歴史ぱびりよん

第二十話 終戦工作その1

1.追い詰められた日本

いよいよ終戦工作です。

終戦工作は、日本史上のハイライトではないかと思います。なぜなら、歴史の中で日本民族が滅亡に瀕したのは、後にも先にもこの時だけだからです。もしも終戦工作が失敗していたら、日本という国家は世界から消滅していたかもしれないのです。

その割には、終戦工作について分かり易く書かれた本は少ないようです。そのため、詳しく知っている人も少ないようです。学校では、縄文人が何を食っていたか教える前に、子供たちにこういう事を教えるべきだと思うのですが。

というわけなので、終戦工作については気合を入れて論じていきたいと思います。

本論に入る前に、当時の国際情勢を俯瞰してみたいと思います。

まず、日本の唯一の同盟国だったドイツは、1945年5月に降伏してしまいました。どうしてかというと、ヒトラーが4月末に自殺しちゃったからです。ヒトラーの死は、ナチスという国家体制を崩壊させたのみならず、ドイツ全軍の士気をゼロにしたのです。彼が、いかに物凄いカリスマ指導者だったか良く分かります。

興味のある方は、拙著『千年帝国の魔王』をどうぞ(笑)。

ドイツ人の犠牲者は、約600万人と言われています。ドイツは東西に分割され、アメリカとソ連はその上で冷たい睨み合いを開始したのです。

ドイツの幸運は、独裁者の死によって戦争から解放されたことです。日本には、このような存在がいなかったので、いつまでもズルズルと戦い続けるしかなかったのです。

陸軍は、「本土決戦」を豪語しました。民間人に竹やりを配り、刺殺の訓練をさせました。スローガンは、「1億玉砕」です。

しかし、この愚劣な計画は、実現不可能だったことでしょう。なぜなら、上陸してきたアメリカ軍を迎えるのは、竹やりを抱えた市民の群れではなくて、大量の餓死死体だったはずだからです。

厚生省の戦後の調査によれば、1945年の年末まで戦争が長引いていた場合、全国民の1/3から半数が餓死していた可能性があるそうです。

ほとんどの日本人は(お偉方を除く)、1945年に入ると、最低摂取カロリーの半分も摂ることが出来ませんでした。配給のお粥は、箸を立てると倒れるほどに貧弱なものとなり、食卓の主食は、家族当たり1本のサツマイモでした。子供たちは、野山でトンボを追いまわしました。何のため? もちろん食うためです。

しかし、軍部のお偉いさんは、このような情勢を全く問題にしていませんでした。厚生省のお偉いさんは、「ドングリの粉を食う方法を開発中ですから、民生は問題ありません」と、アホウなことを閣議で述べていました。軍部のみならず、厚生省もバカだったんですねえ。

この情勢を最も憂慮したのは、実は昭和天皇でした。

2.日本の病んだ政治構造

実は、終戦工作については、正確な記述が難しいのです。なぜかと言えば、証拠資料が乏しいから、多くの部分を推測で補わなければならないからです。

どうして資料が乏しいのか?

終戦は、「天皇&政治家グループ」が、陸軍を中心とした「軍部」と対決し、これを圧伏する事で実現したのです。しかし、後者は正常な理性を喪失して暴走していましたから、もしも前者が終戦工作を進めていることを知ったら、ただちにクーデターを起こすことが明白な情勢でした。ですから、終戦工作は、最後のギリギリの段階になるまで「密談」と「腹芸」で進められたのです。そのため、日本史上のハイライトであるにもかかわらず、正確な経過が良くわからないのです。

ですから、これから進める叙述には、私見が入っている事を了承してくださいね。 まず、天皇の立場について説明しなければなりません。

「明治憲法」などでは、天皇の地位を次のように規定していました。

①立憲君主国の政治機関

天皇は、内閣と議会の決議を「承認する」政治機関である。国事に関する命令や意思決定を行うことはできない。

②全日本軍の最高司令官(大元帥)

天皇は、全日本軍の最高司令官である。軍隊は、内閣や議会ではなく、天皇そのものに直属する。

③国家神道の大祭主

天皇は、神道の大祭主として、絶大な「宗教的権威」を持つ。

つまり、天皇は、まったく異なる3つの顔を持っていたのです。

ここで、①と②を見比べてください。なんじゃこりゃ!と思った人は、正常な感覚の持ち主です。①と②は、相互に矛盾する内容になっているのです。

軍隊の最高司令官は、組織のトップである以上、当然のように軍に命令権を持っていなければなりません。しかし、天皇が臣下に命令を下す権限は、憲法で「完全に否定されていた」のです。つまり、天皇は命令権を持たない司令官だったのです。

ある役職の人が、それに応じた権限を持ち責任を負う事は、組織の常識と言っても良いでしょう。当時の日本では、こうした道理が無視されていたのです。

どうして、こんな変てこな事になったのか?これは、日本人の国民性に迫る重要な問題です。明治の日本は、西欧諸国にキャッチアップするべく、西欧の制度を学び、取り入れました。しかし、その方法に大きな欠陥があったのです。欧州諸国の諸制度を、その前提条件や本質を吟味することなく、無批判にゴチャゴチャと取り入れたのです。

①の規定は、イギリスの制度のパクリです。そして、②の規定は、プロイセンの制度のパクリです。両者はその置かれた背景も前提も大きく異なる制度です。しかし、明治の元勲は、何も考えずにその両方を、一緒くたに日本に導入したのでした。

本質を見極めずに他人の真似をすることは、「学習」とは言いません。「猿真似」と言うのです。

現代でも、これと似たような問題が起きていますね。例えば会計制度。

ドイツの商法とアメリカの証券取引法を、本質を吟味する事無く取り入れて、何も考えずにくっつけているでしょう?この両者は、置かれた条件も前提も、まったく異なる制度です。しかも、日本の風土にも合わないのです。この矛盾とギャップを解消するのは、本来は会計学者の役割でした。しかし、過去の学者が怠慢だったために、うまく行かなかったのです。そこで、大蔵省とかの偉いお役人が知恵を絞って「通達」を乱発し、なんとか実務で使えるようにしているのです。しかし、偉い役人というのは、視野が狭くて想像力が無いでしょう?目先の事にこだわって、本質を外す通達ばかり造るのです。だから、日本の会計制度は、やたらと規定が多くて分かりにくい割には、全体として結局何がやりたいのか見えないという、変てこなものになっているのです。この異常な状況を何とかするのが、これからの学者や会計士の責務なのです!(・・・なんか、偉そうにね)。

戦前の天皇に関する規定も、実はこれと同じことになっていたのです。

日本人は、外国の文化を取り入れるのが上手だと言われます。私は、そうは思いません。日本人は、学ぶのではなく真似るだけだからです。どうして本質を見ようとしないのか?軽佻浮薄なアホウな国民ですよ。自然科学の世界がうまくいっているのは、この世界では本質や前提が国家や民族ごとに異なることがないので、結果的に「猿真似=学習」になっているからだと思います。社会科学の世界がうまくいかないのは、外人の猿真似しかできないからです。もう少し、ちゃんと学習する方法を工夫すべきでしょうね。(・・・なんか、偉そうだな)。

ともあれ、矛盾に満ちた天皇の立場だったわけですが、基本的には①の立場が最も重視されました。どうしてかというと、明治の元勲にとっては、天皇が意思を持たないお人形さんであった方が、仕事がやりやすくて都合が良いからです。山県有朋などは、仲間内の席で、「あの小僧(明治天皇)は、俺達のお陰で天皇になれたんだぜ!」などと公言していたそうです。国民には、「現人神」として崇拝することを強要していたくせに、要人たちは天皇をバカにしていたのです。この伝統が、昭和の悲劇に直結するのです。

大正天皇と昭和天皇は、ともに①の線に沿って帝王教育を受けました。大正天皇は、病弱で知られていますが、実はたいへんに聡明な人だったようです。歴史的に影が薄いのは、①の立場を良く守って大人しくしていたからなのです。そして、昭和天皇もこの路線を継承していました。

さて、政党政治が崩壊して軍部の暴走が始まりました。暴走を許した原因はいくつもありますが、天皇に関する矛盾した規定が、その一つであった事は、疑う余地がありません。

矛盾する欠陥規定は、隙だらけのザル法となるので、必ず特定の誰かに悪用されます。そして、最も有利な地位を占めたのが軍部だったのです。すなわち、軍部の要人は、己の省益拡大のための暴走を「天皇陛下のため」として正当化できたのです。もしも天皇に命令権があれば、「朕の名を騙るのはやめろ!」と言えるでしょう?実際にはそんな事言えなかったのです。天皇は、あくまでも内閣の意思決定を承認する形でしか、その意思を表明できなかったのです。そして、内閣は軍に対する「命令権を持たなかった」のです(②の規定を参照)。こうして、軍部はやりたい放題の野放し状態になったのです。

そういう意味では、昭和の最大の戦犯は、アホウな規定を造った明治の元勲だったと言えないこともありません。

天皇と政治家たちは、日中戦争にも太平洋戦争にも反対でした。別に、人道とか平和愛好とかじゃありません。彼らは、日本が、中国やアメリカと戦っても勝ち目が無いことを良く知っていたのです。これも、特筆するような事じゃありません。正常な見識がある人なら、誰にとっても自明のことだったからです。そんな常識が分からなかったのは、アホウな軍部の役人くらいのものでした。

天皇と政治家たちは、必死に軍部を止めようとしました。強力な内閣を造って、政治的に彼らを封印しようと図ったのです。さしもの軍部も、宣戦布告といった事柄については、政府の意思決定に従属するのです。ですから、強力な内閣さえ樹立できれば、少なくともアメリカとの戦争は避けられるはずでした。

ところが、欠陥憲法(及び法解釈)が足を引っ張ったのです。当時の内閣は、国務大臣が辞任を表明し、省庁が後任を出すことを拒否した場合、「閣論不統一」として解散しなければなりませんでした。問題は国務大臣です。陸海軍の国務大臣は、なんと現役のキャリアから選ばれることになっていました(現役武官内閣制)!つまり軍部は、内閣が自分達に都合の悪い意思決定をした場合、陸海軍の大臣に辞表を出させる事で、内閣の決議をご破産にできたのです。

これでは、どうしようもありません。

天皇と内大臣木戸幸一に残された最後の手段は、陸軍のキャリアを丸め込んで、これを総理大臣にすることで軍部を抑えることでした。こうして誕生したのが、東条英機内閣です。しかし、東条は軍部を抑えることができませんでした。

こうして、絶対に勝ち目のない悲惨な戦争がはじまったのです。

昭和天皇は、開戦の御前会議の席で、明治天皇の平和を希求する歌を詠みました。これは、せめてもの心理的抵抗だったのでしょう。

そして、いまや本土決戦の時が迫りました。

軍部は、最後まで戦う姿勢を崩しません。

この危機を回避するためには、前人未到の政治的詐術が必要でした。

天皇と木戸が目を付けたのは、侍従武官だった鈴木貫太郎でした。

鈴木貫太郎は、最後の切り札として登場したのです!

3.鈴木貫太郎の登場

昭和天皇が、いつごろから和平を考え始めたのか?実ははっきりした事は分かりません。

この方は、戦争が有利に進んでいるうちはそれなりにご満悦だったようです。負け始めてから、いろいろと心配するようになりました。「現人神」は、意外と人間的だったのです。

ただし、天皇は軍部を通してしか情報を入手することが出来ませんでした。そして軍部は、天皇に過大な戦果報告をしつづけて、その判断を歪めていたのです。天皇が、軍部を嘘つきだと悟ったのは、東京が激しい空襲にさらされるようになってからです。天皇は、密かに侍従官を各地に派遣したり、親任する政治家たちと頻繁に歓談し、独自のルートで情報収集を始めるのでした。

さて、1945年4月、政局に重大な転機が訪れました。小磯内閣の倒壊です。この人は、失言やトンチンカンな判断が多すぎて、この頃は重大な会議にも呼ばれないようになっていました。なんのための総理大臣だったんだ?彼の最大の失点は、いわゆる「重慶工作」です。蒋介石が送り込んだスパイを和平の使者だと勘違いして、国家機密を勝手にベラベラ喋りまくったのです。これには、天皇や政治家のみならず、軍部の役人たちも怒りました。こうして小磯国昭は失脚するのでした。そもそも、国家の重大事にこんな人を首相にすることが間違ってます。まあ、現代の日本も同じようなものですがね。

で、次の総理を誰にするか、要人たちの間で話し合いがもたれました。ちなみに、当時の総理大臣はどのように決まっていたかというと、元総理が中心となる政治家サロンで、談合して決めていたのです。要するに、現代と同じだったのです。

・・・あれ?日本って、民主主義国家に生まれ変わったはずなのでは?なんか変だなあ。タイムスリップしたような気分!

さてさて、「本土決戦」を志向する陸軍は、陸軍のキャリアを首相にしたがっていました。まあ、これは当然といえば当然です。陸軍を代弁する東条英機は、熱心にこれを主張しました。しかし、岡田啓介や近衛文麿らが猛反対して、たまたま(?)その場に呼ばれていた枢密院議長の鈴木貫太郎を推薦したのです。

驚いたのは鈴木です。彼は海軍出身なのですが、「日露戦争」に従軍して以来、第一線の軍務から足を洗っていたので、 最近の軍事には疎かったのです。しかも、年齢は79歳(!)。どう考えても、本土決戦の指揮官は勤まりません。しかも鈴木は、次のようなポリシーを持っていました。

「軍務経験者は、政治家になってはいけない。省益に目がくらんで、国事を忘れてしまうからだ」

まさにそのとおりです。昭和の悲劇は、こうした見識を無くした役人が引き起こしたのです。軍部のヘッドたちが、鈴木のような見識を半分でも持っていたら、あんなに多くの人々が苦しまずに済んだのです。

ともあれ、鈴木は固辞しつづけました。

昼食になったとき、鈴木は天皇から参内を命じられました。意外な思いを抱きながら、鈴木は天皇の前でなおも固辞しようとしました。ところが、天皇はこういったのです。

「鈴木がそう申すであろうことは分かっていた。しかし、この危急の時に際して、もう他に人はいないのだ。どうか承知してもらいたい。頼む」

鈴木はもとより、周囲の侍従たちは大いに驚きました。天皇が臣下に対して「頼む」といったのは、恐らく日本開闢以来の出来事だったのです。

鈴木は、もはや承諾せざるを得ませんでした。そして、どうして自分がそこまで信任されたのか、真剣に考えざるを得ませんでした。 本土決戦をやるのなら、他にいくらでも軍人キャリアはいるのです。軍務に疎い老齢の鈴木が推されたという事は、天皇と政治家たちの真意が「和平」にあることは明白でした。

鈴木が何よりも苦慮したのは、閣内の人材です。もっとも重要なのは、外務大臣と陸軍大臣でした。外務大臣は、和平交渉に欠かせない要職です。陸軍大臣は、和平成立の暁に、軍部のクーデターを押さえ込めるような実力者が必須でした。そして、鈴木は、二人の人物に白羽の矢を立てたのです。すなわち、東郷茂徳と阿南惟畿です。

東郷は、開戦時の外務大臣で、終始、開戦に反対しつづけ、開戦後も節を曲げなかった硬骨漢です。このころは要職を干されて、軽井沢あたりでフテ寝していました。鈴木は自ら出向いて、熱心に協力を要請したのです。東郷は、鈴木の口から「和平」という言葉が出ることを期待していたのですが、鈴木は周囲の耳を気にして切り出せませんでした。そのため、このときは物別れに終わったのです。 しかし、鈴木は諦めませんでした。その後も、あの手この手で東郷を口説いて、ようやく首を縦に振らせたのです。「三顧の礼」の世界ですな。

さて、問題は陸軍です。軍部は、鈴木が和平をやるつもりではないかと疑っていました。まあ、そりゃあそうでしょう。そう考えるのが当然です。彼らは、当初、陸軍大臣を出すのを止めようかと思ったのです。しかし、陸軍省を訪れた鈴木に継戦を要求したところ、鈴木が二つ返事で「いいですよ」と応えたので、妥協する気になったのでした。鈴木は、軍部の景気の良いスローガンにいちいち頷いて、「わしは老人で耳が遠いのじゃ」などと、ボケ老人ぶりを発揮しました。そこで油断した軍部は、望まれたように阿南を内閣に出すことを決めたのです。鈴木の演技力は、なかなか大したものだったようですね。

阿南惟畿は、いわば陸軍の切り札でした。高い見識と明晰な頭脳、そして何よりも部下思いの人格者だったので、若手将校の間で絶大な人気を誇っていたのです。しかし、これまではあまり重用されていませんでした。どうして?受験の成績が良くなかったからです。彼は、陸軍大学に入るまで4浪もしちゃったのでした。そんなこと、実社会に出てしまえば関係ないのですが、当時の(今の)役所では、そういうくだらない事にこだわるのです。

ともあれ、阿南陸相が誕生しました。阿南は鈴木と一緒に仕事をした時期もあり、互いに気心がしれていました。鈴木には、阿南を味方に取り込む成算があったのです。

さて、こうして鈴木内閣は走り出しました。鈴木は、口では本土決戦を呼号し、タカ派の印象を振りまいていました。しかし、裏では東郷と手を結んで、和平の糸口を必死に模索したのです。

まずは4月、ルーズヴェルト大統領の訃報に接して、次のような声明を出しました。

「ルーズヴェルト氏の指導が成功をおさめ、今日のアメリカの優位をもたらしたことを、私は素直に認めます。彼の死がアメリカ国民にとって意味する大きな損失を考えて、私は深い哀悼の意を表明します・・・」

アメリカの要人たちは大いに驚きました。彼らは、日本軍の狂信的な戦い振りを目の当たりにして、理性的な話し合いの可能性を諦めていたのです。 しかし、鈴木の声明は、彼らの考えを変えました。

「日本人は、立派だ。こんな状況になっても武士道を守るのだな」

後任のトルーマン大統領は、こうして、交渉による和平を志向するようになったのです。

実は、トルーマン政権は、前大統領の出した「無条件降伏」要求を、理不尽なものだと考えていました。なんとかして修正できないか、知恵を絞っていたのです。国際的信用にかかわる問題なので、撤回は出来ません。そこで、学者を集めて、条文の拡大解釈を行なわせたのです。すなわち、「無条件降伏」を、「連合国が出した要求を無条件に受け入れる降伏」という意味に摩り替えたのです。

つまり、実質的に「条件付降伏」にしちゃったのでした。

既述のとおり、ルーズヴェルトの出した「無条件降伏」は、戦争をいたずらに長引かせる残虐非道なものでした。アメリカの国益のために、世界を苦痛のどん底に突き落とすものでした。ヒトラーがいみじくも叫んだように、ルーズヴェルトこそ「戦争犯罪人」といって差し支えないと思うのです。そして、この非道な政策によって日独が弱体化したため、ソ連の勢力が急浮上して、アメリカの国益を脅かしかねない状況になってしまったのです。

トルーマン政権は、この事態を大きく憂慮して、なんとかして第二次大戦を早期終結させたいと考えたのでした。 これが、「ポツダム宣言」として結実します。

 

4.外交の問題

今回は、現代でも大きな問題となっている日本の「外交」に迫ってみようと考えています。

さて、戦争末期の日本では、和平派と主戦派が水面下で激しく暗闘していました。

しかし、この両者はある1点で一致していました。それは、連合軍の「無条件降伏」要求が撤回されなければ、最後まで戦う、という点です。 つまり、和平派の目的は、日本を無条件降伏させることでは無くて、様々な外交的手段を用いて、連合軍の無条件降伏要求を撤回させることにあったのでした。

しかし、陸軍はそういう動きも許さなかったのです。現に、元駐英大使の吉田茂は、「和平を企んだ」という理由で逮捕され、豚箱で生活している有様でした。

鈴木と東郷は、和平をやるという点で早くから意見を一致させていたのですが、陸軍の動きが恐ろしくて、なかなか具体的な行動を起こせなかったのです。

ところが、転機が訪れました。5月7日、ドイツが降伏し、欧州戦線のソ連軍が、満州方面に大挙して移動中との情報が入ったのです。明らかに対日参戦を企んでいるとしか思えません。陸軍は大いに恐れ、河辺虎四郎(参謀本部次長)を東郷のところに派遣して、ソ連の対日参戦を阻止するように依頼したのです。

天皇と鈴木は、これを転機と考えました。参戦阻止交渉を名目にして、ソ連に連合国との講和仲介を依頼できると考えたからです。

東郷は、実はこのアイデアに懐疑的でした。なぜなら、日本とソ連は中立条約を結んでいるといっても、その間柄は険悪だったからです。

「外交」で最も大切なのは、ディベートの能力ではありません。日ごろの信用なのです。そして、日本という国家の信用は、どん底にまで落ち込んでいました。 なぜって?過去10年、周辺諸国に理不尽な喧嘩を売りまくっていたからです。宣戦布告もしないで中国奥地まで攻め込み、宣戦布告前の卑怯な奇襲でハワイを襲ったからです。そんな国を信用しろというのは、虫が良すぎるというものです。特にソ連は、張鼓峰事件やノモンハン事件で日本と直接刃を交えていたし、独ソ戦の勃発時には、もう少しで関東軍にシベリアに攻め込まれるところでした(北進論)。スターリンは、日本を憎んでいたのです。

しかし、天皇も鈴木も、このような事情を全く気にしていませんでした。「真心を見せれば分かってもらえる」と、単純に考えていたのです。海軍大臣の米内光政などは、「ソ連と話に行くなら、ついでに石油を貰って来てよ」と東郷に依頼する無邪気さでした。

東郷は、大いに呆れました。外交というのは、国と国とのビジネスなのです。頼みごとをするのなら、それ相応の報酬を支払わなければなりません。「誠意を見せた」って、駄目なものは駄目なのです。もちろん、日本に国際的な信用があるのなら、「ツケにしといて!」という具合に信用取引も可能でしょう。しかし、信用ゼロの現状では、トランク一杯の現ナマをチラつかせる覚悟が必要なのです。 そこで東郷は、次のような取引を考えました。

「ソ連が和平の仲介をしてくれるなら、南樺太と千島列島とそれにまつわる漁業権、そして満州と内蒙古の利権を全面的に割譲してあげますよ」。

これは、実はたいへんな慧眼でした。この提案が実現していれば、ソ連の参戦はなかったし、戦争自体も早期に決着し、広島と長崎の悲劇もなかったでしょう。 しかし、この提案がなされた極秘会議で、参加者ほぼ全員が反対したのです。「まだ負けたわけじゃないのに、なんで、そこまでしなけりゃならんのだ?」という論調が一般的だったのです。負けてないからこそ、可能な取引もあるのですが、東郷以外の人々は、そういう事に気付かなかったのです。

このような外交センスの無さは、現代に通じる大きな問題だと思います。大多数の日本の為政者には、「外交はビジネスだ」という常識的な感覚が欠如しているように思えるのです。「外交は、みんなが仲良く話し合って親睦を深める場所だ」と、勘違いしているように見えるのです。

小渕総理没後にやった沖縄サミットなんか好例ですよね。5億ものカネを出して立派な施設を造り、やったことといえば、世界の要人に安室ちゃんの歌を聞かせただけでした。

北方諸島が帰ってこないのも、同じ事です。対価を提示しない話し合いでは、ビジネスにならないのです。

「心を篭めて話せば通じ合える」というのは、単なる甘えです。国際政治というのは、生き馬の目を抜くような残酷な世界なのですが、日本人は、そんなことも分からず、ただ甘えているのです。

ODAの問題だってそうですよ。ODAの対象国は、日本に感謝して尊敬してくれるかって?違いますよ。財布だと思ってバカにしてるんですよ。対価を要求しないでおカネをばら撒いてる国なんて、変です。カツアゲされている小学生と同じ事なのですが、日本人のお偉いさんは、それに気付いていないのです。私は、ODA関係の人と面識があるので、その辺のドロドロした実態を知っているのです。

昭和天皇も、実は全然そういうことが分かっていませんでした(不敬罪?)。

起死回生の方策を否認された東郷は、まずは草の根の努力で、日本の信用を高めることから始めたのですが、そんな悠長なことをしている余裕はもう無いのです。

7月、焦った天皇は、スターリンに親書を書いて、それを重臣筆頭の近衛文麿にモスクワまで届けさせようと考えたのです。やっぱり、「誠意を見せて分かってもらおう」と考えたわけです。近衛は、もう少し大人でしたから、そんなことをしても無駄だと知っていました。けれど天皇に口説き落とされて、モスクワ行きの準備を始めたのです。

しかし、ソ連の対日宣戦は、もはや秒読みの段階に入っていました。

事は、2月に遡ります。「ヤルタ会談」です。戦後社会の方針を決めるこの重大会議で、ルーズヴェルトは、スターリンに対日参戦を懇請したのです。スターリンは、大いに喜びました。ソ連は極東に野心を持っていたのですが、「日ソ中立条約」の存在が、その野心に歯止めを掛けていたのです。そして、ルーズヴェルトがそれを取っ払ってくれたのです。 スターリンは、ルーズヴェルトに要求しました。南樺太、千島列島、満州、内蒙古・・・。驚くべきことに、ルーズヴェルトは、その全てに承認を与えたのです!

だいたい、満州と内蒙古って、もともと中国のものでしょう?なんでルーズヴェルトが意思決定できるんだ? この時期のルーズヴェルトは、心身ともに疲れきり、半病人の状態だったようです。「日本を滅ぼす」という目的のためなら、何でも良いと考えて、大局的な洞察力を失ってしまったのではないでしょうか。 この政策が、あれほどアメリカが欲した「中国市場」を、共産圏に追いやる布石となるのでした。世界市場席捲を目論んだアメリカの野望は、中国の凍土で粉砕されることになるのです!

それにしても、ヤルタでスターリンが出した領土要求が、東郷が取引材料として想定した内容とほとんど一致するのは驚くべきことです。だからもしも東郷の提案が実現していれば、スターリンは軍事力の行使を思いとどまった可能性が高いのです。 外交音痴の日本の為政者たちは、広島と長崎、そして満州や樺太、千島列島の人々の運命を、地獄に突き落とす意思決定をしてしまったのでした。

これは、現代に通じる重要な教訓だと思います。

 

5.ポツダム宣言

さて、東郷の奔走は、空振りが多かったように見えて、実はそうでもなかったのです。

アメリカは、日本の外務通信を全て傍受して解読していましたから、日本がソ連を使って交渉したがっていることを知りました。そこで、トルーマンは、ますます外交によって日本を屈服させる自信を強めたのです。

彼は、知日家といわれる人々を集めて意見を聞きました。日本が絶対に譲れない一線とは何か?グルー元駐日大使は、「天皇制の維持」だと明言しました。ボルネオの戦場からは、マッカーサー大将(この人は、戦前に日本に住んでいた時期がある)も同じ事を言ってきました。 しかし、大多数のアメリカの要人は、日本人の天皇に対する想いというのが理解できませんでした。天皇は、何しろ軍隊の最高司令官なのです。これを許すなんて、とても容認できることではありません。

そこで、知日家の人々は、次のようなレトリックを用いて彼らを説得しました。 「天皇制を保護すれば、日本人も満足するから、占領政策が円滑に進むだろう。アメリカだって得をするんだよ・・・」

アメリカは、既に戦後のソ連との対決を覚悟していました。トルーマンは、前大統領の政策を全面転換するために、閣僚の首をほとんど挿げ替えました。そして、前大統領の愚策であった「ヤルタの密約」を中国に教え、蒋介石にスターリンを牽制させました。この臨機の処置によって、満州と内蒙古は中国領として確保されたのです。スターリンは、その引き換えにモンゴルの独立を勝ち取り、中国から引き離すことに成功したのです。既に、冷戦の暗闘は幕を開けていたのでした。

トルーマンは、おそらくソ連の対日参戦を望んでいなかったでしょう。しかし、そればかりは、ルーズヴェルトがスターリンに言質を与えてしまったために撤回できませんでした。アメリカは、ソ連よりも先に日本を確保し、ソ連と対決するための基地にする必要に迫られたのです。 こうしてアメリカは、日本に対して妥協する決意をしたのです。

「条件付降伏」を要求し、日本側が「天皇制の保全」を求めてきたら、それを受け入れようと考えたのでした。

1945年7月下旬、連合国の首脳はベルリン郊外のポツダムに参集を始めました。ここで、日本に対する最後の降伏勧告が行なわれたのです。いわゆる、「ポツダム宣言」です。

「ポツダム宣言」でなされた日本に対する要求は、次のようなものでした。 ①軍国主義勢力の永久除去。 ②そのための手段としての、日本各地の占領。 ③日本の領土は、本州、北海道、九州、四国および連合国の決定する諸小島とする。 ④日本軍の完全な武装解除。 ⑤戦争犯罪人の処罰。民主主義の強化。言論、宗教、思想の自由。基本的人権の確立。 ⑥経済を維持する程度の産業は認めるが、再軍備のための産業は認めない。 ⑦以上の目的が達成され、日本国民の自由に表明せる意思に従い、平和的傾向を有し、かつ責任ある政府が樹立されたら、占領軍は撤退する。

そして、宣言の末尾には、次のことが書かれていました。

「以上の要求をのみ、全軍隊の無条件降伏を行なわなければ、日本国は迅速かつ完全に破壊されるであろう」

最後の文句はハッタリではありませんでした。アメリカは、宣言が拒否された直後に原爆を投下する手はずだったのです。

この宣言が日本に伝わったのは、7月27日のことでした。 東郷は、この宣言文を読んで、アメリカの真意を見抜きました。

「これは、無条件降伏の要求ではありません!従来のカイロ宣言などでは『日本国の無条件降伏』とあった文言が、『日本軍の無条件降伏』に変わっているからです!敵は、交渉の余地を与えてくれたのです」

天皇と鈴木は、この報告を聞いて大いに喜びました。しかし、彼らが気にしたのは、ポツダム宣言を発表した国々の中に、ソ連の名前が見当たらなかった事です。彼らは、都合よく解釈しました。すなわち、ソ連は密かに仲介作業を推進中なのではないか?だったら、しばらく静観してその結果を見ようじゃないか。

東郷は半信半疑だったのですが、「それならば、何も公表せずにいるべきです」と言いました。

ところが、そうはいかなくなったのです。軍部が、政府の動向を怪しみ出したからです。鈴木は、何か談話を発表しなければなりません。しかし、迂闊なことは言えないのです。宣言を受け入れるような事を言えば、クーデターが起こるでしょう。かといって、拒否する事は絶対にできないのです。そこで鈴木は、こう発表しました。

「黙殺する・・・」

これは、IGNOREと翻訳されてワシントンに伝わりました。アメリカの要人たちは、宣言が「拒否」されたと捉えてしまったのです!

こうして、広島は一瞬にして灰になりました。8月6日、テニアン島から発進したB29『エノラ・ゲイ』は、世界最初の核爆弾を、平和な広島の街に投下したのです。約20万人の、普通の市民が犠牲になりました。 これは、英米軍が戦争当初から推進してきた戦略爆撃戦略の、究極の完成形態だったのです。戦争は、ついにこのような段階に突入してしまったのでした。

東郷から報告を受けて、天皇は蒼白になりました。

「有利な条件を模索していては手遅れになる。一刻も早く和平を!」

しかし、鈴木はなおもソ連に希望を繋いでいたのです。しかし、ソ連からの解答は非情なものでした。

「世界平和のために、軍国主義日本に宣戦布告する!」

8月9日、この宣戦布告が東京に届く頃、すでに満州はソ連軍の戦車に埋め尽くされていました。かつて精強を誇った関東軍は、南方や本土に主戦力を引き抜かれて弱体化していたのです。満州で生活する人々は、そのような事態をまったく知らないで平和に暮らしていました。またもや軍が民間人を裏切ったのです!

関東軍は壊滅し、数え切れない人々が戦火に呑まれて行きました。

知らせを受けて呆然とする鈴木の耳に、さらなる悲報が届きました。 長崎に原爆が投下された・・・。

しかし、鈴木は、壊れそうな心を、意志の力で必死に持ちこたえたのでした。 「わしが、全ての始末を付けるのだ・・・」

いよいよ、戦争終結に向けて、最後の戦いが始まろうとしていました。