歴史ぱびりよん > 歴史論説集 > 日本史関係 通説や学説とは異なる切り口です。 > 概説 日露戦争 > 6.難攻不落の旅順要塞
(1)無謀な突撃作戦
(2)203高地
(3)旅順の落城
(1) 無謀な突撃作戦
遼陽の戦いは、日本にとって最終決戦となるはずでした。そのため、満州軍はこの戦場に兵員と弾薬を無制限に投入したのです。しかし、ロシア軍に逃げられてしまったため、日本軍の武器弾薬は枯渇し、しかも大幅な兵員の損耗を抱えた状態になったのでした。
そんな情勢に苦悶する満州軍司令部は、旅順の第3軍を当てにしていました。旅順要塞を軽視していた幕僚たちは、第3軍が旅順にこれほど長期にわたって拘束され、しかも戦力にあれほどの損耗を出すとは予想していなかったのです。満州軍は、第3軍が北上してくれるまで、ロシア軍の前面で待機する方針を採るしかありませんでした。
しかし、旅順の戦いはこれからが本番でした。
第3軍の首脳部は、弾薬不足を理由に要塞攻撃をためらうばかりでしたが、海軍から何度も何度も催促されて、惰性のように攻撃を再開したのです(9月19日)。その結果は、無残なものでした。日本の兵士たちは、不十分な砲撃支援の後で銃剣を抱えて突撃し、そして機関銃弾の雨とぺトン(コンクリート)の壁の前に累卵のようになぎ倒されて行ったのでした。
旅順要塞は、確かに見事な要塞でしたから、弾薬不足の日本軍の苦戦は仕方ないと言えます。それにしても、第3軍首脳部の無為無策はひどかった。攻め方がとにかく単調で、いつも同じ場所を同じ様に攻撃するのだから、何度も何度も同じ失敗の繰り返しに終始したのです。士気の低い第3軍の司令部は、戦場から離れた安全なところに本営を置き、そして戦場を視察することすらしなかったようです。
この情勢を、海軍のみならず満州軍も憂慮しました。
海軍としては、ヨーロッパのロシア艦隊が来る前に旅順艦隊を全滅させたい。
満州軍としては、ロシア陸軍主力を殲滅するために第3軍の戦力が欲しい。
それだけではありません。ロシア政府は、「旅順無敵神話」をますます吹聴して外債市場を活性化させたため、資金繰りが日に日に良くなったのです。
そして、早期講和を狙う日本政府としては、ロシアの無敵要塞神話を粉砕しないことには、彼を交渉のテーブルに引き出すことが出来ない。
こうして、旅順の戦いは、日露戦争の正念場になったのでした。
(2)203高地
海軍軍令部は、乃木第3軍の鈍重さに激怒しました。彼らとしては、旅順艦隊をとにかく潰してもらいたい。海軍の立場からは、要塞なんか攻略できなくたって良いのです。そこで彼らは、第3軍に次のような提案をしました。
「旅順要塞を攻撃するのではなく、旅順北西に聳え立つ203高地を攻略してもらいたい。203高地は、旅順市街と旅順港を観測するに十分な高度を持っているから、そこから旅順艦隊の位置を把握できるだろう。そうなれば、要塞越しに砲撃をかけて艦隊を潰すことが出来る」。
しかし、第3軍は「いまさら、部隊の配置換えはしたくないし、旅順市自体を落とさなければ意味が無い」と言って渋りました。それでも、あんまり海軍がしつこいものだから、部隊の一部を203高地に向かわせることにしました。
こうして、第2次総攻撃(10月26日~)に際して、初めて203高地は戦場になったのです。ロシア軍は、うかつなことに、この高地の重要性に気づいていませんでした。そのため、日本軍の攻撃は成功し、203高地はその手中に入ったのです。しかし、兵力が中途半端だったために、あっというまにロシア軍の反撃によって奪還されてしまいました。そして、203高地の重要性に気づいたロシアは、この地を厳重に要塞化したのです。日本軍の中途半端な攻撃は、いわば「やぶ蛇」に終わったのでした。
そして、第2次総攻撃は主戦線でも失敗に終わり、要塞の前面は日本兵たちの屍で埋め尽くされました。この要塞の存在は、今や日本の戦局にとって致命傷になりつつあったのです。
しかし、実は旅順要塞もそれほど無傷では無かったのです。日本軍の数次にわたる命知らずの攻撃によって、いくつもの陣地は破壊されていたし、兵員の損耗と疲労も日増しに高まっていました。窮したロシア軍は、今や役立たずとなった旅順艦隊残党の砲台を取り外し、これを要塞に据えつけるほどに追い詰められていたのです。こうして、港内に浮かぶ旅順艦隊の残党は、単なるオブジェになりました。もしも日本海軍がその事実を知っていたなら、あれほど203高地にこだわることも無かったでしょうに。これこそ、歴史の皮肉ですね。
でも、旅順要塞の無敵神話を崩さないかぎり、ロシアが講和に応じることは有り得ません。また、第3軍をこの悲壮な任務から解放しないことには、満州軍がロシア軍を打倒することも出来ないのです。
大本営は、乃木を更迭することを考えました。しかし、明治天皇が反対したために、この方針は撤回されたのです。
こうして、満州軍から参謀長の児玉源太郎が派遣されました。
(3) 旅順の落城
第3軍司令部の無為無策ぶりを見た児玉参謀長は、自らが陣頭指揮を執ってこの苦境を切り抜けようとします。彼はまず203高地を確保しようと考えて、渋る第3軍司令部の尻を叩いて、砲台や兵員を大量にこの戦略要地に移動させました。
そして第3次総攻撃が開始されました(11月26日~)。203高地はついに日本軍の掌中に入り(11月30日)、その山頂に陣取った観測員が的確な指示を出した結果、降り注いだ日本軍の砲弾は旅順艦隊(すでに残骸同然だったが)を全滅させたのでした(12月4日)。これを見た児玉は、大急ぎで満州の戦線に帰ります。
第3軍は、引き続いて旅順要塞を攻撃しました。今回は、無謀な突撃を繰り返すのではなく、地下坑道を掘り進め、そこに爆薬をセットすることで、要塞施設を地下から覆滅させる作戦を取ったのでした。この作戦は大成功を収め、要塞の外郭陣地は次々に地下から吹き飛ばされて行きました。この過程で、ロシア側の名将コンドラチェンコ少将も戦死し、すでに艦隊を失った旅順市の戦意はゼロになったのです。
1905年1月1日、旅順要塞司令官ステッセルは、白旗を掲げました。乃木将軍は、彼を水師営に迎えます。
こうして、第3軍はついに旅順を攻略し、そしてロシアの無敵神話は崩れ去ったのです。それにしても、日本軍の戦死傷者は4万名。実に苦い勝利でした。
旅順の戦いについては、日本軍(とりわけ乃木将軍)の無能ぶりばかりが強調されます。しかしこの時代は、野戦築城の技術が大幅に向上したことに加えて、機関銃の発明などによって、拠点を防御する側の能力が格段に成長を遂げたことに留意すべきです。これに対して攻撃側は、まだ戦車も飛行機も無かったのだから、砲撃か銃剣突撃しか取りうる有効な手段が無かったのです。しかも乃木軍は、慢性的な砲弾不足に悩まされていました。
この戦争の10年後に始まった第一世界大戦では、ベルダンの戦いに代表されるように、要塞を攻撃した側が悲惨極まりない流血を重ね、結局、膠着状態を4年も続ける破目に陥ります。「戦争のプロ」を自認するドイツ人やフランス人でさえこの有り様だったのだから、歴史の浅い日本軍の苦戦は当然だったでしょう。
それでも、乃木軍は最終的には旅順を陥落させることに成功したのだから、むしろこの10年後のドイツ軍やフランス軍よりも優秀だったという評価を与えることも可能なのです。
ですから、乃木個人の「無能」をあまり誇大に取り上げるべきでは無いと思います。