歴史ぱびりよん > 歴史論説集 > 世界史関係 著者の好みに偏っております。 > 概説 三十年戦争 > 第一章 三十年戦争の原因
①三十年戦争とは何か
②ドイツの政治状況
③神聖ローマ帝国
④宗教改革
⑤経済的要因
⑥フェルディナント2世
⑦三十年戦争の区分
グスタヴ・アドルフの最期
①三十年戦争とは何か
三十年戦争は、1620年から1648年にかけて、主にドイツとチェコを主戦場として戦われた戦争です。
この戦いにかかわった国や諸侯の数は、実に66を数えました。参加国数だけを見るなら、文字通り、人類が初めて体験する「世界大戦」だったのです。この血みどろの国際紛争の結果、ドイツとチェコの人口は戦前の2/3にまで激減し、主戦場となったドイツの近代化は、100年以上も遅れたと言われています。
この悲惨極まりない悪夢の結果、人々は、「戦争」という概念が「騎士道精神」でくくられるような牧歌的で生易しいものではないことを初めて認識するようになりました。人々は、「戦争をなくすためにはどうすれば良いのか」を真剣に考えるようになりました。そして、今日の国際連合のような国際機関の必要性や、国際会議の有用性が認識されるようになったのです。
それにもかかわらず、その後も第一次大戦や第二次大戦のような「全面戦争」が頻発し、最近も同時多発テロやイラク戦争が世界を暗く覆っています。どうして、人類は成長できないのでしょうか?
この小論は、三十年戦争の悲惨な歴史を俯瞰することで、「戦争はなぜ起こるのか。なぜ止めることが出来ないのか」といった難題への解答に、一歩でも近づくことを目的としています。
②ドイツの政治状況
まずは、主戦場となったドイツの様子から見て行きましょう。
我々が知るドイツ連邦共和国は、国家としてはとても若い存在です。
現在の国体は、1989年に冷戦が崩壊してから、西ドイツと東ドイツが合併する形で成立しました。
この国が東西に分裂する以前は、ヒトラー率いるナチスドイツが強権的な中央集権支配をしていましたね(1932~1945)。さらにそれ以前は、自治権を持つ小国がいくつも折り重なって出来た弱い連邦体だったのです。この連邦国家を築いたのが、鉄血宰相ビスマルクで、時に1871年のことでした。
それでは、ビスマルク以前のドイツは、いったいどういうことになっていたのか?
実は、国家として成立していなかったのです。同じ民族でありながら、300もの小さな公爵領や自治都市や司教座が林立する、混沌とした政治世界がそこにありました。
もちろん、この不自然な情勢を打開しようと、ドイツ民族の統合を目指すいくつかの動きがありました。しかし、隣国のフランスが、隣に強国が出現するのを嫌い、執拗な妨害工作を行ってこの企画を潰したのです。
ビスマルクが、19世紀になって統一ドイツを樹立できた最大の理由は、普仏戦争(1871年)によってフランスを完膚なきまでに叩きのめすことに成功したからでした。
そして17世紀の「三十年戦争」。この戦争の背景には、やはり統一ドイツを目指すオーストリアと、それを妨害しようとするフランスの対立がありました。三十年戦争があれほどの悲惨さを現出したのは、こうしたグローバルな国家戦略が絡んでしまったからです。
③神聖ローマ帝国
以上の状況を、もう少し詳しく解説しましょう。
さて、17世紀のドイツは、300あまりもの諸侯が林立する地域だったのですが、彼らは、形式的には「神聖ローマ帝国」という国家に所属していました。
神聖ローマ帝国の版図は、今日のドイツ、オーストリアはもちろん、オランダ、北イタリア、スイス、チェコを包含する広大な地域です。
この広大な帝国のリーダーは、言うまでもなく神聖ローマ皇帝だったのですが、皇帝位は必ずしも世襲ではなく、帝国を構成する有力な7名の諸侯(七選帝侯)の選挙によって選ばれるものでした。七選帝候にその名を連ねるのは、ボヘミア王(チェコを支配)、ファルツ選帝候(ライン川の沿岸地域を支配)、ザクセン選帝候(ドレスデンを中心としたドイツ東部を支配)、ブランデンブルク辺境伯(ベルリンを中心としたドイツ北部を支配。プロイセンの前身)、そしてマインツ大司教、ケルン大司教、トーリア大司教です。
選挙で選ばれた皇帝の地位は、必ずしも高いものではありませんでした。300もの諸侯によって担がれる「おみこし」みたいなものだったのです。
ところが、15世紀末から17世紀初頭にかけての神聖ローマ帝国は、オーストリアに本拠地を持つハプスブルク家がその皇帝位を世襲するようになっていました。その理由は、バルカン半島から攻め上がるオスマントルコの脅威に対抗するため、東欧と中欧が確固とした指揮命令系統の下に団結する必要があったからです。そのリーダーとしてもっともふさわしかったのが、ハプスブルク家だったのです。
こうした情勢を受けて、オーストリアのハプスブルク家は、しばしばハンガリー王も兼任していました。しかも、その支族はスペイン王家を世襲し(厳密にはスペインの方が主家)、ついにハプスブルク家は、西欧と中欧に同時に覇権を唱えるにいたったのです。
ハプスブルク家の成功の理由は、必ずしも武力によるものではなく、政略結婚を駆使して血縁の網をヨーロッパ各地に張り巡らせたことによります。「汝らは戦うが良い。我は結婚するから」というやつです。
ハプスブルク家の野心は、それだけに止まりません。彼は、隙あればドイツ全土に覇権を打ちたて、神聖ローマ帝国をその名にふさわしい強国に育てあげようと考えていたのです。
この状況を前に苦境に立たされたのはフランスです。この国は、国境の東西をハプスブルク領に押さえられ、今や挟み撃ちの形勢です。その上、ドイツに強力な統一国家が誕生したならもう絶望です。そこでフランスは、しばしば異教徒であるオスマントルコと連絡を取り、ハプスブルクの包囲網を打破しようと画策していました。
この情勢が、「三十年戦争」の重大な伏線になったのです。
④宗教改革
三十年戦争の伏線としてより以上に重要なのが、当時、ドイツを中心にして起こった「宗教改革」の潮流です。
ヨーロッパ世界は、ローマ帝国の時代からキリスト教を国教として来ました。キリスト教にはいくつもの流派がありますが、西ヨーロッパはおおむね、バチカンを総本山とするローマカトリックを信奉していたのです。
しかし、中世も爛熟すると、肥大化して硬直化したカトリック教会組織は、信仰のよりどころとしての本来の役割を見失い、聖職者たちが私利私欲にふけるための道具に堕してしまいました。「神罰」を盾にとって庶民を脅迫する腐敗した聖職者たちは、庶民に重い税金を負わせたり、免罪符(贖罪状とも)なる札を無理やり買わせたりと、横暴が募るばかりでした。これは、織田信長に焼き滅ぼされた当時の比叡山延暦寺の様相に似ていますね。
この様子を見た聖職者や庶民の中には、教会組織の腐敗に批判的な者が次々に現れたのですが、教会が強勢だった当時、批判者たちは「異端」と呼ばれて抹殺されてしまったのです。しかし、教会大分裂(シスマ)のような醜い事件が頻発し、さらにはルネッサンスなどの新たな文化潮流によって宗教的権威がその魔力を減じて来ると、ついにカトリック教会に対抗しうる勢力が誕生したのです。それが、プロテスタントです。
マルチン・ルターなどの勇気ある聖職者が反カトリックの烽火をあげると、教会の横暴を憤る進歩的な封建諸侯は、彼らを庇護して独自の教会を立ち上げました。すなわち、庶民の信仰を助けるための清貧で質素な教会を創始したのです。こうして、イギリス、スイス、北欧諸侯、オランダ、ドイツ北部の諸侯、そしてチェコがプロテスタント支持に回りました。
しかし、封建諸侯の中には、教会との利害関係やプロテスタント系諸侯との政治的対抗関係からカトリックを堅持するものも多く、フランス、オーストリア、スペイン、イタリア、ポーランド、そしてドイツ南部の諸侯はカトリック支持だったのです。
神聖ローマ帝国の中で、プロテスタント諸侯は「連合」(ウニオン)を、カトリック諸侯は「同盟」(リーガ)を結成して激しく睨み合いました。ただ、この両者の間には16世紀中盤に和平条約が結ばれ(アウグスブルクの和約)、表面的には平和な均衡を保っていました。しかし、これはいつ再燃してもおかしくない埋火みたいな状態だったのです。
こういった宗教的対立が、「三十年戦争」を血みどろの泥沼に引きずり込んだ重要な原因になったのでした。
すでにオランダでは、プロテスタントを信奉する貴族たちが、支配者であるハプスブルク・スペイン(カトリック支持)に対して激烈な独立戦争を戦っていました。これは、「三十年戦争」の前哨戦ともいうべき事件でした。
⑤経済的要因
日本の若者たちの多くが誤解しているのですが、「宗教戦争」というのは、宗派の違いが原因で起きるのではありません。宗派の違いをきっかけとした「政治的経済的摩擦」によって引き起こされるのです。
実は、プロテスタントを支持した国家あるいは諸侯は、純粋な信仰心からそうしたわけではありません。彼らは、程度の差はあれ、カトリック教会の横車によって国政を歪められ、またカトリック教会の重税や免罪符によって国富を吸い取られて苦しんでいました。そんな彼らは、教会から独立して独自の進歩的な政策によって国富を増やして行きたかったのです。そのためには、カトリック教会を完全に否定し、自分たちの言いなりになるような清貧な(つまりは「弱い」)教会を立ち上げるのが良策だったというわけ。だから、彼らはプロテスタントを選んだのでした。「イギリス国教会」なんか、その典型ですな。
しかし、この行為は、ヨーロッパ全土から国富を吸い上げて豪奢な生活をして来たカトリック系聖職者にとって、既得権益の破壊を意味します。彼らは、既得権益を守るためにプロテスタントを「異端」と見なして撲滅しなければならなかった。そこで彼らは、カトリック系の諸侯に利益供与を図るなどしてこちら側に繋ぎとめ、その武力を巧妙に利用しようと企みました。
いわゆる「宗教戦争」というのは、こうして起こるものなのです。宗派の違いや哲学論なんて関係ありません。結局は、「カネのため」なのです。
「イラク戦争」を見ましょうか?アメリカの大統領はしきりにキリスト教的価値観を強調してイスラム教徒を糞みそに罵りましたけど、戦争の真の狙いは「油田の確保」だったわけです。
アラブとイスラエルの紛争だって、宗教的側面ばかりが強調されますが、あれはイスラエル(ユダヤ人)が、アラブ人の土地を奪い取ったことによる争いです。イスラエルが、残酷な方法でアラブ人を故郷から追い立てなければ、あのような紛争は起こらなかったはずなのです。やっぱり「政治的経済的要因」なのです。
もちろん、宗派の違いに基づく偏見によって、残虐行為が引き起こされたり戦争が長引いたりすることはあります。でも、それは宗教に限った話ではなくて、人種差別でもイデオロギー対立でも起こりうる事でしょう。宗教だけが、特別に悪いわけではありません。
我が国の学校教育では、なぜかこういったことを教えません。あたかも、「宗教」そのものが悪いために戦争が起こり、また、残虐行為が行われるように言われます。その理由は、おそらく、我が国の教育界を支配してきた日教組が左翼だからでしょう。左翼というのは、宗教を根本的に否定します。「宗教はアヘンなり」です。だから、子供たちが宗教そのものに偏見と嫌悪感を抱くように教えるのでしょう。
しかし、宗教というのは、もともと「人がより賢く安心して生きるため、あるいは死ぬための知恵」であり「哲学」でもあります。こうした本質を無視して、悪いところばかり教えた結果、我が国の精神世界の貧困化が招来されたのではないでしょうか?
何度も言いますが、「宗教」そのものが原因で起きた戦争など、歴史の中に一つもないのです。
いい加減、我々は左翼の洗脳教育から自由にならねばなりません。
・・・そういう私自身は、無宗教なんですけどね(笑)。
⑥フェルディナント2世
以上のように、当時のヨーロッパ世界は「欧州の覇権を巡るブルボン家(フランス)とハプスブルク家(オーストリア&スペイン)の対立」と「カトリックとプロテスタントの党派対立」が複雑に絡み合い、あたかも乾燥した森のようになっていました。
これに無造作に火を放った人物が、オーストリア(ハプスブルク家)の神聖ローマ皇帝フェルディナント2世です。
この人は、幼いころにカトリック系の修道院に入り、そこでイエズス会による洗脳教育を受けました。
イエズス会というのは、プロテスタントを打倒するためにカトリック教会が設けた戦闘組織です。たとえば、16世紀に我が国を訪れたフランシスコ・ザビエルは、この結社の大幹部でした。ザビエルは、アジア地域にカトリック信者を増やし、その勢力を利用してヨーロッパのプロテスタントを打倒するという遠大な戦略のもとに来日したのです。その闘志は立派なものだと思うけど、動機がちょっと不純ですな。
そんなイエズス会は、ヨーロッパ本土において、カトリック諸侯の子弟に洗脳教育を施し、彼らを道具のように操ってプロテスタントを滅ぼそうと画策していました。不幸なことに、この洗脳がもっとも巧みに成功した子弟こそが、後に大権力者となるフェルディナント2世だったのです。
フェルディナント2世は、むちゃくちゃに思い込みの強い人でした。カトリックを擁護し、プロテスタントを滅ぼすことこそ人生の使命だと思い込んでしまったのです。この人の非妥協的な「狂信」こそ、中欧を悲惨な「三十年戦争」に陥れた重要な要因になったのです。
⑦三十年戦争の区分
さて、三十年戦争は、あまりにも長期にわたる複雑な戦争だったので、学者たちはいくつもの区分を時系列的に設けて論じるのが普通です。すなわち、
(1) ボヘミア・ファルツ戦争(1618~1623年)
(2) デンマーク戦争(1625~1629年)
(3) スウェーデン戦争(1630~1635年)
(4) フランス戦争(1635~1648年)
ご覧のように、この区分はいずれも国名をタイトルに持っているのですが、これはオーストリアの敵手の名前です。つまり、三十年戦争の主役は、あくまでもハプスブルク家だったというわけです。
この国を統べるフェルディナント2世は、ボヘミアとファルツを打倒した後にデンマークと戦い、これを破ったと思ったら今度はスウェーデンに介入され、さらにフランスまで敵に回し、ついに力尽きて鉾を収めざるを得なかったのです。
これは、明らかに「外交の失敗」です。
どうして、こんなことになってしまったのでしょうか?
これから、具体的に見て行きましょう。