歴史ぱびりよん

第二十八話 プラハの春

ソ連の凶暴な独裁者スターリンが没した後、世界は「雪解け」と言われる平和ムードに包まれました。これを契機に、それまでソ連に圧伏されていた東欧諸国で、多彩な民族主義運動が展開されます。

まずは1956年、ハンガリーで「革命」が起きます。しかしこれは、フルシチョフ率いるソ連軍の凶暴な介入を招き、悲惨な流血の下に鎮圧されてしまいました。東欧はまだまだソ連の属国に過ぎず、世界はまだまだ平和になれないことを、人々は思い知ったのです。

それにしても、ハプスブルク家の昔から、ハンガリー人は暴力的な革命を多発して、その度に流血の惨事に見舞われています。これは、彼らの国民性なのでしょうか?面白いのは、やはりチェコ人です。チェコ人は昔から、ハンガリー人の失敗を見た後で、平和的な手段による革命を、そろそろと行う傾向があるようです。その結果、チェコにはハンガリーに比べて、歴史的な建築物が多数現存しているという事なのでしょう。

さて、1968年、「チェコスロヴァキア作家同盟」の活動によって、この国にも自由化のそよ風が漂い始めます。さらに、スロヴァキア出身のアレクサンドル・ドブチェク(1921~92)が共産党の第一書記に就任すると、チェコスロヴァキアの社会主義は、大きな変動に見舞われます。具体的には、言論と出版の自由化を行い、市民一人一人の声が政治に反映できるような、「人間の顔をした社会主義」を目指したのです。それまで地下に潜んでいた自由主義の有識者は、争って活発な言論活動を行い、文化人たちは自由で独創的な著作を行うようになりました。これが、いわゆる「プラハの春」です。

チェコの豊かな文化は、再び大きく燃え上がったのです。

しかし、これは周辺の社会主義諸国に大きな脅威を与えました。ポーランドのゴムルカや東ドイツのウルプリヒトは、軍隊と警察の力で、国民を強圧的に抑え込んで搾取を行う独裁者でした。彼らは、チェコから自由化の風が吹いて、自分たちの足元が崩されることを病的に恐れたのです。

また、チェコの改革が、文化面のみならず社会構造にまで及びかねない様子を見たソ連のブレジネフは、これが既成秩序崩壊の引き金になることを恐れました。

こうして、軍事介入が始まります。いわゆる「チェコ事件」です。

1968年8月、ソ連軍を中心としたワルシャワ条約機構軍50万は、チェコスロヴァキアの全国境からいっせいに侵入を開始しました。彼らは、「チェコの人民を、凶悪な反乱分子から守るため」という、訳のわからない大義名分を掲げたのです。

空挺部隊はプラハ城に降下し、たちまちスボボタ大統領やドブチェク党第一書記を拉致し、モスクワへ連行しました。チェコスロヴァキア全土は、ソ連製戦車の群れに埋め尽くされ、人々はあまりの非道な出来事に呆然となりました。

しかし、冷静さを取り戻したチェコ人たちは、必死の反撃を開始しました。武力ではなく、文化と言論の力で、凶悪な占領軍に抵抗を開始したのです。