歴史ぱびりよん

第十三話 第三次北伐と外交戦


1、第三次北伐と魏の猛反攻

2、孫権の即位

3、呉蜀の外交戦

 


 

 

1、第三次北伐と魏の猛反攻

第三次北伐は、孔明の名誉挽回のための戦いでした。

彼が狙ったのは、漢中の西に隣接する武都郡と陰平郡です。これは、行政区画の上では魏の雍州に属していますが、住民の90%が異民族という、政治的重要性の極めて低い地域でした。当然、守備兵もほとんどいません。孔明は、この地域を占領することで、とりあえず「俺でも勝つことはあるんだぜ!」と国民にアピールしようと考えたのでした。

孔明は、労せずして勝てると思っていたらしく、将軍の陳式(『正史』の作者・陳寿のお父さん!)の軍勢だけをこの二郡に派遣しました。しかし、魏の雍州長官・郭淮は、大軍を率いて北方より馳せ参じ、迎撃体制に入ったのです。驚いた孔明は、自ら大軍を率いて陳式を救援しました。挟み撃ちになることを恐れた郭淮は、あわてて軍を退きます。

こうして、武都と陰平は蜀漢の掌中に収まりました。経済的にも軍事的にもほとんど意味がないけれど、孔明は初めて魏の領土を奪うことが出来たのです。まあ、太平洋戦争でいうなら、日本軍がアリューシャン列島のアッツ島を奪って「アメリカ領を獲ったぞ!」と大喜びしたようなものですね。

この成果を喜んだ劉禅皇帝は、孔明を元通り丞相に復職させました。

さて、この様子に、魏は焦燥感を強めました。アメリカ軍も、氷に覆われエスキモーしか住まないようなアッツ島の奪還に血眼でしたが、当時の魏も、領土を失いメンツが潰れてイライラしたのです。そこで、大規模な遠征軍を派遣して蜀漢を一気に滅ぼそうと画策したのでした。

大将軍・曹真の率いる関中方面軍は、3つのルートから「蜀の桟道」を南に突破し、司馬懿の荊州方面軍は、上庸から漢水を遡行して東から漢中に突入しようという大規模な作戦。いわば、漢中を袋叩きにしようというわけ。

孔明は、名将・王平を守りの要に位置づけ、漢中盆地にいくつもの城砦を築いてこの巨大な敵を待ち受けました。彼は、かつて劉備が曹操を撃破したあの一戦を再現しようと考えていたのでしょう。しかし、幸か不幸か、天候が魏の遠征軍を無力化させたのです。

おりしもの長雨によって桟道は崩落し、漢水も水かさが増して船団の遡行を妨げました。この情勢を前に、さすがの曹真と司馬懿も、ついに諦めて、なすすべもなく軍を返したのです。

もしも、この長雨がなければ、蜀はどうなっていたでしょうか?圧倒的物量の魏軍を、いつまで支えられたかは疑問です。孔明は、命拾いしたのでした。

『演義』では、第三次北伐について、大激戦の末に孔明が知略で勝利したことにしています。また、長雨による魏軍の撤退も、孔明は事前に予想して、なんの防衛措置も取らなかったことにしています。また、彼は撤退する曹真軍を追撃して大勝利をあげ、その後、失意に沈んだ曹真のもとに悪口満載の手紙を送るのですが、それを読んだ曹真は激怒して病気になって死んでしまうのです。これって、周瑜のときと同じね。

曹真がこの遠征の直後に病死したのは事実ですが、孔明の手紙のせいだというのは、明らかに『演義』の作り話でしょう。『演義』は、何が何でも孔明の智謀を美化したいのでした。

その間、江南では、とんでもないことが起こっていました。

孫権が皇帝を名乗ったのです!

 

2、孫権の即位

孫権の即位は、あまり学者や作家の間では話題になりませんが、東アジア史全体から見ても研究の余地がある重要な出来事だと思います。

229年、孫権は大呉帝国の建国を宣言します。ここに、中国に3人の皇帝が並び立つ異常事態が現出したのです。三国時代というのは、厳密にはこのときに始まったと言えるでしょう。そう考えてみれば、三国時代って、晋の統一(280年)まで、50年しか続かなかったのか・・・。

もともと皇帝は、「王の中の王」という意味なので、中国大陸(および東アジア全体)に一人しかいてはならないものなのです。それが、同時に3人も並立するのは、中国史上で初めての出来事でした。この前例は、中国のみならず東アジア史全体に極めて重要な影響を与えました。これ以降、中国が乱世になるたびに、幾人もの皇帝が乱立するのが当たり前になるからです。いわば、皇帝の権威がインフレを起こしたというわけ。

厳密に言うなら、日本の天皇というのも皇帝の一種です。日本人は、「俺たちは中国と対等なのだ」という自意識をもって、民族のトップを「王」ではなく「天皇」と呼んだのです。中国人は、それを最後まで容認しようとせず、近代にいたるまで天皇のことを「倭王」と呼んでいましたけどね。ともあれ、辺境の島国(中国から見た場合)の酋長が自らを「天皇」などと呼ぶようになったのも、元はといえば三国時代に皇帝の権威がインフレを起こしたことに原因があるのです。歴史って、本当に奥が深くて面白いですね。

それにしても、孫権は、どうして今さらになって帝位に就く気になったのでしょうか?『正史』には説明がないので、いろいろと想像してみる余地があります。

もともと、魏と蜀漢で皇帝が2人も並立することが異常でした。

前に説明したように、魏は「禅譲」という手続きを経て、漢の皇帝から直接、帝位を譲り受けました。陳寿は、『正史』を「魏=正統」という立場で書いていますが、それは当然のことなのです。

それでは蜀漢の正統性はどうか?実は、かなり怪しいです。劉備は、「魏の簒奪を認めない」と主張して、自らが帝位に就きました。その根拠は、彼が「漢王室の子孫だから」という一点に尽きますが、そもそもそれが眉唾なのです。劉備が、皇帝の血筋というのは、ちゃんとした根拠があるわけではありません。本人が、勝手にそう名乗っているだけです。もしもそんな行為が許されるのなら、私も天皇になることが出来ますよ。「俺は桓武平氏の三浦一族の子孫なのだ!したがって、俺の先祖は桓武天皇なのだ!だから、俺を天皇にさせろ!」と主張したら、みなさんはどう思いますか?劉備の主張って、要するにそういうことなのです。まあ、蜀漢という国は「漢の復興」を唯一絶対の教義にしている原理主義国家ですので、そうするしかなかったんでしょうけどね。

でも、お隣の孫権から見れば、劉備の即位というのはかなり間抜けな茶番だっただろうと思います。「山国の過疎国家のボスが、皇帝とはちゃんちゃらおかしいぜ!」と思っていたことでしょう。その蜀漢が、代替わりしてもなんとか頑張っているのを見て、「なんだ、だったら、俺が皇帝になっても別にいいじゃん!考えてみたら、呉の国力は蜀漢の2倍以上だぜ。弱小国家の蜀漢の方が、強大な呉よりも格上ってえのは、どう考えても変だよな」という気持ちになったのでしょう。

また、すでに2人いる皇帝が3人に増えたとしても、そんなに大した問題ではないと考えたのかもしれません。

こうして孫権は、禅譲を受けたわけでも前王朝の血縁でもないのに帝位に就きました。もっとも、彼の先輩格の袁術が、すでにこうした「無根拠即位」の前例を作っていたのだから、そういう意味でも心理的抵抗は少なかったかもね。

  

この異常事態に大騒ぎとなったのは蜀漢です。

何度も言うように、蜀漢は「漢の復興」を目的とする全体主義国家です。

孔明が、どうしてあんなに必死になって北伐をしたかといえば、「漢の天下を奪って勝手に皇帝を名乗る逆賊(魏)を征伐する」のが、この国家の存在目的だからです。

この目的に照らせば、孫権が呉王を名乗っているうちは、彼が形式上は漢の体制下にとどまっていると(強引に)みなして、同盟関係を維持できるのでした。ところが、孫権が帝位に就くとなれば、状況がまったく異なります。呉も、「逆賊の片割れ」ということになるからです。

そのため、蜀漢の国内では「呉と絶縁して宣戦布告するべきだ」という議論が盛んになりました。全体主義国家というのは、だいたいそういうものです。「目的のためなら、どんな無茶も不合理も関係ない」と考えるものなのです。たとえばナチスドイツは、貧乏国家だったにもかかわらず、西部戦線で米英と戦い、東部戦線でソ連と戦い、なおかつ国内で多量の人員と資材を投じてユダヤ人を虐殺しまくりました。どう考えても無茶で不合理ですが、ヒトラーとその取り巻きは、「ユダヤ人絶滅という目的のためなら、この国が滅亡してもかまわない!」と思い込んでいたのです。まあ、蜀漢もそれと同じです。「逆賊討伐」のためなら、呉と魏を同時に敵にしても構わないという言説が多数を占めたのです。

これを抑えたのが孔明でした。彼は、あくまでも呉との同盟を堅持する方針を主張し、孫権の即位を祝う使節団を派遣したのです。さすがに孔明は、一流の政治家でした。蜀漢が生き残るためには呉との同盟を守るしかないと正しく認識し、イデオロギーの壁を乗り越えたのです。そういう意味では、孔明は、ヒトラーよりも優秀な人物だったと言えるでしょうね。

 

 

3、呉蜀の外交戦

今回は、蜀と呉の外交について見て行きたいと思います。

外交というのは、一種の「戦争」です。己の国益のために、相手と駆け引きをして利益を引き出す行為だからです。そして、同盟国同士の外交が最も難しい。なぜなら、表面的に友好関係を保ち続けなければならないため、裏に回って腹芸などの高等な交渉術を全開する必要があるからです。

どうも、現在の日本は、そういう感覚が持てずにいるようです。アメリカは同盟国ではありますが、彼らはいつも「戦争」のような気構えで日本と交渉しているのに、我が国の要人たちは「飲み会」みたいなノリで対応していますものね。だから、簡単に言いなりになるし騙されてしまうのでしょう。

その点、三国時代の蜀漢と呉の外交を見ると、本当に高等な議論が交わされていてとても勉強になります。我が国の要人たちには、ぜひ、『正史』でそういう箇所を学んでもらいたいものです。

蜀呉同盟において、交渉の主体となるのはほとんど蜀漢の側でした。なぜなら、小国の蜀漢の方が、より多く呉の協力を必要としたからです。聡明な孔明は、蜀漢が単独では魏に勝てないことを熟知していました。だから彼は、呉との関係を強化することで、魏に二正面作戦を強要しようとしたのです。それゆえに、彼は孫権の即位すら容認したのです。

でも最初は、呉と蜀漢の関係は最悪でした。孫権が関羽を裏切って殺し、さらに劉備の主力と熾烈なガチンコ対決を繰り広げてしまったからです。ただ、その直後に呉と魏の同盟関係が破綻したので、ここに付け入る隙がありました。

そこで、孔明が孫権を説得した手段は、「恐怖」でした。彼は、外交使節の鄧芝にこう言わせたのです。

「呉が生き延びるためには、漢(蜀)との同盟を強化しなければなりません。なぜなら、もしも魏と漢が先に同盟を組んだなら、あなたの祖国は一たまりもないからです」。

まあ、これはブラフですね。なぜなら、全体主義イデオロギーのせいで、蜀漢が魏と同盟することなんてありえないからです。ただ、孫権は、劉備と曹丕に立て続けに侵攻された直後だし、そのときの危機感が忘れられなかったため、このブラフに耳を傾けざるを得なかったのです。このとき孫権は、同盟関係の強化を決断したでしょう。しかし、さらに一歩踏み込むのが外交の要諦です。次に、同盟国間の力関係をどうするかが重要になるので、孫権はこう言いました。

「俺は漢を信じたい。でも、実はもう駄目なんじゃないの?皇帝は若くて経験が乏しいし、国力も低いよね」。

孫権は、この同盟関係のイニシアチブを握ろうと思ってこう言ったのです。そこで鄧芝は言い返しました。

「うちの皇帝は若いけど優秀です。さらに、丞相の孔明は、まさに天下の英傑です。とても頼りになる同盟国だと思いますよ」。

こうして、対等の同盟関係ということで落着したのでした。

これ以降、蜀漢は積極的に呉に外交攻勢を仕掛けます。私が感心したのは、蜀漢は小国で呉に甘えっぱなしの立場なのに、あの天才外交家・孫権を相手に、常に交渉のイニシアチブを握り、弱みを見せない点でした。それは、鄧芝など、極めて優秀な人材が外交官として活躍したからです。彼らを抜擢して重用した孔明は、戦争は下手かもしれないけど、文治は天才的に得意な人物なのでした。

以下は、蜀の巧みな外交術の例を。


(1)鄧芝VS孫権

あるとき、魏討伐の協同軍を起こす決定をした後で、孫権は鄧芝にこう言いました。「魏が滅んだら、呉と漢で中国を二分割し、末永く仲良くしようではないか」。

普通なら、「そうですね」と相槌を打つところです。しかし、鄧芝は首を横に振りました。「天に二日なしと申します。もしも魏が滅んだら、今度は漢と呉が武と智恵を磨いて雌雄を決することでしょう。もはや、友好関係はありえません」

この正直な返答に、孫権はかえって大喜びだったそうです。

中途半端なお世辞や美辞麗句で飾るのではなく、有りのままの誠意で臨んだ方が、孫権のような大人物の信頼を得やすいのです。鄧芝は、良くそのことを見抜いていたのでしょう。

その後、鄧芝以外の人物が使節として来ると、孫権はわざわざ孔明に手紙を書いて、「次回はぜひ、鄧芝を遣して欲しい。彼じゃなければ嫌だよ」と言ったそうです。まあ、蜀漢は人材不足で自転車操業の国だったので、鄧芝はしばしば将軍として北伐軍に参加していますから、そういう時は孫権に我慢してもらうしかなかったのですが。

ところで、鄧芝の外交姿勢は、言外に「蜀漢と呉は、同じ国力の対等国なのだ」と匂わせていますよね。そういうことをサラリと相手に印象付けた鄧芝は、朴訥なようでいて相当の策士なのでした。

 

(2)秦宓VS張温

呉の使節も、しばしば蜀漢を訪れました。張温という使節が、蜀漢の大学者・秦宓(しんみつ)と成都で交わした会話が面白いので紹介します。

張温は、彼の歓迎会に遅参した秦宓を懲らしめてやろうと思って論戦を挑みました。

張「あなたは、学問をしているんですって?」

秦「この国では、幼児ですら学問をやりますよ。私に限ったことじゃありません」

張「天(=神)には頭がありますかな」

秦「あります」

張「どの方角にあるのですか」

秦「西方です。『詩経』に『すなわち、ぐるりと西に顧みる』とあるので」

張「天には耳がありますか」

秦「『詩経』に、『鶴は沢の奥に鳴き、その声は天に聞こえる』とあります。もしも耳が無ければ聞き取れないでしょう」

張「天には足がありますか」

秦「あります。『詩経』に『天の歩みは艱難』とあります。足が無ければ歩けないでしょう」

張「天には姓がありますか」

秦「あります。もちろん『劉』という名です」

張「どうしてですか」

秦「中国の皇帝が劉姓だからです」

これらの回答が間髪入れずにすらすら出るものですから、張温はすっかり秦宓を尊敬してしまいました。そればかりではないでしょうが、張温はすっかり蜀漢マニアになってしまい、呉に帰国してからも蜀の話しかしなくなっちゃったのです。

孫権は、激怒して張温をクビにしました。冒頭で説明したように、外交の本質は、外国(同盟国であっても)を騙して自国の利益を増進させることです。外国のシンパに成り下がった外交官など有害無益なのですから、クビになるのが当然でしょう。我が国も、拉致問題で北朝鮮におもねった議員どもを、全員クビにしちゃえばいいのにね。ああいうのを、国際的な一般通念で「売国奴」とか「国賊」というのです。「国賊」が大手をふって歩けるこの国は、ほんとに平和ボケの末期症状なんですなあ。

それにしても、秦宓の回答はなかなか痛快ですね。「天の位置が(蜀のある)西方」だとか「天の名が劉」だとか、愛国心が漲っていますものね。

おそらく、こういった張り切った空気が蜀の国中に充満していて、それで張温は蜀漢が大好きになったのでしょう。私は、5年前に訪れた上海と昨年訪れたプラハで、街中に不思議な活力があふれているのを感じて興奮しました。愛国心と目的意識と向上心を持つ人々のオーラは、一介の旅行者を心酔させるに十分な威力を持っているのです。このころの蜀漢も、きっとそんな感じだったに違いありません。

孫権をはじめ、呉の人々は、張温の口を通して語られる蜀漢の魅力を聞き知って、この小国の侮りがたさを強く印象付けられたことでしょう。こうして同盟関係は、蜀漢主導のまま強固になりました。おそらく、張温を蜀マニアにしたのは孔明の戦略だったのでしょう。さすがですね。

 

まあ、我が国も、少しは蜀漢のやり方を見習ったらどうでしょうかね?飼い犬同様にアメちゃんに尾を振っているだけでは、国益の欠片も残らないでしょう。ってことは、まずは国民の愛国心から増強しなけりゃならない。気が長い話だよなあ。