歴史ぱびりよん

オスマン帝国(トルコ)との確執

ナポレオン帝国は、ロシアを中心としたヨーロッパの保守派連合によって壊滅するのですが(1815年)、フランス革命思想自体は生き残りました。それどころか、若者を中心にますます強勢になって行くのです。

これまでのヨーロッパ世界は、皇帝や王や貴族、聖職者といった特権階級が、民衆を私有財産扱いして搾取することで成り立っていました。しかしながら、フランス革命やアメリカ独立革命を引き起こした新思想は、「国家の中心にあるのは、あくまでも民衆なのであって、皇帝や教会らは民衆を幸福に導くための機関に過ぎない」というものでした。すなわち、もしも特権階級が民衆の幸福を阻害する存在であるのなら、むしろ革命でこれを滅ぼしてしまうのが正解ということになります。

しかし、この考え方は、既得権益を握っている権力者にとって極めて不都合です。そこで、様々な手段で圧迫を図ります。その保守反動の盟主となったのが、ハプスブルク家のオーストリア帝国とロマノフ家のロシア帝国だったのです。

アレクサンドル1世の跡を継いだ弟のニコライ1世(在位1825~1855年)は、彼自身が守旧派だったこともあり、西側諸国で革命騒動が起きると、わざわざロシア軍を派兵して若者たちを弾圧するのでした。

とは言え、この時期のロシアが慢性的に戦っていた相手は、オスマン帝国でした。

ロシアが初めてオスマン帝国と戦ったのは、ピョートル大帝の時代でした。彼は、西欧に使節団を派遣する前、南方の貿易港を奪うためにアゾフ要塞を攻撃したのです。大苦戦の末に、このアゾフ海に面した港を奪うことに成功したのですが(1696年)、そこから先に進めない。そこで、まずはスウェーデンを叩くことにして、「大北方戦争」でそれに成功したのでした。その後、オスマン帝国と本格的に対決するものの、ピョートル自身が捕虜になりかけるほどの苦戦をして(プルート川の戦い(1711年))痛み分けました。

『概説トルコ史』にも書きましたが、オスマン帝国は中世から近世にかけて、この地域最大の勢力でした。ただし、その目標は「ローマ帝国の再興」にあったので、征服先はあくまでも西方に位置する神聖ローマ帝国であって、北東方面のロシアにはあまり興味がありませんでした。だからこそオスマン帝国は、カール12世やマゼッパの懇請にも拘わらず、戦場でピョートルを見逃して妥協的な和平を結んだのです。

しかし、ロシア側はそうではありません。前述の通り、この国はロシア(東方)正教の唯一の守護者です。そして、東方正教のもともとの本拠地は、今まさにオスマン帝国が首都にして居座っているコンスタンティノープル(現イスタンブール)なのです。さらに言えば、聖地エルサレムを支配しているのもオスマン帝国です。こうして、日増しに国力を付けたロシア帝国は、「聖地奪還」の宗教的情熱からオスマン帝国に積極的に戦いを挑むようになりました。

オスマン帝国は、最初のうちは「うるさいハエ」を追い払うような感覚で、簡単にロシアを撃退していたのですが、エカテリーナ女帝の時代にかなり手痛い連敗を繰り返したことから、クリミア半島のみならずモルドバ地方までロシアに征服されてしまいます。スヴォーロフに代表される天才的な名将たちがロシアに現れたことも大きいのですが、ちょうどロシアの勃興期とオスマンの衰退期が重なってしまったことが最大の理由でしょう。

オスマン帝国が衰退した理由は、『概説トルコ史』に書いた通りですが、この国が緩く結合された多民族国家だったがゆえ、経済力や政治力が経年劣化を続ける中で、民族自決や国民主権の空気が世界を覆うようになると、不可避的に分裂傾向が強くなる。そこを、ロシアや西欧列強が、トルコ国内の分離派の反乱を煽り立てて弱体化させたという図式です。

やがて追い詰められたトルコは、むしろ西欧と手を組んでロシアに対抗する形勢になりました。その結果、ロシアがトルコを撃破して占領地域を広げても、西欧列強が干渉して、国際条約によってそれをトルコに返還させることが通例のようになりました。

西欧列強が異教徒であるトルコに加担するようになったのは、経済利権のことも有りますが、ロシアの侵略傾向が全世界レベルで日増しに強まっていることが根底にありました。19世紀のロシアは、トルコやポーランド方面のみならず、イランやカフカス山脈、フィンランド、中央アジアや極東でも強引な勢力拡張を図っていたのです。これは、西欧列強にとっても脅威ゆえ、地球レベルでの勢力バランスを取る必要に迫られたというわけです。

思えば、かつてのスウェーデンのバルト帝国やトルコのオスマン帝国は、武力に物を言わせて急拡大した結果、周辺諸国の怒りと不安を喚起して敵対的な同盟を結ばれました。今度は、ロシア帝国が同じ境遇に陥ったのです。因果の輪は巡る。

ついに、西欧列強がトルコと同盟を組んで、ロシアと直接対決する事態になりました。「クリミア戦争(1853~56年)」です。すなわち、ロシアのトルコに対する侵略戦争に、イギリスとフランス(後にサルディニア王国やオーストリアも加わる)がトルコ側で参戦するという奇妙な事態になったのです。この戦争は、トルコがルーマニアでロシアの攻勢を凌いでいる間に、英仏土連合軍がクリミア半島に殴り込みを掛けて、ロシア側のセバストポリ要塞を包囲する戦いとなりました。両軍合わせて100万を超える大軍同士の激突です。

ロシア軍は、ホームグラウンドでの戦いにもかかわらず大苦戦に陥ります。ナポレオン戦争の勝利に慢心して、それ以降の近代化を怠ったツケが回ったのです。産業革命を経た英仏軍の外輪蒸気船はロシア軍の木造帆船を苦も無く撃破し、最新式の大砲や銃はロシア側のそれを圧倒しました(英仏連合軍のミニエ銃は、ロシア軍のマスケット銃の4倍の射程距離を誇り、命中率も遥かに高かった)。そもそもロシアには鉄道がほとんど無かったので、兵士や糧秣や武器弾薬の輸送を延々と原始的な荷馬車で行う始末。

こうしてセバストポリ要塞は、矢折れ刀尽きて陥落し、それと前後してタカ派の首魁だった皇帝ニコライ1世が病没したことで、ロシアは敗北を受け入れたのです(1856年)。

しかし、この「クリミア戦争」は、オスマン帝国解体を巡る国際関係、いわゆる「東方問題」を複雑化させ、またヨーロッパ各国の外交関係を錯綜させることで、後の第一次世界大戦に繋がる重要な導火線となるのでした。

そんな中、ロシア帝国もついに抜本的な構造改革に乗り出さざるを得なくなります。