歴史ぱびりよん

暴君イヴァン雷帝

イヴァン大帝の孫が、雷帝(グロズヌイ)の異名を持つイヴァン4世です(1530~1584年)。彼は、それまでの大公ではなく「ツアーリ(皇帝)」を、ロシアの最高権力者の呼称とします。

この人は、良くも悪くも典型的なロシアの独裁的暴君でした。暴力的な侵略戦争を周辺諸国に仕掛けまくり、国内向けのテロ攻撃を執拗に行い、ついには長男まで殴り殺す。

東に位置するモンゴル系諸国に対する征服は順調に進み、ロシア人はついにシベリアへと足を踏み入れます。ところが、西側諸国との戦争は、ドイツ騎士団やスウェーデンとリトアニアを同時に敵に回す逆境に陥り(リヴォニア戦争)、袋叩きにされたロシアは、むしろ多くの領土を奪われる事態となりました。

イヴァン雷帝が、宰相たちの反対を押し切って、ひたすらリヴォニア地方の征服にこだわった理由は、新たな同盟国となったイギリスとの交易ルートを確保したかったからです。当時のロシアで唯一の貿易港であった白海のアルハゲリンスクは、1年の大部分を深い氷に閉ざされてしまうため、経済活性化の役に立たなかったのでした。

つまり、「タタールのくびき」をようやく振り払ったロシア国家は、再び建国の父リューリクに回帰して、貿易立国を目指したのです。しかし、そのためにはスウェーデンやドイツ騎士団から、冬でも凍らない港を奪い取らねばならず、雷帝はそれに大失敗したというわけなのでした。

この失敗による威信失墜を恐れ、同時に猜疑心に囚われた彼は、長男や国内貴族たちに矛先を向け、多くの人々を殺戮することになります。これぞ、外国人よりもむしろ同国人に暴力をふるうという、ロシア型専制君主の事始めです。

しかしながら雷帝は、極めて暴力的な性格だったがゆえに、様々な近代的な法律を発布し、「銃兵隊」と呼ばれる近代的な常備軍を作るなど、国内の保守的な貴族の反対を押し切る形で抜本的な構造改革に邁進出来ました。そういう意味ではピョートル大帝やスターリンの大先輩であり、ロシア流啓蒙専制君主の先駆けだったとも言えるのです。

セルゲイ・エイゼンシュタイン監督は、1944年に、明らかにスターリンを意識して映画『イヴァン雷帝』を撮ったのですが、両者の本質的類似点に着目してそうしたのだとすれば、なかなかの慧眼だったと言えるでしょう。