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1.アメリカ合衆国の参戦
2.戦争を終わらせた疫病
3.戦火止む
4.暗黒の戦後へ
1.アメリカ合衆国の参戦
さて、話を戻しましょう。
ドイツ参謀本部は、ロシアの大戦からの脱落に大喜びでした。「シュリーフェン計画」は大失敗だったわけですが、ここでようやく汚名を拭った気分だったでしょう。しかも、ようやく二正面作戦から解放されて、西部戦線に特化することが出来るのです。
っていうか、ドイツは最初から、ロシアとだけ戦争すれば良かったのにね。
ところがドイツは、地球の反対側で、致命的な大失策をやらかします。アメリカ合衆国を怒らせて、この国を参戦させてしまったのです。
前述のように、アメリカはヨーロッパの動静に興味を持っていませんでした。西欧列強が混乱している隙に、中南米虐めを強化しようと考えていたからです。
しかしながら、ドイツ海軍が潜水艦(Uボート)を大西洋に並べて、イギリス船舶の攻撃を始めたころから雲行きが怪しくなりました。ドイツはもちろん、島国であるイギリスを兵糧攻めに掛けるために、こういうことを始めたわけですが、これはイギリスの親密な貿易相手であるアメリカにとって深刻な不利益でした。それどころか、1915年には、Uボートに輸送船と間違えられて撃沈されたイギリス客船ルシタニア号ととともに、多くのアメリカ民間人が海の藻屑となっています。
このドイツ海軍の「無制限潜水艦作戦」は、ドイツ国家をますます国際的孤立へと追いやる愚行でした。政治家はみんな反対したのに、海軍とそれに引っ張られたヴィルヘルム皇帝が強引に押し切ったのです。目先の軍事的利益しか考えない官僚と、それに無条件に従う愚かな指導者の悪例が、ここに再びです。
こうして、次第にドイツへの苛立ちを強めていくアメリカ世論でしたが、この国の政治中枢を動かす上で決定的だったのが「ツィンメルマン電報事件」です。
1917年1月、時のドイツ外相ツィンメルマンは、メキシコ政府に向けて暗号電報を発しました。その内容は、「メキシコがドイツと同盟してアメリカを挟み撃ちにするのであれば、かつてメキシコがアメリカによって奪われた領土を回復してあげる」との趣旨でした。おまけに、この秘密同盟に日本を加えることも提案していました。
この電報はイギリス海軍によって解読され、アメリカ政府に伝えられました。当初は、あまりにも夢想的な文面ゆえ、何かの間違いか敵側の謀略だと思われたのですが、ツィンメルマン外相ご本人が、ご丁寧にも、電報の内容が大マジメであることを公言したのです。
激怒したアメリカ議会が、ドイツへの宣戦布告を決議したのは4月6日でした。
アメリカは、ヨーロッパにはまったく興味無かったのですが、中南米特にメキシコの情勢に神経を尖らせていました。ドイツが、よりによってそのメキシコを焚き付けるとなれば、政治家のみならず、国民世論も我慢なりません。ドイツを叩き潰すしかなくなります。
ドイツ外相は、こういったことがまったく理解出来ていなかったようです。
っていうか、仮にドイツとメキシコが同盟したとしても、アメリカと戦うのは当面、メキシコ一国です。だけど、メキシコがアメリカとタイマン張って勝てるわけがないでしょう?しかも、そこに既に連合国の一員としてドイツと戦っている日本も巻き込むなんて、あまりにも事実認識が狂っています。
おそらく、ツィンメルマン外相一人がアホウだったわけではなくて、その背後にいる中二病皇帝ヴィルヘルムの気まぐれこそが諸悪の根源だったと思います。この皇帝の腰の据わらない外交のやり方は、昔からずっとこんな感じでしたから。
いずれにせよドイツは、たった一通の電報によって、自らの死刑執行令に署名したのです。
2.戦争を終わらせた疫病
1918年3月、東部戦線から引き抜かれたドイツ軍の大兵力が、ルーテンドルフ将軍の指揮のもと、西部戦線に襲い掛かりました。ドイツ帝国軍の最後の総攻撃です。
イギリス、フランス、そしてアメリカ軍がこれを迎え撃ちます。
しかしながら、このドイツ軍の猛攻を破砕し、それどころか戦争を終結させる上で貢献したのは、援軍に駆けつけたアメリカ軍ではなく、むしろ彼らがヨーロッパに持ち込んだ疫病でした。
1918年から1919年にかけて、全世界で5,000万人を殺したと言われるインフルエンザは、俗に「スペイン風邪」と呼ばれています。これは、このインフルエンザに関する最初の報道がスペインでなされたことから名づけられた名前であって、実際の発生源はアメリカ合衆国です。
第一次大戦の参加国は、自軍兵士の罹患状況に関する戦略情報を秘匿するため、この疫病について厳重な報道管制を敷きました。その結果、国際的な防疫体制を敷くことが不可能となり、史上空前のパンデミックを起こしてしまったのです。
最後の突撃を仕掛けたドイツ軍は、敵の銃弾よりもむしろ、疫病によって次々に倒れていきました。迎え撃つ連合軍も同様で、不衛生な塹壕の中、無数の兵士が犠牲になって行ったのです。
あまり映画や小説に描かれることがありませんが、実は第一次大戦が終結に向かった最大の理由は、「スペイン風邪」の蔓延だと言われています。人間は、もはや戦争どころではなくなったのです。
もともと第一次世界大戦は、愚かな指導者による愚かな決断によって、「集団的自衛権」が暴走して起きた戦争です。それゆえ、明確な戦争目的が参加者相互間に確立されていなかったので、開戦後まもなくして、どこが戦争のゴールなのか訳が分からなくなっていました。
また、普通はこのような「千日手」に陥った場合、中立の第三国が仲裁に入ることで、休戦なり講和なりといった運びになるのですが、第一次大戦の場合、仲裁能力のある国が全て戦争当事者になってしまったため、そのような成り行きには出来ませんでした。これは、当事者全てにとって誤算だったことでしょう。
そのため、戦争の元凶であったセルビア王国が壊滅し、オーストリア帝国が無力化した後でも、だらだらと4年も続いたのです。
愚かな人類は、際限のない殺し合いを止めてくれた疫病に感謝するべきかもしれません。
3.戦火止む
さて、ドイツが西部大攻勢に失敗したころ、同盟国のオスマン帝国とオーストリア帝国も手詰まりに陥っていました。
オスマン帝国軍は、ロシアの崩壊に便乗してコーカサス地方のバクー油田を占領したのですが、その間、エジプトとイラクから攻め込んだイギリス軍によって、シリア戦線が崩壊しました。有名な「アラビアのロレンス」は、この時にイギリス軍の先兵として活躍した人物です。
オスマン帝国が「ムドロス休戦協定」で連合軍に降伏したのは1918年の10月30日でした。この国の北側に隣接するブルガリアも、ギリシャから侵入した連合国軍に攻め立てられた結果、オスマンに先立つ9月29日に降伏しました。
そのころオーストリアは、チロルを挟んでイタリアと山岳戦を繰り返していたのですが、ひたすら不毛な叩き合いの連続で、やっぱり、あらゆる面で行き詰っていました。そんな彼らが休戦条約を締結したのは、11月3日。
そして、ドイツ帝国が最終的に抗戦を諦めたのは、西部戦線における攻勢の失敗に加えて、同盟諸国が相次いで戦争から脱落したこと。さらにスペイン風邪の猛威があり、そして経済的に行き詰った国内で反乱が頻発するなどの複数の要因が絡み合っての結果でした。
ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は、退位してオランダに亡命。後を受け継いだエーベルト首相の共和政府が、パリ郊外コンピエーニュの森において休戦協定を締結したのが11月11日。
こうして第一次大戦は終わりを迎えたのです。
4.暗黒の戦後へ
コンピエーニュ休戦協定の当日、オーストリア皇帝カールは退位を宣言しました。オーストリア=ハンガリー帝国は、こうして空中分解したのです。
オスマン帝国は、大戦後もかろうじて存続していたのですが、やがてガリポリ戦の英雄ケマル・パシャ(アタチュルク)率いる共和政府によって、スルタン・メフメト6世が国外追放されることで終焉を迎えました(1922年)。
すなわち、世界史を飾っていた「帝国」は、ヨーロッパにおいて完全に消滅したのです。これは、人類史における画期的な進歩でした。ある意味で、第一次大戦とは、そうなるための産みの苦しみだったのかもしれません。
それにしても、4年間にわたる激闘の連続は、全世界で戦死者1,000万人とその数倍の死傷者を生みました。スペイン風邪の死者を含めるなら、その数はさらに数倍になるでしょう。あまりにも多い犠牲でした。
この暴力の嵐は、生き残った人々の心にも多くのトラウマを残しました。すなわち、この戦乱を生き延びた中で、他人の生命や財産に同情心を持たないような、残忍な心の持ち主が増えたのです。ヒトラーのナチスドイツ、あるいはスターリンのソ連の残虐性は、第一次大戦にまで遡って分析しなければ、とうてい理解できないような現象です。
それ以前の問題として、第一次大戦は世界の在り方を大きく歪めました。いわゆるヴェルサイユ条約において、戦勝国の恣意によって引かれた新たな国境線や、まがい物の民族自決、そして敗戦国に対する非常識なまでの損害賠償請求などなど。
この20年後に起きた第二次大戦は、ここで生じた歪みを矯正するための反動だった部分も大きいのです。周知のとおり、第二次大戦は第一次大戦を遥かに大きく上回る惨事でした。
それだけではありません。現代にまで繋がる悲劇の種は、第一次大戦によって蒔かれたものが多いのです。ボスニア紛争、ウクライナとロシアの対立、イスラエルを中心とした数々の中東紛争、そしてイスラム国(ISIL)。
このイスラム国が、打破したいと叫んでいる「サイクス=ピコ条約」は、第一次大戦で生まれたものです。イギリスとフランスが、オスマン帝国の遺領を恣意的に分割支配する際に結んだ協定の名がサイクス=ピコ。現代のアラブ人は、今でもこれを激しく怒っているのです。
第一次大戦はまさに、当事者のみならず、現代に生きる我々にとっても何の得にもならないような戦争でした。