歴史ぱびりよん

第五章 フランス戦争

 

①プラハ条約

②フランスの参戦

③戦争のための戦争

④ウェストファリア条約

 


 

 

プラハ条約

そのころ、スウェーデン本国では、グスタヴの一人娘クリスティーナが即位していました。この女王はわずかに6歳。そのため、亡父の親友でもある宰相ウクセンシェルナが実権を握ったこの国は、ますます戦争にのめりこんでしまいました。母国から続々とドイツに出征する若者たち。この結果、小国スウェーデンの青年人口は半減したとも言われています。

一方、皇帝軍では、ヴァレンシュタイン亡き後、父と同じ名を持つ皇太子フェルディナントが総司令官になっていました。帝国は、亡きヴァレンシュタインが創始した「軍税制度」を換骨奪胎し、巨大な軍勢を維持する仕組みを作っていたのです。皇帝は、それが可能であると確信していたからこそ、ヴァレンシュタイン抹殺に踏み切れたのかもしれません。

さて1634年7月、新教派のスウェーデン軍、傭兵隊長ベルンハルト、そして同アルニムの連合軍は、ミュンヘンとプラハ攻略を目指して南下を開始。その総勢は2万5千。

これを迎え撃つのは、皇太子フェルディナント率いる新型傭兵軍団。この軍団には、オランダを進発してきたスペイン軍も合流し、3万3千の大軍に膨張しました。

1634年9月6日、両軍はネルトリンゲンの荒野で激突し、皇帝軍は新教連合軍に大勝しました。軍勢の数で勝るだけでなく、父親と同じ名を持つ26歳の皇太子は、なかなか優秀な司令官だったのです。これに対する新教連合軍は、数こそ多いけれど、指揮命令系統がバラバラの雑軍でしかなかったのでした。

戦死者1万7千という壊滅的打撃を受けたスウェーデン軍は、成すすべもなく北方に逃げ散りました。新教派の拠点は、北上を開始した皇太子およびスペイン軍によって次々に陥落していきます。

ここにようやく和平の機運がみなぎり、プラハで平和会議が開催されたのです。

さすがのフェルディナント皇帝も、国内の荒廃の深刻さにようやく気づきました。相次ぐ略奪とそれに付随する疫病の蔓延によって中欧の経済圏は壊滅状態となり、せっかくの「軍税制度」も、その収奪相手すら見つからない有り様です。そんな皇帝軍は今や、スペインからの財政援助と軍事支援によってかろうじて支えられていたのです。このままではジリ貧です。そんな中で勝ち取ったネルトリンゲンとそれに続く勝利は、ハプスブルク家が有利に戦争を終えられる最後の機会でした。

プラハでの虚虚実実の駆け引きの後、皇帝フェルディナントはついに「回復勅令」の撤回に合意。その見返りに、諸侯に皇太子フェルディンナントの神聖ローマ皇帝位を保証してもらいました。また皇帝は、神聖ローマ帝国諸侯による党派や同盟の結成を永久に禁止したのです。バイエルン候は、最初は反対したのですが、「選帝侯位の世襲」を餌に懐柔されてしまいます。こうして、ドイツ諸侯は次々に「プラハ平和条約」に署名して行きました。

時に、1635年5月30日、皇帝フェルディナントは、「新教徒の撲滅」という不毛な夢を捨てた見返りに、「神聖ローマ帝国内でのヘゲモニーの完全確立」という多大な成果を勝ち得たのです。これは、ハプスブルク家の勝利によって、三十年戦争が終結したかに思えた瞬間でした。

皇帝フェルディナントは、安心したためか、この2年後に逝去します(1637年2月8日)。戦争の幕を開いた張本人は、幸せな思いを噛み締めて逝ったわけです。これはちょっと、納得行きませんな。

 

 フランスの参戦

宰相ウクセンシェルナ率いるスウェーデン軍は、プラハ条約の締結によって窮地に立たされました。完全にドイツ国内で孤立してしまった彼らは、最後の希望を「フランスの参戦」に繋ぐのです。

フランスは、プラハ条約の内容を見て神経を尖らせました。「ハプスブルク家による神聖ローマ帝国完全掌握」は、すなわち近い将来のドイツ統一を意味します。これは、フランスにとって死活問題です。また、宰相リシュリーは、ドイツの混乱に付け込んでこの地方に進出しようという積極的な野心も抱いていました。神聖ローマ帝国の実権をフランスが握ろうというのです。

こうして、ついにフランスが起ち上がりました。しかし、フランスはオーストリアとは直接的な利害対立を起こしていなかったので、彼に宣戦するのは大義名分が立ちません。そこで宰相リシュリーは、「スペインに対する宣戦布告」を行ったのです(1635年5月12日)。もともとフランスは、オランダ情勢などを巡ってスペインと対立関係にありましたから、彼に戦争を挑むのなら大義名分が立ったのです。そして、スペインとオーストリアは、ともにハプスブルク家が支配する一身同体の間柄。・・・何やらややこしいですが、こうしてフランスの大軍が、ライン川を突破してドイツ領内に雪崩れ込んだのでした。

それにしても、カトリック国のフランスが、プロテスタント国のスウェーデンと同盟を組んで、カトリック国のオーストリアに戦いを挑むとは。

三十年戦争は、もはや宗教戦争では無くなっていたのです。いや、もともと宗教戦争というのが「政治的経済的摩擦」を原因として起こるものなのだから、このような成り行きはむしろ当然だったと私は思います。そもそも、「三十年戦争は、どの時点から宗教戦争ではなくなったのか?」という問い自体が、愚問なのではないでしょうか?考えてみれば、ボヘミア・ファルツ戦争のころから、反ハプスブルク陣営(=プロテスタント)の背後にいたのはカトリック国のフランスだったのですからね。繰り返しになりますが、宗教そのものが原因となる戦争なんて、歴史の中に一つもないのです。

さて、フランスの本格介入によって元気を取り戻したスウェーデン軍は、バネル将軍やトルステンソン将軍が必死に奮闘して戦局を挽回。かくして、財政難のハプスブルク家は窮状に立たされました。

 

③戦争のための戦争

ネルトリンゲン会戦の名将・皇太子フェルディナントは、父の死後、即位して皇帝フェルディナント3世になったため、ウイーンから出ることが出来ません。代わりに皇帝軍司令官に就任した皇弟レオパルドは、その能力不足がたたって各地で苦戦の連続でした。こんなことなら、ヴァレンシュタインを殺さなきゃ良かったのにねえ。

「フランス戦争」の戦局を詳述していると、訳が分からなくなります。

・フランス軍の先鋒となった傭兵隊長ベルンハルトは、奮戦してアルザス地方を征服したものの、その後の料金交渉で雇い主と揉めてハプスブルク側に寝返ろうとしたところを、宰相リシュリーの刺客に暗殺された(1639年7月18日)。

・スウェーデン軍のバネル将軍が、宰相ウクセンシェルナと対立して敵に寝返ろうとした矢先に病死した。これを見た皇帝軍はシレジェンに進出したが、第二次ブライテンフェルトの戦い(1642年11月2日)でスウェーデンのトルステンソン将軍の軍略の前に大敗を喫した。

・スウェーデンの一人勝ちを恐れたデンマークがハプスブルク側に付いたので、今度は、同じ新教徒同士であるスウェーデンとデンマークの戦争が始まった(1643年夏)。

・同じころ、パリを目指して進撃したスペイン軍は、ロクロワの戦い(1643年5月19日)で大敗し、これによってスペイン軍の戦力は激減した。

・しかし、同年11月24日のツトリンゲン会戦は皇帝軍の大勝利となり、これに敗れたフランスは、ドナウ河方面への突進を諦めざるを得なかった。

・その間、デンマークを屈服させたスウェーデン軍がチェコに侵入し、ヤンカウ会戦で皇帝軍を撃破した(1645年2月24日)。プラハにいた皇帝は、命からがらウイーンに逃走した。

・トランシルバニア公ラコーティが、ガボールの意志を受け継いで皇帝軍に宣戦布告した(1644~1647年)。窮した皇帝は、ハンガリー領の7県を割譲して彼に兵を退いてもらうしかなかった。

・皇弟レオパルドは、起死回生の逆転をかけてフランス領内に進撃し、ランスを包囲したものの、フランスのコンデ公の逆襲を受けて四散した(1648年8月10日)。

  

何がなんだか、グチャグチャで訳が分からないでしょう?

もはや、「戦争の大義」は失われていました。もはや、宗教戦争でも領土獲得戦争でもありません。英雄の活躍もありません。騎士道精神もありません。そこに見られるのは、「戦争のための戦争」です。「殺人のための殺人」です。「略奪のための略奪」です。

老若男女の屍骸が地に満ち腐臭を放つ上を、ボロをまとった生気のない軍隊が、妻妾や劇団の群れを連れてあてもなく彷徨する。今や軍隊は、「飯を食うため」に生存している野獣の群れに成り下がっていたのです。

 

④ウェストファリア条約

この間、フランスとスウェーデンの優勢を見たドイツ諸侯は、次々に「プラハ条約の破棄」を通告しました(1640年12月~)。もともと彼らは、「ハプスブルク家の一人勝ち」が我慢できなかったのです。

この裏切り行為に激怒したハプスブルク家ですが、ドイツ国内での苦戦に加えて、頼みの綱のスペイン軍が、オランダとフランスの連合軍に攻め立てられて壊滅状態になっていました。弱気になった皇帝は、プラハ条約をご破算にして、新たな条約に応じる決意をしたのです。亡父の夢を踏みにじるのは、さぞかし無念だったことでしょうけれど。

こうして、ウェストファリア候国(ここは、比較的戦災が軽かった)を舞台に、国際会議が開かれました(1644年12月~)。しかし、参加66ヶ国、参加人員148人というこの巨大な会議は、なかなか話が纏まりません。会議室の中に、もう30年近くも戦争に明け暮れた当事者たちの怒りと恨みが充満し、冷静な話し合いどころじゃないのです。会議の決着まで3年もかかったのは、定めし当然のことだったでしょう。

この3年の間、ハプスブルク軍の旗色はますます悪くなっていました。また、ドイツとチェコに住む民衆の苦痛は、ますます筆舌に尽くしがたいものになっていました。

1648年7月26日、チェコの首都プラハは、圧倒的なスウェーデンの大軍に包囲されました。スウェーデン軍は、城壁越しに、プラハ市民に内応を呼びかけたのです。「俺たちプロテスタントは、君たちを解放しにやって来たのだよ!」。しかし、プラハ市民は占領者であるハプスブルク家に加担し、むしろ積極的にスウェーデンと戦ったのです。彼らは、もう懲り懲りだったのです。スウェーデンには、速やかに故国にお引取り願いたかったのです。

どうしても陥落しないプラハに業を煮やし、スウェーデン軍はこの地に続々と軍勢を集結させました。

しかし、ちょうどそのころウェストファリアでは、交渉が纏まりつつあったのです。その最大の功労者は、皮肉なことにスウェーデンのクリスティーナ女王でした。女王は、賠償金などを諦めて、かなり妥協的な講和条件を受け入れたのです。それでもスウェーデンは、バルト海沿岸地域の権益だけは確保しました。スウェーデンの犠牲的な奮闘は、決して無駄にはならなかったのです。

これを受けて、ハプスブルク家はドイツ統一の野望を捨てました。フェルディナント3世は、皇帝を名乗りながらも、実質的にオーストリアとチェコのみを領有する封建諸侯に後退したのです。唯一の成果は、チェコをその植民地に出来たことくらいでしょうか?だったら、「ボヘミア・ファルツ戦争」の時点で戦争を止めていれば良かったのに。何のために、あれほどの犠牲を払ったのでしょうか?まあ、毒づくべき相手は、皇帝の亡父なんですけどね。

ハプスブルク家の妥協の結果、300ものドイツ諸侯は、ほぼ完全な自治権を獲得しました。

統一ドイツの誕生を病的に恐れていたフランスとイギリスは、これを見て大喜びですね。ドイツの近代化が、三十年戦争によって100年も遅れたと言われるのは、まさにこのためでした。

そしてこの瞬間、神聖ローマ帝国は事実上崩壊したのです。ウェストファリア条約は、しばしば「神聖ローマ帝国の死亡診断書」と呼ばれます。

宗教については、「回復勅令」はもちろん「アウグスブルク和約」さえ否決されました。その結果、ドイツ諸侯はもちろん個々の国民も、原則として好きな宗派を自由に選択して良いことになったのです。カトリックを全ドイツに広めようとした故フェルディナント2世の野望は、こうして、宗教面でも潰え去ったのです。

講和条約の成立は、ウェストファリア城から打ち出される70門もの祝砲で彩られました。時に、1648年10月24日の出来事でした。

そのころプラハでは、王族カール・グスタフに率いられたスウェーデン軍による最後の総攻撃が準備されていました。そして、攻撃寸前の11月2日になって、駆けつけた早馬が「戦争の完全終結」を告げたのです。その瞬間、スウェーデンの諸将の胸中に飛来したのは、いったい何だったのでしょうか?

三十年戦争は、その勃発の地であるプラハにおいて、ようやっと終わりを迎えたのです。