歴史ぱびりよん

第二章 ボヘミア・ファルツ戦争

 

①窓外放擲事件

②白山の戦い

③過酷な戦後処理

 


 

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バイエルンの名将ティリー

 

窓外放擲事件

三十年戦争の震源地となったのは、チェコ(ボヘミア王国)でした。

チェコは、ヨーロッパで最も早く、すでに15世紀初頭に宗教改革を成功させた国です。説教師ヤン・フスをはじめとする英雄的な人々の活躍については、拙著『ボヘミア物語』か『概説チェコ史』に詳しく出ています。

この当時のチェコは、人口400万人を擁する中欧最大の先進地帯でした。国民の勤勉さによって手工業が発達し、農地は肥沃で鉱物資源も豊富でした。そのため、非ドイツ人(=スラヴ系)の国であるにもかかわらず、ボヘミア王は七選帝侯の筆頭とされ、プラハは神聖ローマ帝国の首都だったのです。

ただ、17世紀初頭のボヘミア王位は、オスマントルコの脅威を前に、ハプスブルク家が世襲する情勢になっていました。

このハプスブルク家は、トルコの脅威が深刻なうちは、チェコ人に対して寛容でした。しかし、ウイーン包囲を切り抜けてトルコとの和睦が成立すると、その態度は急速に硬化します。カトリックを堅守する彼らは、プロテスタント(フス派)を信仰するチェコ人に締め付けを加え始めたのです。

チェコ人の貴族たちは、16世紀にハプスブルク家の王(ルドルフ2世)から『信仰告白』という通達を認めてもらい、プロテスタント支持を公認されていました。しかし、ウイーンに座す神聖ローマ皇帝兼ボヘミア王マティアス (政争でルドルフ2世を倒して即位した)は、この通達を反故にしたのです。彼は、チェコをカトリックの影響下に置こうと画策しました。

前述のように、これには経済的な「利権」が絡みます。プロテスタントの国をカトリック化するということは、プロテスタント系貴族たちの利権を、皇帝(王)とその背後にいるローマ教皇が奪い取ることを意味したのです。チェコの貴族たちが怒るのは当然です。

激怒したチェコ人たちは、皇帝(王)の代官をプラハ城の窓から突き落としました。代官たちは、奇跡的に命を取り留めてウイーンに逃げ込みます。これが、三十年戦争のきっかけとなった「窓外放擲事件」です(1618年5月)。

冷静な皇帝マティアスは、平和的な話し合いによってこのトラブルを打開しようと努力したのですが、不幸なことにこの翌年に急逝してしまいました。その後を継いだのが、事もあろうにフェルディナント2世です。プロテスタントを狂信的に憎むこの人物は、チェコ人に対する一切の妥協を拒否します。

 

②白山の戦い

もはや妥協が不可能と知ったチェコ人たちは、フェルディナントのボヘミア王位を否定し、プラハに議会を招集して、プロテスタントのファルツ選帝侯フリードリヒを新たなボヘミア王に選出しました。

これに激怒したフェルディナントは、他の選帝侯たちの支持の元に神聖ローマ皇帝に即位すると、ボヘミア王国とファルツ選帝候国を謀反人と決め付けました。彼としては、中欧で最も豊かな国を手放したくなかったのです。やっぱり、宗教ではなく経済的要因が大きいのです。

こうして、ついに戦争が始まりました。

このときは誰もが、短期に終わる局地戦争だと思ったでしょう。

最初のうちは、チェコ軍が優勢でした。イギリスやフランス(ハプスブルク家が嫌い)は影ながらチェコを支持したし、またトランシルバニア公国のべトレン・ガボール公(プロテスタント)も反ハプスブルク戦争に名乗りをあげてチェコを支援したからです。勇気付けられたチェコ軍は、一時はウイーン近郊まで攻め寄せました。

窮地に立ったフェルディナントは、外交の力でこの苦境を乗り切ります。南ドイツに飛んだ彼は、旧教同盟(リーガ)の支援を取り付けるため、なりふり構わない態度に出ました。バイエルン候マクシミリアン(旧教同盟リーガのリーダーで、ミュンヘンを中心としたドイツ南部を支配していた)を、戦後、ファルツ候に代えて選帝侯に加えるという密約を交わし、また、オーストリア 領の一部をバイエルンに担保提供することによって、軍資金とともにリーガの信頼を獲得しました。

次に、スペイン(彼の一門が支配していた)を動かして、ボヘミアに伍したファルツ選帝侯領を西方から攻撃させたのです。さらに、カトリックを支持する少数派のチェコ人貴族を唆し、ボヘミア各地でゲリラをさせました。このとき活躍したのが、ブコイ候やヴァレンシュタインです。

こうしたフェルディナントの反撃によって、ファルツ選帝侯領(ドイツ西部のライン川沿岸地方)は、西方から侵入してきたスペインの大軍によってあっというまに占領されました。プラハに座すボヘミア新王フリードリヒ5世は、本拠地を失って動揺します。また、ハンガリーからのガボールの援軍も、モラビア(チェコ東部)でヴァレンシュタイン軍に抑止されてしまいました。

ここで、ハンガリー情勢について解説しましょう。東欧の強国ハンガリーは、この当時、オスマントルコの侵攻によって国土を三分されていました。中央部はトルコの植民地、西部(現在のスロヴァキア周辺)はオーストリア・ハプスブルク家の植民地、そして東部(現在のルーマニア北部)はハンガリー貴族が治めるトランシルバニア公国になっていたのです。

ガボール公率いるトランシルバニア公国が、三十年戦争に際して反ハプスブルク挙兵をした理由は、この国がプロテスタント信仰だったからですが、実はそれだけではありません。当時、休戦協定を結んでいたトルコから、莫大な資金援助があったのです。トルコは、トランシルバニアの力を用いて、潜在的な敵手であるオーストリア(トルコ自身とは和睦中だった)を弱めてやろうと画策したのでした。そして、そんなトルコの背後には、ハプスブルク家を憎むフランスの影がありました。・・・ヨーロッパ外交の、いかに複雑でしたたかなことか。

しかし、チェコとファルツの最大の誤算は、北方のプロテスタント強国であるブランデンブルク辺境伯やザクセン選帝侯が、中立を決め込んで援軍を出さなかったことです。彼らは、この時点では神聖ローマ皇帝と敵対したくなかったのです。また、同じプロテスタント同士といっても、ルター派を奉じるドイツ北部諸侯は、カルバン派の息のかかったチェコやファルツとは、もともと不仲でした。プロテスタント内部にこのような不協和音があったことが、三十年戦争を複雑で悲惨なものにした一因だったのです。

こうした誤算を前に、チェコ軍はウイーン攻略をあきらめてプラハに引き返しました。

そこに、バイエルンとオーストリアの連合軍が襲い掛かったのです。決戦は、プラハ北郊で行われました。これが「白山(チェコ語でビーラー・ホラ、ドイツ語でヴァイサーベルク)の戦い」です(1620年11月8日)。

バイエルン軍の名将ティリーの采配は冴えに冴え、わずか2時間の戦いでチェコ軍は敗走しました。

かつて精強無比と恐れられたチェコ軍には、昔日の面影はありませんでした。チェコの貴族たちは、ここ100年もの間、農民を奴隷同然に扱って搾取を続けたために民心を失っていました。また、財政が逼迫していたプラハ市は、マンスフェルトらの率いる傭兵軍にまともに給料を支払えなかったのです。しかも、肝心のフリードリヒ王は、本国を占領されたショックゆえか、プラハ城に閉じこもって戦場に出てきませんでした。一説によると、教会でお祈りを捧げていた、あるいは飲んだくれていたという説もあります。いずれにせよ、バカ殿ですな。

こうして、士気が低く指揮命令系統もバラバラのチェコ軍は、開戦後わずか2時間で戦意を喪失してしまったのでした。

敗北の知らせを受けたフリードリヒ王は、恐怖に駆られ、馬車に乗ってプラハ城から逃げ出しました。この人は、冬の間しかボヘミア王位にいなかったので、「ボヘミア冬王」と揶揄されます。

こうして、プラハ市は無血占領されました。誰もが、「戦争は決着した」と考えた瞬間でしょう。ところが、それは大間違い。これが「始まり」だったのです。

 

③過酷な戦後処理

オーストリアの、占領下チェコに対する報復は、酸鼻を極めました。

まずは、大貴族、市会議員、大学総長といった首謀者27名を斬首します。彼らの死体はバラバラにされ、鉄籠に入れられてカレル橋の塔から吊り下げられ、白骨化するまで放置されました。

また、敵対したチェコ系貴族たちは、その所領を全てオーストリアに没収されました。こうしてチェコ全土の3/4が主人のいない土地となり、代わってそこに入り込んだのが、オーストリアと旧教同盟に名を連ねる貴族たちだったのです。

これを見ると、フェルディナントを唆して戦争に持ち込んだのは、チェコ占領によって利権伸長を狙う彼の取り巻きたちだったのかもしれませんね。なんとなく、「イラク戦争」を彷彿とさせるものがあります。

次に、住民に対する弾圧が開幕しました。当時、チェコ人の90%がプロテスタントだったのですが、彼らは占領軍によって強制的に改宗させられたのです。これを拒否する者は、全財産を没収された上で国外追放されました。その結果、5万世帯15万人の老若男女が荒野で野垂れ死にしたと言われています。

やむなくカトリックに改宗した者たちへの締め付けも残酷でした。学校ではチェコ語教育が禁止され、チェコ史の教育も否定され、極端な「ドイツ化」が進められたのです。

チェコに対する占領政策が、ここまで過酷なものとなろうとは誰も予想出来なかったでしょう。

恐怖にかられた逃亡中の冬王フリードリヒは、フェルディナント皇帝に休戦と恩赦を申し入れたのですが、これは完全に拒否されました。

狂信者のフェルディナントにとって、プロテスタント信奉者は「人間以下」だったのかもしれませんね。

仕方なく、徹底抗戦を決意するフリードリヒ冬王。おりしも、スペインとオランダの休戦期間が終わったので、ファルツ領を占領していたスペイン軍が、オランダを攻撃するために西方に移動しました。その隙にすかさず旧領を回復した冬王は、悪名高き傭兵隊長マンスフェルトの助けを借りて反撃の烽火をあげます(1622年)。しかしこの壮挙は、バイエルンの誇る名将ティリーの采配の前に敢え無く粉砕されてしまったのです。

フリードリヒ冬王はオランダに、マンスフェルトはデンマークに逃れました。

この間、トランシルバニアのガボール公は、再び勢威を取り戻してチェコ東部に侵入し、ウイーン突入の機会を窺ったのですが、すかさず駆けつけた皇帝派貴族ヴァレンシュタインの軍によって撃退されてしまいました。

こうして、三十年戦争の第一幕、「ボヘミア・ファルツ戦争」は、皇帝方の勝利として終結したのです。