歴史ぱびりよん

第二十九話 非暴力の戦い

ワルシャワ条約軍の侵攻を知ったとき、スボボタ大統領とドブチェク党第一書記は、チェコスロヴァキアの全軍に「武装解除」を厳命しました。戦っても勝ち目はないと判断し、無用な流血を避けたのです。しかし、彼らは市民たちに、「言論と文化の力で侵略者に抵抗しよう」と呼びかけました。そして、ドブチェクを尊敬する多くのチェコスロヴァキア人が、これに従ったのです。

市民たちは、道路標識や表札をいっせいに剥がし、侵略者たちを路頭に迷わせました。あるソ連軍部隊などは、3日間もボヘミアの森の中をウロウロしたそうです。

なんとか都市部に辿り着いた侵略者たちは、今度は市民たちの「説得攻撃」を受けました。市民たちは、ロシア語の出来る者を先頭にしてソ連の戦車によじ登り、「君達は何をしに来たのだ?」「ここには、市民を圧迫する悪党などいないよ。君達は騙されているのだ」「早く故郷に帰りたまえ。家族は心配しているよ」などと呼びかけたのです。

また、若い娘たちは、挑発的な服装で戦車の周りを歩き回り、厳格な軍規に縛られて欲求不満気味のソ連兵を大いに悩ませたのです。

予想外の形の抵抗を受けたワルシャワ条約軍は、大いに混乱しました。自分たちが、解放者どころか単なる侵略者なのだと知らされた兵士の中には、良心に苦しんで自殺する者が続出したそうです。上級指揮官たちは、何度も部隊を入れ替えねばなりませんでした。

モスクワに拉致監禁されたドブチェクは、こうした市民たちの奮闘に応えようと頑張ります。クレムリンの政治家たちは、ドブチェクに「プラハの春」政策を放棄するよう迫るのですが、彼は連日の尋問に耐え続けました。彼は、やがて西側が介入してチェコを助けてくれる事を待ち望んでいたのです。

それにしても、一国の主権者をアジトに拉致監禁して拷問するとは、ソ連って国は、ほとんど暴力団かヤクザみたいなものだったんですねえ。呆れてしまいますわ。

しかし、ドブチェクとチェコ市民が待ち望んだ西側の援軍は、とうとうやって来ませんでした。チェコの人々は、ミュンヘン協定のときと同様に、またもや見捨てられたのです。西側が示した唯一の好意は、おりしも開催中のメキシコ五輪で、チェコの女子体操選手ヴェラ・チャスラフスカに金メダルを授けたことでした。

占領1週間目に入ると、さすがに辛抱強いチェコ人も怒りを抑えきれず、各地で流血沙汰が相次ぎました。モスクワのドブチェクも、ほとんど睡眠を取る事が出来ず、その体力は限界に近づきました。最初に屈服したのは、老齢のスボボタ大統領です。彼は、これ以上の抵抗は無駄であると、ドブチェクを説得したのです。

ドブチェクも、チェコで市民と兵士の衝突が起きていると聞き、ついに諦めます。彼は、無益な流血を避けるため、涙を呑んで「己の誤り」をブレジネフに表明したのです。

こうして、「プラハの春」は終焉を迎えました。

帰国したドブチェクは、20歳も老け込んだ様子で、喘ぎながら国民にこの事実を伝えたのです。彼の怒りと悲しみは、恐らく玉音放送に臨む昭和天皇を数倍するものがあったでしょう。

ドブチェクは、直ちに党第一書記を罷免され、スロヴァキアの田舎で林業を監督することになりました。ビロード革命の後に中央に返り咲きますが、やがて自動車事故で亡くなります。祖国の解放をその目で見ることができたのが、せめてもの幸せだったかもしれません。

年が明けた1969年、一人の学生が、プラハ新市街の聖ヴァーツラフ像の前に立っていました。彼は、手荷物の中からガソリンの小瓶を取り出すと、これを己の全身にかけて火を点けたのです。青年ヤン・パラフは、救助が間に合わずに死亡しました。彼は、屈辱と悲しみに沈むチェコ市民に対して、自らの死をもって「聖ヴァーツラフとヤン・フスを忘れるな!」と呼びかけて勇気を与えようとしたのです。

聖ヴァーツラフ像の前には、今でも献花が絶えることはありません・・・。