歴史ぱびりよん

第九話 技術と生産効率

第二次大戦を論ずる上で意外と盲点になっているのが、技術や生産力といった観点です。ここでは、大雑把に、概略を見ることにします。

日独は、意外と大したことありませんでした。戦後、技術力と経済力でのし上がったために誤解されているのですが、当時は多くの分野で連合国に遅れていたのです。

まず、日本ですが、当時の代表的な兵器は、ゼロ戦と酸素魚雷でした。これらはいずれも、卓越した技術力の産物ではありません。努力と工夫の産物なのです。

酸素魚雷というのは、液体酸素を推進力として使う魚雷です。他国の魚雷は、空気を燃やしてスクリューを回すものでしたから、燃費は悪いし、また水中に二酸化炭素を放出するため、航跡が艦上から丸見えで、簡単に避けられてしまうものでした。日本軍の酸素魚雷は、空気から抽出した液体酸素を水中に放出するため航跡が見つけられにくく、燃費にも優れ、絶大な威力を発揮したのです。これは、ちょっとしたアイデアの勝利でしょう。日本人は、昔からこういうのが得意なのです。

ゼロ戦の強さは、やはりアイデアの勝利でした。すなわち、他国の軍用機には、少なくとも燃料タンクや操縦席に防弾装備がついているものなのですが、ゼロ戦はこれらを全て取っ払ってしまったのです。この結果、機体が軽くなったため、運動性能と燃費が格段に良くなりました。1対1でゼロ戦に勝てる戦闘機は、世界中に存在しなくなりました。

しかし、短所もあります。打たれ弱さです。一発でも敵弾を受ければ、たちまち燃え上がってしまい、パイロットの命さえ絶望的になるのです。 ゼロ戦に限らず日本の軍用機は、みな、打たれ弱いという欠点を抱えていました。

戦争中盤以降、優秀なパイロットが枯渇してしまうのも、こうした打たれ弱さが原因でした。飛行機は一週間あれば造れますが、優秀なパイロットは3年かけなければ養成できません。日本軍は、たちまち人材不足に陥り、苦肉の策として「神風特攻隊」が案出されることになるのです。

つまり、ゼロ戦に代表される日本の軍用機は、戦術的には優れていても、戦略的には大変な欠陥品だったのでした。

造船技術も、戦艦大和などは立派でしたが、全体的には低水準でした。

例えば、戦争中盤以降、日本の潜水艦は、敵駆逐艦に簡単に発見されて片端から撃沈されてしまいましたが、その理由は、エンジン音がうるさかったからなのです。エンジン音を小さくする技術は、当時の日本には皆無でした。 また、当時の日本人は、工作機械という概念を知りませんでした。何をするにも、人力だったのです。例えば、ブルドーザーを活用しなかったため、飛行場や陣地を造るのは、全て兵士や軍属のスコップでした。

工場でも、実質的に家内制手工業を行なっていました。「流れ作業」という概念も無く、コンベアシステムもありません。大勢の職工さんが、金槌を振るいながらゼロ戦を手造りしていたのです。

工程間移動も、荷車に機体を積んで、牛や馬に引かせて行いました。自動車が普及しておらず、道路などのインフラも整備されていなかったから、これは仕方ないのです。

もちろん、原価企画という概念もありませんでした。日本軍の兵器は、機種ごとに別々のビス、ボルトを使っていたそうです。これでは、例えばゼロ戦の工場ではビスが余っているのに、彗星の工場ではビスが足りないといったことになって、生産効率が悪くなるのですが、この問題点は終戦まで改められませんでした。

さらに、品質管理(QC)という考え方もありませんでした。精密部品には、かなりの割合で欠陥品が出ていたそうです。

無線通信の技術も良くありませんでした。アンテナなどは良かったのですが、肝心の本体の技術が未熟だったので、故障続発で、実戦の役には立たなかったのです。

ドイツから技術供与してもらって造ったレーダーの性能も、やはり故障続発で頼りにならぬものでした。

原爆の研究は、かなり進んでいました。仁科博士が優秀だったからです。ただし、実戦配備することは絶対に不可能だったことでしょう。何故か?理由は簡単です。日本とその周辺地域では、ウランが採掘できなかったからです。どんなに立派なレシピを知っていても、食材が入手できなければどうしようもないわけです。

ドイツはマシだったのか?日本よりは随分とマシでした。しかし、後世に伝えられているほど優れてはいなかったのです。

例えば、戦車は、極めて重大な欠陥を抱えていました。意外に思う人が多いでしょうが、ドイツ軍の平均的な戦車の戦闘力は、ソ連はもとより、イギリスにも劣っていたのです。なぜかと言うと、当時のドイツは、厚い鋼板を丸く加工する技術が貧弱だったのです。

戦車のプラモデルが好きだった方はピンと来るでしょうが、連合軍の戦車は丸みを帯びて女性的なのに、ドイツの戦車は角張って男性的でしょ?実戦では、丸いほうが、敵の砲弾を弾きやすくなって有利なのです。従って、ドイツの戦車は打たれ弱かったのです。

ドイツ軍は、この欠陥を克服するためにどうしたか?極めてドイツ的な発想ですが、鋼板をひたすら分厚くしたのです。こうして出来上がったのが「重戦車」(ティーゲル、パンテル、ケーニヒスティーゲル)です。プラモではとても強そうですが、あまり実戦的ではありませんでした。どうして?重すぎるのです。駆動部分に負荷が掛かりすぎて、しょっちゅう故障していたのです。一台の重戦車の背後には、常に5名くらいの技師さんが控えていたそうです。なんともトホホな話です。

ドイツ戦車が強いイメージがあるのは、ロンメル将軍に代表される人材の優秀さに加えて、砲兵や爆撃機といった多種兵科を有機的に結合させた戦術力のおかげなのです。戦車自体は、実は全然強くなかったのでした。

原爆は、日本よりは実現可能性がありました。ハイゼンベルク博士の才能に加えて、ドイツ領のチェコでウランが採掘されるからです。しかし、その量は実験にも不十分なほど少ないので、実戦配備は無理だったでしょうね。

もちろんドイツは、航空技術が非常に優れていました。ブラウン博士らの才能は、ロケットやジェット機を世界で最初に実用化させたのです。もっとも、ヒトラーが、1933年の段階から、多額の国家予算をつぎ込んで研究させた成果なので、ヒトラー(=政治家)の功績という見方もできるのですが。

工程管理や原価企画は、やはりお粗末だったようです。ナチス体制というのは、意外と様々なお役所が競合して成立していたので、お役所ごとに予算や技術者の分捕り合戦をしていて、生産効率自体はあまり高くなかったみたいですね。

アメリカはどうか?

チャップリンの「モダンタイムス」の世界でした。

もともと、原価計算の研究は進んでいたのです。それに加えて、戦争中に様々な工夫がなされたため、生産効率は鰻のぼり。兵器の部品は、全て同一企画に統合されて効率化が図られました。最盛期には、4分間に1機(!)の割合でグラマンが完成していたそうです。

ゼロ戦が、必死の空中戦でグラマンを1機撃墜しても、その瞬間に、5機の新品が工場から出てきていたというわけです。

なんとも、トホホですねえ。

以上、第二次大戦の勝敗は、物量のみならず、技術や生産効率の結果でもあったのでした。