退却するのは武士のメンツが潰れるので、兵庫で抗戦しようとしているのです。しかし戦いというものは、最後の勝利こそが肝心です。よくよく思慮を巡らせて決定してください」。

客観的に見て、実に見事な作戦である。この策が採用されていれば、日本の歴史は根本的に変わっていたことだろう。また、文章の内容を吟味しても違和感を覚えない。実際に、こんな内容の献策が行われたと見て良いように思う。

後醍醐は、正成の戦略に深く心を動かされ、翌21日に御前会議を開催した。

正成も出席したこの会議において、貴族の多くが正成の作戦に感心し、「やはり戦のことは武士の意見を聞くのが一番だ」と口々に言った。

しかし、坊門清忠という公家が反論した。いわく、「1年のうちに2度も天皇が動座するのは前例がない」。「戦もせずに都を捨てるのはメンツが立たない」。「我々は軍略ではなく朝廷の権威によって勝利するのだ」。

なんとなく、太平洋戦争を指導した陸海軍両省の首脳陣が言いそうなセリフである。前例とメンツにこだわり、現実を無視した精神論である。もっとも、どこの世界にもこういう人間はいるものだ。しかし、問題はこの暴論が周囲を動かすことである。これは、日本民族の悪しき体質なのかもしれない。

後醍醐は、おそらく坊門清忠の「メンツ論」に大きく動かされたであろう。相次ぐ失政の連続で、建武政権の権威の源泉はもはや軍事力しか残されていない。戦わずに都を捨てる行為は、その最後に残った権威まで失墜させるであろう。

こうして後醍醐は、正成の必勝の戦略を棄却した。

「さては、死ねとの勅定か」正成は、蒼白な顔で絶句したと『太平記』にある。

しかし、彼は続けた。「この上は、さのみ異議を申すに及ばず」、と。

 

 桜井の別れ

楠木正成は兵庫へ向かいつつ、陣ぶれを発して軍勢の招集を行った。しかし、これに応えて集まってくれた者は少なかった。一族の中にも、参集を渋る者が続出する。みんな、勝ち目の無い戦であることを、それ以上に、勝っても甲斐のない戦であることを知っていたのだろう。

もはや、故郷に帰る時間的余裕はない。決死の覚悟の正成は、河内への分岐路に当たる桜井の駅にしばし駐屯して、本国からの増援を待つと同時に、故郷の者たちに後顧を託そうとした。

彼は、同陣していた嫡男の正行(まさつら)を呼び寄せて、河内に帰るように諭した。これが、『太平記』屈指の名場面、「桜井の別れ」である。

「今生にて汝が顔を見んこと、是を限りと思うなり。正成すでに討ち死にすと聞きなば、天下は必ず将軍(尊氏)の御代に成ると心得るべし。然りといえども、いったんの身命を助からんために、多年の忠烈を失って、降人に出ること有るベからず」。

この言葉は、戦時教育で悪用された問題の一節である。昭和の若者たちは、正成の前に座る正行と同様に、軍人官僚たちの忠烈な盾となって死ぬことを勧奨されたのだった。

だが言うまでもなく、この『太平記』の一節は小説家の創作である。だいたい、親子水入らずの別れの現場を、いったいどこの誰が記録していたというのであろうか?これはまさに、小説家の創作が、実際に起きた「歴史」として偽って悪用される好例である。

戦前の唱歌『大楠公』はこう描写する。

 

正成涙を打ち払い

我が子・正行呼び寄せて

父は兵庫におもむかん

彼方の浦にて討ち死にせん

汝はここまで来つれども

とくとく帰れ故郷へ

 

これだと、正行が年端もいかぬ子供のようである。実際、『太平記』では13歳となっているのだが、一級史料によると彼はすでに朝廷の官職についていたので、実際には20歳くらいだったようである。

いずれにせよ正行は、最期まで後醍醐のために奮戦する運命にあった。

この桜井で、正成は大切にしていた愛染明王の坐像を、彼に会いに来た河内観心寺の恩師・滝覚房に託したという。この坐像は現存していて、国の重要文化財になっている。

5月23日、尼崎で最後の呼集をかけた結果、集まった軍勢はわずかに700騎。

『梅松論』によれば、絶望した彼は後醍醐に手紙を書いたという。

「今度は、君(後醍醐)の戦、かならず破れるでしょう。人心をもって図るに、元弘の戦の折に密かに勅命を受けて金剛山に立て篭もった時は、正成の私事だというのに国中の民衆が助けてくれました。みんな、君に期待したからです。しかしながら、今回は正成が河内と和泉の守護として命令を発したというのに、一族の中にすら参集を渋る者がいる始末。まして、民衆は言うに及ばず。もはや、天下が君に背を向けたことは明らかです。正成の存命は無益なり。かくなれば、真っ先に散りましょう」。

この言葉が本当だったとすれば、その悲痛な心境は察するに余りある。民衆に見放された軍隊は、絶対に勝つことが出来ない。それを知りつつ、楠木正成は民衆に見放された軍の一員として、絶対に勝ち目の無い戦場に向かわんとするのだった。

ただ、『梅松論』の文章を鵜呑みにするのが危険であることは、先述のとおりである。筆者としては、「愚痴っぽい正成」は、これまで見てきた人物像と比べてなんとなく違和感を覚えるのだ。