歴史ぱびりよん

第十五話 家庭人としての孔明


 

今回は、孔明の家庭生活について見て行きたいと思います。

『演義』の孔明は、その「能力」ばかりが誇張気味に描かれ、人間としての素顔が完全にオミットされています。『演義』の孔明について、「尊敬するけれど好きになれない」と言う人が多いのは、きっとそのせいだと思います。

 

まずは、孔明の奥さんについて。

彼は、20代前半で結婚しています。相手は、荊州の名士・黄承元の娘です。この娘は有名なブスで、誰も嫁の貰い手が無かったのを、孔明が引き取ったのでした。その当時、「♪孔明の嫁取りだけは、絶対に見習うなよ♪」という歌が流行したと言われています。それくらい酷い面相の女性だったようです。

なんで孔明(長身で頭が良くてハンサム)が、そんなブスと結婚したのかというと、恐らくは政治でしょう。孔明は、「名士」ではありましたが、異郷出身の上に「襄陽学派」の中では異端児だったので、あまり良い就職先が期待できない状況でした。彼は、名士・黄承元と縁戚関係を築くことで、自分の進路をクリアにしようとしたのではないでしょうか?まあ、結局、劉備に彼を紹介してくれたのは、親友の徐庶だったのですけれど。

ただ、この奥さんはとても聡明な女性で、いろいろと「内助の功」があったようです。民間説話によれば、彼女は機械仕掛けの人形たちを操って、大量のウドンをあっという間にこしらえたと言われています。これは話半分としても、火の無いところに煙は立たないわけで、孔明の発明品は、意外とこの奥さんに知恵を借りたのかもしれませんよ。

この夫婦の仲は、とても良かったみたいです。孔明は、ナポレオンなどと違って、出世したからって良い気になって、糟糠の妻を捨てるような人間ではなかったのでした。

 

次に、子供の話。

孔明夫婦は、なかなか子宝に恵まれませんでした。それを不憫に思った呉の兄・諸葛瑾は、自分の次男を養子にくれました。これが諸葛喬です。

彼は、実父に似てとても優しく真面目な性格で、孔明はこの子を深く愛したようです。ただ、惜しいことに、第一次北伐に前後して弱冠25歳で病死しました。

その前に、孔明が兄に書いた手紙が残っています。

「喬は、本来は成都に置くべきですが、いま諸将の子弟はみな輸送の任にあたっておりますので、彼らと苦労を同じにさせています。彼は今、兵500を率いて谷で働いています」

どうやら喬は、体調が悪いのを推して、第一次北伐で輸送隊を率いて頑張ったようです。それが元で病死したのでしょう。

孔明は、「他人に苦労させるなら、まず自分と自分の家族が模範となるべきだ」と考える人でした。それが、可愛い養子の命を縮めてしまうとは。きっと、とても悲しかったことでしょう・・・。

 

でも、喬の死と前後して、孔明夫婦に待望の実子が生まれました。それが諸葛瞻です。ただ、もしかすると妾の子かもしれません。黄夫人は、もう高齢だったはずですからね。その辺、『正史』は曖昧なんだよなあ。

孔明は、やはり兄に手紙を書いています(本当に仲良し兄弟だな)。

「瞻はもう8歳で、とても利口で可愛い子です。でも、早熟すぎて晩成しないのではないかと心配です」

孔明は、この手紙を書いて間もなく、最後の戦い(第五次北伐)に出陣します。息子の行く末が、さぞかし気がかりだったことでしょうね。

このとき、孔明は、皇帝劉禅に次のように上奏しています。

「成都には桑800株、やせ田が15傾あり、家族の生活はそれで余裕があります。臣が出征いたしますときには、特別の仕度も無く、我が身に必要な衣食はことごとく陛下から頂戴いたしますので、その他に財産を作って利益を得たいと思いません。もし臣が死にましても、内に余分の布があったり外にあまった財産があったりして、陛下の御心に背くようなことはありません」。

孔明は、自分の死期を悟っていたのでしょうか?

彼が死んだとき、彼の財産は本当に上奏文のとおりしか無かったそうです。彼の家族は、総理大臣の家でありながら、本当に最低限の経済生活しかしていなかったのです。

孔明の壮絶な生き様が、びしびしと伝わって来ますね。