歴史ぱびりよん > 歴史論説集 > 世界史関係 著者の好みに偏っております。 > 概説 ロシア史 > タタールのくびき
さて、キエフ大公国は、かつてバイキングが築き上げた有力な交易ルートを掌握した上で、ビザンツ帝国の宗教的かつ文化的権威を後ろ盾にしたことから急激に発展します。周辺諸国を打ち負かし、領土と人口を増やして行きます。
ボロディンの歌劇『イーゴリ公』は、この時代の栄光をテーマにしたものです。キエフの貴族イーゴリ・スヴャトスラヴィッチ公による、ウクライナ平原に対する軍事征服の物語ですね。有名な楽曲『韃靼人の踊り』の韃靼とは、この歌劇の世界では、ウクライナからカザフ一帯に住んでいたアジア系遊牧民族ポロヴェッツのことです。韃靼は、タタールとも呼ばれますが、アジア系遊牧民の総称としても使われます。いずれにせよ、力を付けたロシア人は、もはや森林地帯に住む非力な農民ではなく、かつて自分たちを奴隷として売り飛ばしていた遊牧騎馬民族に向かって果敢に攻め込んでいたのです。
しかしながら、キエフ大公国は元々が有力な農村地主(貴族)の集合体だし、しかも大公の後継者を定めるための明確なルールが存在しなかったため、しばしば分裂を起こし内戦状態になりました。それに付け込んで、新たに勢力を伸ばしてきたスウェーデン(バイキング系)、ポーランド、リトアニアなどが、北や西から攻撃を仕掛けてきます。
それどころか、やがて、この国の命綱とも言える交易ルートが衰退していきました。11世紀に始まるいわゆる「十字軍」で、西欧騎士団が中東地域に乱入したことから、皮肉なことに地中海の交易ルートが活発化しました。そして憧れのビザンツ帝国が、衰退に衰退を重ねた挙句、第4回十字軍にいったん滅ぼされるなど、ロシア縦貫交易ルートが弱体化したのです。
その結果、交易基地であったキエフは急激にその価値を失い、ノヴゴロドやウラジミールなどに政治的中心が移っていきます。キエフ大公国は、実質的に数多くの小公国に分裂してしまうのです。
そんな混沌とした状況の中、東から襲来したのがモンゴルです。
13世紀、チンギス・ハンに率いられたモンゴル族は、蒙古高原を征服すると、世界史を一変させるような大遠征を開始します。東側では、中国諸王朝や朝鮮半島を蹂躙し、日本とベトナムにまで兵を進めます。西側では、長駆してヨーロッパに侵入、ポーランド軍を完全に撃破してアドリア海に到達します。南側では、イスラム諸王朝を粉砕してインド北部にまで勢力を伸ばすのです。
ロシアは、この大遠征軍の通り道に位置していました。そして、分裂して弱体化したキエフ諸侯はモンゴル騎馬軍団の相手にならず、次々に各個撃破されて行きました。首都キエフも蹂躙され、跡形もなく破壊されます(1240年)。数万人いた住民がことごとく虐殺され、残った戸数はわずか200戸と言われるほど。
この暴虐に心底から恐怖したロシア諸侯は、モンゴルに恭順を誓います。ビザンツ帝国との関係を断ち切って、新たな支配者であるモンゴルの傘下に入り、莫大な貢納と引き換えにその命脈を保ちました。
これが、以後300年続く「タタール(韃靼)のくびき」です。
ロシア人が、外界からの凶悪な暴力に対して病的な恐怖感を抱くようになったのも、あるいは残虐非道な強権統治に対して不感症になったのも、その淵源はここにあったのではないかと思われます。