歴史ぱびりよん

女帝エカテリーナ

若き日のエカテリーナ2世

 

破格の天才ピョートルが53歳で病没した後(1725年)、女帝を中心にした安定の時代が続きます。それが、ロシア帝国を大発展させるのです。

まずは、ピョートルの妻のエカテリーナ、一代おいて、親戚筋のアンナ、ピョートルの娘エリザベータ、一代おいて、エリザベータの甥ピョートル3世の妻エカテリーナ2世が即位します。

この間、ピョートル大帝が敷いた路線が上手く開花し、西欧列強(主にイギリスとフランス)との交易や文化交流によって商工業が発達し、ロシアはそれなりに近代化が進んだのです。しかしながら、憲法を中心とした議会制度の確立や農奴制の廃止などは、なかなか改革の日程に上がりませんでした。

もちろん、そういった進歩的な議論は、皇帝や貴族の間で定期的に起きたのですが、「ロシア正教によって聖別された皇帝による絶対的専制と、大貴族たちによる合議体制こそが、ロシア帝国の絶対的アイデンティティである」と結論付けられるのが常で、そして大貴族たちの経済権益を最優先することから、農奴も解放できなくなるのでした。

1796年の統計によると、この時点でのロシア帝国の総人口は約3,740万人なのに、都市生活者はそのうちの4%しかいません。つまり、商工業や交易が発展したと言っても、国民の大多数が相変わらず農民だったわけです。これは、ロシアから西欧への輸出品がほとんど農産物だったことを意味するので、貿易が盛んになればなるほど、農村への収奪が比例的に増えていく流れです。これこそが、ロシアで農奴解放が無理だった理由でしょう。

そして、ここが歴史の面白いところですが、過去に破格の成功体験をしてしまうと、人々はその体験から抜け出せなくなるのです。ピョートル1世という破格の天才によって勃興したロシアは、その政治路線からの逸脱を極端に嫌うようになるのでした。民衆も、カリスマ的英雄に指導され支配される自由の無い人生こそ、当たり前のように思って生活しています。いつしか、ロシアは西欧の近代化のリズムに付いて行けなくなるのでした。

それでも、皇帝や重臣たちが有能であれば、上意下達が行き届いた官僚国家は強大な威力を発揮します。ある意味では不幸なことに、ロシアはそれがしばらく続いたのです。

有能な皇帝筆頭であるエカテリーナ2世(在位1762~1796年)は、もともとプロイセン軍人の娘で、妻としてロシア皇帝ピョートル3世に嫁いだ人物です。つまり、ロシアとは縁もゆかりもないドイツ人なのです。しかしピョートル3世は、大貴族たちのクーデターで失脚し、幽閉先で怪死します(暗殺されたのでしょう)。代わりに担ぎ出されたのが、その妻であったエカテリーナだったのです。

こうしてみると、ロシアの実権を握っていたのは大貴族の合議体であり、皇帝は傀儡に過ぎなかった(誰でも良かった)ことが分かります。考えてみれば、ロシアの始祖リューリクの頃から、この国の指導者は貴族たちによって選ばれていたのです。すなわち、ロシアにおける有能な皇帝とは、大貴族たちの既得権益を伸ばし充足させ調整できる人物を意味するのであって、それが出来ない皇帝は、失脚させられたり暗殺されたりするのでした。

ロシア皇帝は、貴族たちの調整役としても重要だけど、それ以上に、国の象徴として、あるいはロシア正教の守護者としても重要でした。なぜなら、そのような神格化された象徴が君臨していなければ、民衆が大貴族たちの過酷な支配に精神的に耐えられないからです。ある意味で、ロシア皇帝は、日本の天皇と似た存在だったのです。

つまりロシア皇帝とは、大貴族たちの既得権益をバランスよく増進させつつ、偉大なるピョートル大帝の政治路線を守りつつ、民衆に高い宗教的権威で君臨しなければならないという無理ゲーを、その終焉の時までやり続けなければならなかった人々なのでした。

そして、これはたいへんな皮肉なのですが、ロマノフ家の歴代ロシア皇帝は、真面目で職務熱心な人間ばかり。全身全霊をかけて、無理ゲーの完遂に取り組んだのです。だからこそ、彼らは前近代的な専制体制を20世紀初頭まで維持出来たのですが、逆に言うと、そうなるまでに、後進的な体制を刷新する機会を全く得られなかったわけです。もしも、途中でどうしようもない暗君が登場していれば、イギリスやフランスのように、丁度良いタイミングで革命を経験して近代化出来ていたでしょう。そうなっていれば、今日のロシア人の意識も変わっていたかもしれないのですが。

ともあれ、無理ゲーを優秀な成績でクリア出来た皇帝は、「大帝」と呼ばれます。そういう意味では、エカテリーナ2世は大帝の優等生でした。彼女の時代に、ロシアはオスマン帝国を圧倒し、クリミア半島を含む黒海北岸を完全に制圧しました。西方でもポーランドを征服し、ついに支配下に組み込みます。東方では、シベリア全域を傘下に収めました。

彼女は、コサックを解体し帝国に組み込む過程で、ウラル・コサックのプガチョフによる大規模な反乱に直面しますが(1774年)、この試練に打ち勝つことで、ウラル方面の支配領域を完全に固めるのです。

大貴族たちも、領土が大幅に増えて大喜び。

ただし、エカテリーナ女帝の最大の功績は、領土を拡大しただけでなく、郡県制を整備して地方自治を向上させ、各地に学校を建ててロシア人全体の幸福度を高めたことでしょう。ロシアは、その専制的な政治システムはおくとして、いよいよ西欧並みの近代国家へのスタートラインに立ったのです。

エカテリーナ2世は、実務能力に長けた人物を抜擢する能力に優れていて(その多くが彼女の愛人出身だったが)、オルロフ、パーニンやポチョムキンなどは、今でもその名が轟いています。

特に、大元帥アレクサンドル・スヴォーロフは、なぜか映画や小説といった大衆娯楽の主人公にならないので知名度が低いのですが、おそらく世界史上最強の将軍です。なぜなら、対戦相手や地形や天候、兵力差、兵科をいっさい問わず、あらゆる戦いで圧勝しているからです。その生涯で無数の戦闘を指揮して勝率100%の軍人は、全世界の歴史を俯瞰しても、彼だけではないでしょうか?オスマン帝国もプガチョフもポーランドもフランス革命軍も、スヴォーロフに背中を見せて逃げるだけの存在だったのです。エカテリーナ2世時代のロシアの領土拡張は、こういった天才たちに支えられた幸運あってのことでした。

こうして、18世紀後半のロシア帝国は、今や超大国として世界の中心に屹立していたのです。