歴史ぱびりよん

5.運命の8月

(1)黄海海戦
(2)遼陽の戦い

 

(1) 黄海海戦

さて、話を戦場に戻しましょう。

開戦当初は消極的だった旅順艦隊は、4月に入ると、士気を高揚させるためにしばしば港外で日本艦隊と砲戦を行うようになっていました。新任のマカロフ提督が有能だったためです。しかし、マカロフが座乗していた戦艦ペトロパヴロフスクが機雷に触れて轟沈し、提督が戦死するという椿事が出来したために、かえって士気が下がってしまいました(4月13日)。何という不運。後任のウイトゲフト提督はやる気をなくし、こうして旅順艦隊は、再び港内に閉じこもったままとなります。

やがて8月に入ると、旅順を包囲した乃木第3軍による砲撃によって、山越しに飛び込んで来る砲弾の雨に焦った旅順艦隊は、この危険な港を脱出してウラジオストックに向かおうと考えました。しかし、久しぶりに出撃したこの大艦隊は、たちまち日本海軍の警戒網に引っかかり、おっとり刀で駆けつけた東郷平八郎提督の第1艦隊と砲撃戦になりました。

これが、「黄海海戦」です(8月10日)。

東郷提督は、しかし旅順艦隊の意図を正しく把握していませんでした。敵が、決戦を挑みに来たものと勘違いしたのです。そのため、旅順艦隊が、隙を見て日本艦隊との砲撃戦を避けて北方に全速力で逃げ出すと、後方に置き去りにされてしまったのです。

それでも、慌てて追いかける日本艦隊に、幸運の女神が微笑みました。遥か後方から放った遠距離射撃がラッキーパンチとなり、敵の先頭を進む旗艦チェザレビッチの艦橋を破壊し、ウイトゲフト提督ほか司令部要員を全滅させたのです。この結果、チェザレビッチの進路は乱れ、その後ろを進む諸艦艇も大混乱に陥りました。こうして追いついた日本艦隊は、混乱状態の敵を各個撃破することに成功。生き残ったわずかなロシア艦艇は旅順港内に引き返し、残りの多くが降伏するか撃沈されました。

日本軍の幸運は、それだけに留まりません。旅順艦隊の危難を知ったウラジオストック艦隊が、救援のために黄海に駆けつけたのです。それを待ち伏せしていたのは、上村提督の日本第2艦隊。彼は、ついに雪辱を晴らすことに成功しました。必死に逃げるウラジオ艦隊に懸命に追いすがった上村艦隊は、この仇敵をついに壊滅させることに成功したのです。これが「蔚山沖海戦」(8月14日)です。こうして、日本のシーレーンの安全は、ようやく確保されたのでした。

さて、「黄海海戦」の結果、ボロボロになった旅順艦隊の生き残りは、満足な修理も受けられずに旅順港内に居すくまり、戦力としては完全に無力化しました。しかし、ロシア政府が「健在」をアピールしたために、実態を知らない東郷艦隊は、相変わらず港外での警戒態勢を余儀なくされ、日本第3軍は要塞の早期攻略を余儀なくされたのでした。

ロシア軍は、見事な情報戦略で日本の大兵力を南方に釘付けにすることに成功したのです。

その間、満州では大決戦が戦われていました。

 

(2) 遼陽の戦い

それまで退却を続けていたロシア満州軍は、遼東半島の重要都市である遼陽でその動きを止めました。アレクセイ・クロパトキン大将は、この街を要塞化して日本軍を迎え撃とうとしたのです。

そのころロシア本国では、クロパトキンが無為無策のままに退却を続けることを批判する動きがありました。ロシア満州軍司令部には、そういうプレッシャーもあったのです。

さて、3つのルートから進撃して来た日本軍は、遼陽の手前で合流に成功しました。そのまま、遼陽を三方から包囲して締め付けます。

日本満州軍の総司令官は、大山巌元帥でした。この人は、本当は小心で数字に細かい人物だったようですが、部下たちの前では豪放磊落で鷹揚とした人物を装っていました。決戦の最中に、「どこぞで大砲の音がしとるが、戦争でもやっているのかの?」と児玉参謀長に冗談を飛ばしたという逸話が残っています。これは、同郷の大先輩である西郷隆盛の統率術を見習ったのでしょうか?でも、彼は冗談を飛ばしながらも、頭脳の中では激しく正確な計算をし続けていました。日本人は、意外とこういう大将の下で働くほうが実力を出せそうな気がします。

参謀長の児玉源太郎は、台湾総督も勤めた政府要人で、本来なら次期首相候補でした。それが、軍隊の中で数階級も降格となって大山の軍師になった理由は、彼の知略なくしてはロシアに勝てないと思われたからです。

このように、当時の日本軍は、官僚的な年功人事を打破して、「勝利」を得るために尽力するスタンスを取っていました。もちろん、薩摩と長州の縄張りとか、そういう制約はあったわけですが、その枠内では割合とフレキシブルな人事を行える組織だったのです。ただ、乃木将軍が、長州閥の年功人事で第3軍司令官になったことは、彼が未だに悪く言われる所以の一つですね。

大山元帥の下には、第1軍の黒木大将、第2軍の奥大将、第4軍の野津大将ら、叩き上げのベテランが揃っていました。指揮下の将兵たちも、国家の「危急存亡」を自覚して、その戦意は極めて高揚していました。

これに対して、ロシア軍は今ひとつ気合が入らない。大将たちはもちろん、兵隊たちにとっても、何のために文字も言葉も通じない中国の一角で、日本人と殺しあわなければならないのか釈然としないものがありました。

こうして、遼陽の前面で一進一退の激しい攻防戦が展開されたのです(8月25日~)。日本軍13万に対するロシア軍は22万。

日本軍は、黒木将軍率いる第1軍が見事な活躍を見せて、険しい山岳地帯を突破して南方からロシア軍の背後に回りかけたのです。この情勢を恐れたクロパトキンは、直ちに全軍に退却命令を出しました。

彼は、もともと遼陽で最終決戦を挑むつもりはありませんでした。ロシア本国に「やる気」を見せるとともに、援軍到着までの時間稼ぎがしたかったのです。

こうして、遼陽の戦いは、あっけなく決着しました。日本軍の死傷者は2万3千名、ロシア軍の死傷者は2万。ロシアは粛然と北方に引き、そして疲れきった日本軍は有効な追撃を行えませんでした。

この戦いでの日本軍の狙いは「遼陽でロシア満州軍を包囲殲滅する」というものでした。国力の低い日本としては、十分な余力が残っているうちに、とにかく早めにこの戦争の決着をつけたかったのです。そして、その目論見は完全に失敗したのでした。

そういう意味では、早期に退却を決断して主力を温存したクロパトキンは、後世に言われるほど無能な将軍ではなかったのかもしれません。

日本満州軍は、早期決着を諦め、クロパトキンを追って再び満州北方に進撃を開始しました。