歴史ぱびりよん

ビザンツ帝国の影響

当初は、ロシア北部のノヴゴロド周辺を支配していたリューリク朝ですが、やがてその勢力を南へと伸ばします。

その征服先は、バイキングが築いた交易ルートに沿っていました。明らかに、交易の独占的支配が目的です。リューリクとその子孫は、同じくバイキング系と思われる勢力を次々に滅ぼして、ついに巨大な交易基地であったキエフを征服。ここに本拠を移すのです。これが、キエフ大公国(あるいはキエフ・ルーシ)の成立です(西暦882年)。

この国は、外部の勢力からは「ルーシ」と呼ばれていました。ルーシを人称代名詞にすると、ルーシア。このルーシアが転じた言葉が、ロシアですね。

ルーシはもともとギリシャ語で、ギリシャ語を公用語とするビザンツ帝国(当時は、東欧と中東の大部分を支配していた)が最初にそう呼び始めたようです。その語源については、ビザンツ皇帝がここをバイキングのルーシ部族が支配している国だと認識したから。あるいは、ルーシという地名がキエフ周辺にあったから。など、様々な説があります。

ここで重要なのは、ビザンツ帝国が、あだ名のつもりで呼び始めた名前が、正式な国名として定着したことです。この当時のビザンツ帝国の権威の高さ、あるいはキエフ大公国との密接な関係が伺えますね。

ビザンツ帝国は、その壮絶な最期ばかりが語られるせいなのか、今までかなり過小評価されていたものの、近年になってようやくその偉大さが見直されて来ました。特に、この国が周辺諸地域に与えた文化的影響力は極めて大きく、中欧東欧全域や中東にさえ、今でもその名残が見られるほどです。

また、要衝コンスタンティノープル(現イスタンブール)を中心とした経済力も、周辺諸地域の羨望の的でした。バイキングが、わざわざここにアクセスするために西欧一帯で大暴れし、あるいは苦労してロシア縦貫ルートを開拓したことからも、その素晴らしさは明らかです。

ビザンツ帝国は、東ローマ帝国と呼ばれることもありますが、古代ローマ帝国の東半分が様々な構造改革を繰り返しながら進化発展した国です。その支配民族はギリシャ語を話すギリシャ人で、臣民として多くのスラブ人を従えていました。このローマ皇帝が支配する専制帝国は、キリスト教国家ではあるけれど、西側のローマ・カトリックとは異なる宗派の東方正教(ギリシャ正教)を奉じていました。モザイク画やイコンを中心とする煌びやかな文化が特徴で、そこに絶大な経済力を伴っていたため、周辺諸国はみんな憧れたのです。原始ロシア人は、まさにビザンツ文化に憧れた人々でした。

閑話休題して、一つのエピソードを紹介します。バイキングとキエフとビザンツの親密な関係を象徴する人物に、バイキングのハーラル3世(1015~1066年)がいます。王家に生まれながら、ノルウェー王位を巡って敗北したハーラルは、まずはキエフ大公国に亡命。そこで数年を過ごした後、部下たちとともにビザンツ帝国に移住。そこで皇帝親衛隊に入って傭兵として大活躍します。その後、ビザンツの後継者争いに巻き込まれて嫌気が指したハーラルは、またもやキエフに亡命。そこで準備を整えてから、故国ノルウェーへ王位奪回の旅に出ます。苦労の末、ついにノルウェー王となったハーラルでしたが、イギリス征服を目指して遠征したものの、イングランド王ハロルド2世との決戦に敗れて戦死します。こうしたハーラル3世の生きざまを見ていると、11世紀の国際社会の中で、バイキングとキエフとビザンツの関係が、その物理的距離にもかかわらず、非常に密接だったことが分かりますね。

さて、リューリクとその子孫が、南へ南へと勢力を広げ、天敵とも言えるステップ地帯の騎馬民族たちと血みどろの死闘を演じながらも手を伸ばそうとしたのは、栄光のビザンツ帝国でした。キエフは最初、可能ならビザンツを征服するつもりだったようですが、何度か撃退されて心が折れます。やがてリューリク家は、ビザンツ皇帝の皇女を妻に貰うことで、ビザンツの文化的傘下に入るのです。

すなわち、ビザンツの国教である東方正教を受け入れ、またギリシャ文字も公式に採用します。しかも、ビザンツから教えて貰って、ようやく法律を作って租税体系などを整備するようになりました。それまでは、農村地主(貴族)たちが談合で色々決めていて、税金の取り立ても恣意的で略奪に近いものだったのです。

ロシアにおいて、ビザンツ帝国の文化的な影響は、今日まで続いています。いわゆるロシア正教や独特のキリル文字は、この時代にビザンツから獲得したものなのです。

ロシアは、今でも栄光あるビザンツ帝国の後継国家としての誇りを抱き、首都モスクワを「第三のローマ」だと考えています。その独特の感情こそが、この国を周辺から浮き上がらせている重要な要因の一つではないかと思われます。

ロシアが、西欧キリスト教圏や中東イスラム圏に対して敵対的な感情を抱きがちな淵源は、この東方正教が、彼ら異教徒によって攻撃されて来た歴史と無関係ではないのです。