歴史ぱびりよん

救国の英雄アレクサンドル・ネフスキー

サンクトペテルブルクのアレクサンドル・ネフスキー広場

 

モンゴルの襲来によってキエフ大公国は滅亡したのですが、それ以前から分裂状態だったことが幸いし、ロシア国内でいくつかの小公国は生き残りました。ただしその理由は、これらの公国が強かったからではなく、モンゴルからその存在を無視されたからでしょう。

モンゴルは遊牧騎馬民族なので、原則として草原地帯にしか興味がありません。つまり、キノコや蜂蜜しか採れないような寒冷な森林地帯などどうでも良かったので、これらの土地を領土としていたロシア諸侯は、本格的な攻撃を免れたというわけ。

それでもモンゴルが怖いので、ロシア諸侯は、莫大な貢物を持ってモンゴル人支配者ハン(汗)の根拠地であるサライやカラコルムに通いました。ただしこの行為は、諸侯の権威付けの道具にもなりました。モンゴルのハンに可愛がられた人物は、自国内での政治的地位を安定させやすくなったからです。いわば、これまでのビザンツ帝国の権威が、モンゴル帝国の権威へと置き換わったというわけ。

ノヴゴロド公国のアレクサンドルも、そういった人物の一人でした。モンゴルの後ろ盾を得て、同国の支配権を手に入れた彼は、北方の侵略者に対しては果敢に立ち向かいます。

「ネヴァ川の戦い(1240年)」でスウェーデン軍を撃破した彼は、救国の英雄となります。彼のあだ名、ネフスキーは、「ネヴァ川の人」という意味です。

この戦いの古戦場は、現在のサンクトペテルブルク市街の東側に位置しています。その跡地である広場には巨大なネフスキーの銅像が立ち、その近くには威厳のある修道院と国民墓地が建ち、そしてこの地を起点にして、サンクトペテルブルク最大の目抜き通りであるネフスキー大通りが伸びています。ここは、まさにロシアの聖地なのです。

アレクサンドル・ネフスキーは、1242年にも、「チュード湖の戦い(氷上の戦い)」で、侵攻して来たドイツ騎士団を打ち破っています。

そんな彼は、20世紀に入ってから、セルゲイ・エイゼンシュタイン監督の映画の主人公になりますが、どうしてネフスキーは、これほどの国民的人気を得たのでしょうか?モンゴルに対しては、卑屈一辺倒な彼だったのに。

まず、モンゴルの支配は、少なくともロシア北部に対しては、それほど過酷ではなかったことがあるでしょう。定期的に貢物を持っていけば、後は自由放任だったのです。なので、モンゴルに対して卑屈になることは、それほど恥ではなかった。

それに対して、スウェーデンやドイツ騎士団の行動は、自分たちの宗教をこの地に押し付けると同時に、経済利権を奪い取るための、明らかなる侵略でした(「北方十字軍」と総称される)。これは、ロシアの人々にとっての死活問題です。

さらに深読みするなら、ロシア人の「西側」に対する排他意識は、すでにこの時代から顕著だったのでしょう。

その「西側」を、鮮やかに格好よく打ち負かしていくネフスキーの姿は、逆境の中で沈滞するロシア人の心に灯をともす、唯一の光明だったのかもしれません。

救国の英雄は、逆境の中でこそ美しく輝くのです。