歴史ぱびりよん

ソヴィエト連邦の誕生

レーニンのレリーフ

 

「ロシア革命」の第一人者は、ウラジミール・レーニン(1870~1924年)です。ただし、レーニンと言うのは地下活動をするための偽名であって、本名はウリヤノフでした。

貧しい町人の子として生まれた彼は、幼いころから頭脳明晰でありながら傲岸不遜。あらゆる権威を頭ごなしに否定する、まさに生まれながらの革命家でした。同じく革命家だった彼の兄は、アレクサンドル3世暗殺を企てたため、秘密警察に逮捕されて処刑されます。レーニン自身も何度も投獄され、ついには海外への亡命を余儀なくされるのですが、そこでマルクス主義の洗礼を受けます。ここに、単なる帝政反対の武闘派だった男は、強固な思想的支柱を手に入れたのです。

マルクスとエンゲルスが提唱した「共産主義思想」は、20世紀の若者たちを熱狂させました。その先駆者の一人となったのが、レーニンだったのです。彼は、マルクス思想に独自の解釈を加え、いわゆる「レーニン修正主義」を編み出すのでした。

共産主義の議論はとても難しいのですが、簡単に説明するとこういうことです。

ドイツ出身の経済学者カール・マルクスに深い印象を与えたのは、イギリスにおける激しい経済格差でした。「資本主義」社会では、資本家が肥え太る一方で、労働者は低賃金で過酷な重労働を強いられる。その原因は、生産手段を資本家が独占しているからである。経済学者の視点から、ここに根本的な矛盾を見たマルクスは、やがて労働者(プロレタリアート)が革命を起こして資本家を倒し、生産手段を我が物にすることで、社会的平等が達成されるだろうと唱えました。この社会的平等状態こそが「共産主義」社会であり、労働者階級は団結して資本家と対決することで(階級闘争)、このパラダイスを目指すべきだと考えたのです。

共産主義社会は、この世のあらゆる格差を否定して、みんなが平等に生きられる社会です。地位や富や血筋、そして収入による、いっさいの格差が存在しない社会です。さらに議論を飛躍させて、男女、年齢、人種、言語による格差も存在しないような、全人類が完全に平等で対等な社会です。確かに、とても美しい社会であるように思えますね。一見すると。

レーニンは、こういったマルクスの「階級闘争」の考え方を、ロシア社会に当てはめました。すなわち、ロシア社会における皇帝や貴族と、虐げられた農民や労務者を対峙させて考えることで、ロシアでの革命に思想的根拠を見出したというわけです。

そしてついに、1917年10月の暴力的な革命によって、レーニン率いるボリシェビキ党はロシアの政権を奪取します(10月革命)。ロシア国家は、ソヴィエト連邦へと生まれ変わったのでした。

ここで留意すべきなのは、「レーニン修正主義」は、マルクスが語っていないオリジナルの思想に溢れていたことです。この主義の眼目は、「プロレタリアートによる革命は、独裁的な政府によって指導されて初めて達成されるものである」。「こうして達成された革命は、共産主義には程遠いので、資本主義から共産主義へ移行するための中間段階として、まずは社会主義を設けなければならぬ」。「この社会主義国家における、あらゆる生産手段や人民の生活は、独裁政府によって管理統制されるべきである」。

つまり独裁政府が、まずは人為的に「社会主義」という名の共産主義創出マシーンを作り出し、そのマシーンの力で「共産主義」を強制的に早期実現させようというわけです。プロレタリアートが、自然発生的に革命を起こすのを、のんびり待っていられないというのです。

ロシア10月革命は、このような考え方に則って行われました。レーニンの先輩であるプレハーノフら、まともなマルクス主義者は、みんなこのような形の革命や独裁政権の誕生には反対したのですが。

ともあれ、マルクス思想では「プロレタリアート層の自発的意思で達成される」ことになっているはずの革命を、レーニン修正主義では「一部のエリートによって支配される独裁政権が推進する」と主張しています。これは、本来はプロレタリアートが主人公となるはずの革命を、少数の権力者から構成される独裁政権が代わりに達成するということだから、そこに深刻で根本的な矛盾をはらんでいます。やがてこの矛盾が、ソヴィエト連邦とその派生国家に常に付きまとう大問題となるのです。

そして、さらに大問題なのは、レーニンが極端な暴力志向だったことです。「共産主義を達成するのは、たいへんな困難を伴う大事業である。しかし、共産主義は絶対的な正義であり真理であるのだから、必ず実現させなければならない。この実現のためには、あらゆる非道な手段が許容される」という思い込みです。

レーニンのこの野蛮な思想は、ソヴィエト連邦と派生国家のみならず、その後継国家にまで波及します。現代のプーチン政権についても、この文脈で考える必要があるでしょう。

そういうわけで、レーニン政権では、イヴァン雷帝以来の国内テロルの嵐が吹き荒れました。皇帝一家や皇族、貴族や聖職者のみならず、レーニン政権が敵と見なした存在は、富農や売春婦までもが、裁判なしに問答無用に虐殺されたのです。ロシア国内に、無数の「強制収容所」が建てられるようになったのもレーニン時代からです。

もっとも、好意的に考えるならば、300年も続いたロマノフ時代の旧弊を一気にひっくり返すためには、そのくらいの荒療治が必要だったとも言えるでしょう。皇室や貴族や聖職者に大弾圧を加えたのは、その文脈で正当化できます。実際に、旧勢力を殺し尽くしたからこそ、それに続く構造改革が上手く行ったという側面もあるのです。しかしながら、たとえば「生産手段の国有化」政策は、多くの農民を農奴に引き戻すような行為だったわけで、時代の流れに逆行しています。何よりも、国民の窮乏化が促進されてしまいました。

ちなみに、ロシアの首都がペトログラードからモスクワに移ったのもレーニン時代です。同じ頃、ペトログラードはレニングラードに改名しましたが、こちらはソ連が崩壊してからサンクトペテルブルクに変わりました(良く名前が変わる街だな(笑))。

さて、レーニン政権は、交戦中だったドイツと妥協的な講和条約を結ぶことで(1918年3月)、この方面の安定化に成功するのですが、政権のやり方に不満を持つ国内の反乱分子に一斉蜂起の口実を与えてしまいます。そこで、大規模な「内戦」が勃発する
のです。

この内戦は、ロシア国内の反レーニン勢力のみならず、イギリスや日本やポーランドにチェコスロヴァキアといった諸外国、民族自決を胸に独立に立ち上がったウクライナやバルト三国やフィンランドにコサックなど、多種多様な勢力を巻き込んで大混戦となります。最終的に、レーニン政権は勝ち残るのですが、その過程で、ポーランドとフィンランド、バルト三国などは独立してしまいました(ただし、ウクライナや中央アジア諸国の独立運動は潰された)。これらの失地回復が、レーニンの後継者スターリンの政策課題となります。

さて、ソヴィエト連邦は、ロマノフ朝ロシア帝国とは全く異なる思想に基づく全く新しい国家になるはずでした。階級格差を否定し、宗教を否定し、みんなが平等に幸福を甘受できる国になるはずでした。しかし、蓋を開けてみれば、レーニンの共産党政権が新たな独裁的支配階級となり、レーニン主義イデオロギーが新たな宗教となっただけの話で、実態はロマノフ時代とほとんど何も変わらなかったのです。イギリスの作家ジョージ・オーウェルが、『動物農場』の中で鋭く観察し指摘した通りでした。

ただし、ソヴィエト連邦が高らかに掲げた社会主義イデオロギーは、実態から遊離して極端に理想化された形で一人歩きを始め、全世界の運命に巨大な影響を与え続けることになります。