歴史ぱびりよん

第十八話 ドヴォルザークの新世界

チェコが生んだ最も有名な作曲家は、何と言ってもアントン・ドヴォルザーク(正確なチェコ語表記ではアントニーン・ドヴォジャーク、1841~1904年)でしょう。

プラハ北方の村で、肉屋の息子として生まれたドヴォルザークは、村の楽団で演奏をしていた父の影響で音楽の才能に目覚めます。そして、家族の反対を押し切って家を飛び出し、プラハで音楽の勉強をするのです。チェコフィルに入った彼は、スメタナの下でビオラ奏者となり、少しずつ作曲活動に取り掛かっていきます。

当時のチェコでは、「民族復興運動」が全盛期でしたが、ハプスブルク家は、ハンガリーとの抗争に苦しんでいたため、チェコのこの運動を黙認するしかありませんでした。特にプラハではこの運動の勢いが強く、劇場も大学も、チェコ人とドイツ人とで建物が異なるほどに、民族間の対立が激しかったのです。

しかしドヴォルザークは、伝統的なスラヴ音楽にドイツ音楽の美質を取り入れて、玄妙なメロディを生み出します。こうして、「スラヴ舞曲」などの名作が誕生します。

名声を高めたドヴォルザークは、更なる飛躍の機会に恵まれました。ニューヨークの音楽院に招請されたのです。この地で黒人霊歌の素晴らしさを知った彼は、自分の作風にさっそくこれを取り入れます。晩年の名作「アメリカ」、「チェロ協奏曲」、「交響曲第九番『新世界より』」は、まさにスラヴ、ゲルマン、アメリカ黒人音楽の諸要素の玄妙な結合体だったのです。

既成観念に囚われず、様々な文化を吸収していったドヴォルザークは、メロディメーカーとしては師匠のスメタナを凌ぐ技量を発揮しました。彼の活動は、いわゆる「民族復興運動」の狭い枠に収まりきらない広さと深さを持っていたのです。

彼の肖像画を見ると、いかにも「肉屋のせがれ」といった猛々しさを感じさせる風貌ですが、汽車や船が大好きだったという、お茶目な一面も持っていたようです。

チェコの文化を担ったスメタナとドヴォルザークは、どちらも「高い城」のスラヴィーン墓地に葬られています。

 

さて、偉大な文化人たちの活動によって「民族復興運動」が進んだ結果、チェコ国内では独立の気運が高まっていきました。

19世紀終盤、ハンガリーはついにハプスブルク家との闘争に成果を収め、独立国としての体面を回復します。すなわち、「オーストリア=ハンガリー二重帝国」の成立です。その背景には、フランツ=ヨゼフ2世の皇后エリザベートが、大のハンガリー贔屓だったことがあるようです。

これを見たチェコ人たちは、ウイーンの皇帝に誓願し、自分たちも独立国にしてもらおうとしました。つまり、「オーストリア=ハンガリー=チェコ三重帝国」の創建を目指したのです。しかし、これは敢え無く失敗に終わりました。ハンガリー人たちの反対が大きかったようです。「なんで、チェコの連中が俺たちと同レベルなんだよ!」というノリでしょう。チェコとハンガリーは、昔から仲が悪いのでした。

さて、チェコ国内では様々な政党が乱立し、それぞれが足の引っ張り合いをしながら独立を目指しました。しかし、最終的に大きな成果を挙げたのは、新進の「レアリスト党」でした。その党首こそ、T.G.マサリクだったのです。