歴史ぱびりよん

第六話 真実の求道者ヤン・フス

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プラハ旧市街広場~ヤン・フス像

チェコが生んだ最大の英雄は誰でしょう?こう聞かれて、ほとんどのチェコ人が迷わず挙げる名は、「ヤン・フス」でしょう。

英雄といえば、戦争の名人を挙げるのが一般的です。でも、この偉人は終生、誰も殺しませんでした。むしろ、命の尊さを訴え続けた人です。このような人を最大の英雄に位置付けることに、チェコ人の国民性が良く現れていると思うのです。

 

さて、プラハ大学の話です。ここは、前述のように、創立当初は中欧で唯一の大学だったので、ドイツ、東欧圏から学生が殺到しました。そのため、チェコに置かれた大学でありながら、人口比でチェコ人の学生が少なくなってしまい、彼らは大学組織の中で劣後的な扱いを受けていました。大学では主にラテン語が用いられ、チェコ語を話すチェコ人たちは、肩身の狭い思いをしていたのです。

やがて、ポーランドやドイツにも大学が出来るようになると、外国人学生はそちらに移っていったため、プラハ大学のチェコ人は相対的に力を持ってきます。彼らは、チェコ人総長を選出するなどして(1409年)、外国人(特にドイツ人)勢力に対抗するようになっていきました。この最初のチェコ人総長こそ、ヤン・フスだったのです。

ヤン・フスは、南ボヘミアのフシネッツ村に、貧しい農家の子として生まれました。その聡明ぶりが司祭の眼に止まり、学資の援助を受けてプラハ大学の自由学芸部に入ります。ここで秀才振りを発揮した彼は、主席で卒業した後、大学教授及び聖職者に叙任され、プラハ旧市街で説教師の任に就くのです。当時の説教は、ラテン語を用いた難解なものであるのが普通だったのですが、フスは、チェコ語を用いた分かり易い説法で大衆の人気を獲得したのです。

そんなフスは、ウイクリフの宗教改革思想に強く影響されていました。彼は、腐敗し堕落したカトリック教会を強く弾劾し、信仰の理想を聖書の中に求めたのです。そのため、彼は庶民にも分かるような易しいチェコ語の説教書を次々に著述し、これがチェコ語の正字法になったと言われています。今日のチェコ語を確立したのは、この先生だったのです。

ここで重要なのは、フスは宗教改革者である以上に、民族啓蒙者だったということです。チェコ人の多くは、オタカル2世の誘致政策以来、その勢力を増していくドイツ系移民たちに反感を募らせていました。フスのチェコ人寄りの説法や著作は、そんな彼らの民族意識を大きく掻き立てたのです。

フスの口癖は「真実」でした。人は、それぞれの心の正義を模索し、より神に近い生活を送るべきだと言うのです。中世末期の欧州では、「個人」という概念がようやく脚光を浴びてきました。王や教会の言いなりになるのではなく、個人の信念に基づいて生きること。これが、フスの言う「真実」でした。彼の思想は、近世の先駆けだったのです。

さて、フスの強烈なカリスマ性は、カトリック教会の恐怖感を煽り立てました。彼らは、己の利権を維持するために、反対勢力を「異端」の名のもとに葬り去らねばなりません。

おりしも、ドイツ南部のコンスタンツで、教会大分裂を終わらせるための国際会議が開催されることになりました。フスは、この会議にゲストとして招待されました。彼は、この場でカトリック教会の腐敗を指弾し、改革を呼びかけようと心ぐんでいました。フスの同志たちは、先生の身を危ぶんでコンスタンツ行きに反対だったのですが、神聖ローマ皇帝ジギスムントが「安全通行証」を支給してくれたので油断してしまいます。

しかし、これは教会勢力の罠でした。コンスタンツに到着したフスは問答無用で逮捕され、異端の罪で審問された挙句、火あぶりになってしまいます(1415年)。皇帝は、教会勢力のごり押しの前に、「安全通行証」を無効にせざるを得なかったのです。

この事件は、チェコ人たちを大いに憤激させました。フスを慕うチェコ人たちは、反カトリックの旗を掲げ、いわゆる「フス派」を結成します。チェコ全土で、フス派とカトリックの熾烈な暗闘が繰り広げられ、やがてこれが欧州全土を揺るがす大事件に発展するのです。