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さて、バイキングは、常にビザンツ帝国や中東イスラム圏との交易を希求していたのですが、その交易ルートは、大きく西ルートと東ルートが有りました。
西ルートは、先述したように、大西洋から地中海に入る海路です。
東ルートは、それとは全く逆に、広大なロシアの大地を南北に縦貫する陸路のものでした。もちろん、主要な移動手段は河川と船舶を用います。ただし、南北を貫通する河は存在しないので、途中で何度か陸路に切り替えて、荷物を載せ替える必要があったでしょう。必然的に、あちこちに中継基地が出来ます。その基地が、現代の有名都市であるノヴゴロドやスモレンスクやキエフ(キーウ)の前身になったのです。
この交易ルートの存在については、考古学的に証明されていて、イスラム圏で用いられていたデュラハム通貨が、ロシアの河川沿いからスカンジナビア半島まで広範囲に出土しているのです。人類は、大昔から商売に貪欲だったのですね。
北欧バイキングは、木材や毛皮や蜂蜜を輸出し、その代わりにイスラム圏やビザンツから、武器などの金属製品や織物などを輸入していたようです。
ところで、ロシアの大地を南北に長く伸びる交易路の周囲には、スラブ系の人々が住んでいました。この人々は、森林地帯にすむ農民で、狩猟採集や焼き畑農業といった原始的な手段で生計を立てていたと考えられています。ただし、彼らが提供する穀物や毛皮、蜂蜜などは商品価値があったため、バイキングたちとの間に交易関係が成立しました。
いつしか、先進的なバイキングと、後進的なスラブの農民たちの間に主従関係が生まれます。これが、ロシア国家の母体になったのです。
ここで、話をスラブ民族に移しましょう。この民族の今日の居住地はかなり広範で、西はチェコ、南はブルガリア、東はロシアといった具合です。便宜上、チェコやポーランドなど中欧に住む人々を西スラブ人、ブルガリアやセルビアなどバルカン半島に住む人々を南スラブ人、ロシアやウクライナなどに住む人々を東スラブ人と分類します。しかし、彼らの容姿や言語などは非常に近似しているので、元々はかなり狭い範囲に集住していた民族だろうと思われます。おそらく、ロシア北部から中部の森林地帯に住んでいた人々が、気候不良や戦乱に追われて移動を繰り返しているうちに、現代のような形に広がったのでしょう。
その一方、今日のウクライナに当たる南部地域の大部分は、広漠としたステップの草原地帯なので、非スラブ系の遊牧騎馬民族の天下でした。紀元前に大暴れしたスキタイ人が有名ですが、彼らはペルシャやギリシャなどと交易する際に、しばしば「奴隷」を商品にしています。この奴隷は主にスラブ人だったので、これら騎馬民族は定期的に、北方森林地帯に対する人間狩りを行っていたのでしょう。英語で奴隷のことをslaveと言いますが、その語源がスラブだというのは悲しい話ですね。
スラブ人は、基本的に金髪の白人で、美しい容姿をした者が多い。だからこそ、奴隷として重宝されたのかもしれません。
そんな奴隷扱いだった彼らも、やがて農村ごとに纏まって、複数の政治勢力になって行きました。ただし、それを一つに束ねる者がいない。
仲間割れを繰り返して纏まりが悪いスラブ諸侯がリーダーに選んだのは、バイキングのリューリクという人物でした(830年頃生~879年頃没)。彼は、交易基地だったノヴゴロドの街を中心に国づくりを始めます。これが、ロシアの事始めです。
リューリクは、ノヴゴロド周辺からバルト海に至るまでの領土(いわゆるリヴォニア地方)を支配していたバイキングの指導者だと考えられています。スラブの農民集団からは、権威の高い貴種に見えたのでしょう。そういうわけで、ロシアの指導者は、基本的にこの人の子孫によって世襲されて行くのです。
ただし、この人物については、12世紀に成立した『原初年代記』という資料(ロシア最古の歴史書)にしか登場しないため、その実在自体が疑われることがあります。もしかすると、日本の神武天皇のような象徴的存在として捉えるべきかもしれません。