歴史ぱびりよん

第十七話 星落秋風五丈原


1、星落秋風五丈原

2、死せる孔明、生ける仲達を走らす

3、『演義』に見る五丈原

4、魏延の最期

5、楊儀の自滅

 


、星落秋風五丈原

『演義』と違って、『正史』での戦況は非常に地味でした。

孔明と司馬懿は、互いに陣地の中に立て篭もって、じっと睨みあうばかりだったのです。もともと司馬懿は防御側なのだから、彼は守るのが正解です。じゃあ孔明が攻めたかといえば、彼はまったくそういう姿勢を見せなかったのです。兵士たちに麦を蒔かせ、その後は守りに徹していました。

陳舜臣さんの「八百長説」は、おそらくこの状況を見て発案されたのでしょうね。確かに、孔明の態度は不可解です。でも、スポーツならともかく、戦争では八百長は難しいと思うのです。なぜなら、戦争は「集団作業」だからです。孔明が「八百長しようぜ」と言っても、部下たちがみんな言う事を聞くはずがない。かといって、孔明一人が八百長するつもりでも、みんながそういう認識を持っていなければ、思い通りに事を運ぶことは出来ないでしょう。その点、スポーツのスター選手なら、自分の体は自分ひとりでコントロール出来るし、決定的な局面で周囲に悟られずにわざとミスしたり出来るのでしょうけどね。

まあ、要するに、孔明は「攻撃側に立つのが嫌い」だったのです。彼はしばしば劉禅に上奏しています。「私は勇気が無いので、決定的な場面で臆病になり、だからいつも北伐に失敗しているのです・・・」。なんだ、自分で分かっているんじゃん!

そんな孔明は、司馬懿を挑発し、彼を攻撃側に立たせようと画策します。彼は、「防御戦」になら勝つ自信があったのです。なにしろ蜀軍には、究極の防御兵器「元戎」が大量に装備されているのですから。

でも、司馬懿は、第四次北伐で懲りているので、二度と攻撃側に身を置こうとしませんでした。蜀軍の挑発を無視して、じっと陣に篭っていたのです。

焦る孔明は、女衣を司馬懿の本陣に送りつけたと言われています。「陣地に篭りっきりのお前は、女みてえな根性なしだ」という趣意の挑発ですね。これには、帷幕に集う魏の諸将も激怒し、「出陣しましょう!」と大騒ぎになりました。

司馬懿も怒ったでしょうが、彼はこのまま防御している方が賢明だと判断して諸将を宥めます。しかし、みんな怒りに我を忘れている!

窮した司馬懿は、洛陽の皇帝・曹叡に手紙を出して、出陣の許可を貰おうとします。もちろん、聡明な曹叡が却下することを期待した上での狂言です。そして曹叡は、司馬懿の真意を悟って、「絶対に出陣しては駄目だー」との勅書とともに、重臣の辛毘を名代として派遣したのです。辛毘老人は、司馬懿軍の軍門の前に杖を持って立ち塞がり、諸将の暴走を食い止め続けました。

これを知った孔明は、「万策尽きたな・・」と絶望します。そして、働き詰めのその肉体は、ついに破断界を迎えようとしていました。

あるとき、孔明の軍使が、挑戦状を持って司馬懿の本陣を訪れました。司馬懿は、戦のことには触れず、孔明の日常について軍使に尋ねたのです。軍使は、こう答えました。「我が丞相は、朝早くに起きて、深夜にようやく床につきます。そして、鞭打ち20回以上の罰は、すべて自分で執り行います。お執りになる食事は、1日に数升(2合)にもなりません」。

これは、ちょっと誇張気味な気がします。鞭打ち20回以上の罰ってことは、下級兵士(10万人もいる!)の喧嘩まで一人で裁決するってことでしょう?いくらなんでも、孔明はそこまでバカじゃないだろう!それくらい、部下に委譲するだろう!

まあ、この軍使は、尊敬する孔明の偉大さを、ことさらに敵将にアピールしたかったのかもしれません。

司馬懿は、軍使が帰った後でほくそ笑みました。「ふふふ、孔明はもうすぐ死ぬな!」

軍使の話が誇張としても、孔明が過労死寸前になるまで働いたことは事実だろうと思います。秋風が吹く8月(旧暦だからね)、孔明は病に倒れ、あっというまに鬼籍に入ったのです・・・。齢54歳でした。

ああ・・・・。

 

2、死せる孔明、生ける仲達を走らす

こうして孔明は、戦場に倒れました。

彼は遺言で、「私が死んだら、全軍で退却せよ」と言い残しました。まあ、当然でしょう。蜀軍の強さは、兵士たちの孔明に対する尊敬と信頼に多くを依存していました。その孔明が死んだとあらば、兵士たちの士気はどん底に落ち、もはや戦争どころでは無くなるでしょうからね。

そこで、蜀軍は孔明の死を兵士たちに隠しつつ、直ちに五丈原からの撤退に入ったのです。

ところが、これに反対する人物がいました。魏延です。彼は、「孔明が死んだくらいで、どうして退却するのだ?戦場に残って戦うべきだ」と言い張ったのです。彼の言うことは無茶ですが、同情の余地はあります。なぜなら、これは蜀にとって「根こそぎ動員」の最後の決戦だったはずなのです。それなのに、一戦も交えずに退却するのは、国民に対しても亡き劉備(平民から取り立ててもらった魏延は、劉備に対して、孔明以上の恩顧を感じていたはず)の霊魂に対しても申し訳が立たないと考えたのでしょう。その気持ちは良く分かります。『演義』の解釈では、「魏延=生物学的悪党」だからみんなに逆らったのだ、という結論になるのでしょうけど。

しかし、孔明の棺の近くには、魏延の政敵であった楊儀がいました。これは、彼にとって、政敵を陥れる最大のチャンス到来でした。彼は、文官の費禕と武将の姜維を取り込んで、なんと、魏延の部隊を戦場に置き去りにし、それ以外の部隊を纏めて密かに退却を開始したのです。置き去りにされた魏延は、あわてて部隊を纏めて後を追いました。なんか、映画『戦争のはらわた』みたいな状況ですな。

さて、司馬懿は、蜀軍が二段階に分かれて撤退を始めたのに驚いたでしょうが、戦争の定石に従って、全軍で追撃を開始します。彼は、敵の主力と思われる楊儀の部隊を追尾したのです。

普通の軍隊は、退却時が弱くなります。隊列が乱れる上、兵の士気も落ちているのが普通だからです。しかし、蜀軍にはこの常識が当てはまりませんでした。蜀軍は、地形と高性能の飛び道具を巧みに利用して追撃者を痛打する名手だったのです。司馬懿は、第四次北伐のとき、片腕と頼む張郃を追撃戦で失うという苦い経験をしています。そのために彼は、蜀軍の逆襲を極度に警戒しながら、慎重に軍を進めたのです。

さて、司馬懿が追撃して来るのに気づいた姜維と楊儀は、陣太鼓を鳴らしながら軍を反転させて喚声を上げました。

これを見た司馬懿は、弱気になって全軍に撤退を命じました。蜀軍の強さは健在と思われたからです。

こうして蜀軍は、無事に山間に逃げ込みました。その後で孔明の死を発表し、喪に服したのです。

近在の住民たちは、「判官びいき」の同情心から、この状況を「死せる孔明、生ける仲達(司馬懿のあざな)を走らす」と言いはやしました。側近からそのことを聞いた司馬懿は、笑ってこう言ったそうです。

「俺は、生きている人間の考えることなら読めるが、死んだ人間の考えることなど分からないからな」

これは、『論語』の一節「いまだ生を知らず、いずくんぞ死を知らずや」のモジりです。司馬懿は、「おやぢギャグ」のセンスがあったのかもね。

その司馬懿は、五丈原の蜀軍の陣営跡を視察して、こう嘆息しました。

「ああ、孔明は天下の奇才なり・・・」

きっと、誰が見ても感嘆せざるを得ないような完璧な布陣だったのでしょうね。

蜀漢は、本当に惜しい人材を亡くしたものです。

  

、『演義』に見る五丈原

『演義』は、孔明の死をどう描いたか?

実は、「葫芦谷の戦い」以外は、ほとんど史実どおりに描かれています。司馬懿に女衣を送りつけて無視されたり、軍使の口から健康状態を喝破されたりといったエピソードは『正史』とほとんど同じ書かれ方になっています。ただ、死の直前の様子が少し違います。死期を悟った孔明は、弟子の姜維を助手に使って、延命術を試みるのです。

孔明は、本陣の奥に閉じこもり、飲まず食わずで神に祈りを捧げます。彼の前には大きなロウソク。7日の間、これが灯り続ければ、孔明の寿命はあと12年延びるのです!ってゆうか、そんな荒修行じゃなくて、薬を飲んで安静にしていた方が寿命が延びるんじゃないのかい!と、現代人なら思ってしまうところですな。

ともあれ、荒修行は6日間成功です。いよいよ最後の1日を残すのみ。ところがそのとき、蜀軍が静かなのに不審を感じた司馬懿が、蜀の陣に大軍で攻め寄せたのです。驚いた魏延が、孔明に応戦の指示を求めるために奥の部屋に駆け込んで、なんと、大事な大事なロウソクを蹴り倒して火を消してしまったのです!

助手の姜維は「この悪党!」と叫び、謝る魏延を問答無用に斬り殺そうとします。それを止めた孔明は、「もうよい。魏延みたいな悪党にロウソクを消されたのも天命じゃ!」とつぶやき、そして静かに死の床に向かうのでした。

こうして孔明は死ぬのですが、そのときの遺言で、「魏延は悪党だから、わしが死んだら間違いなく謀反を起こすであろう。そのときのために、秘策を立てておいた。この秘策で、あの悪党をぶっ殺してくれ!」と言うのです。・・・魏延は、いったいどこまでコケにされるんだろう!ここまで来ると、小説の話とはいえ可哀想すぎますねえ。

さて、孔明の棺を守る姜維は、亡き師匠の秘策に従って、悪党・魏延を敵地に置き去りにしたまま退却を始めます。

そのころ司馬懿は、星占いによって孔明の死を悟って大喜びでした。

「わはははー、この中国で俺より強いのは孔明だけだった!その孔明が死んだ以上、蜀軍など虫けら同然だ!追いかけて皆殺しにしてくれる!」

司馬懿は、自ら軍の先頭に立って猛追撃を開始します。ところが、彼の進路の丘の上に、車椅子に乗った孔明が姜維と共に現れたではないか!

「うわー、騙された!孔明めー、魔法の力で天候を操作して偽の死兆星を落としたなあ!あいつは生きている!このままでは魏軍は皆殺しだー!みんな逃げろー!」そう叫んだ司馬懿は、全軍を置き去りにして一人で悲鳴をあげつつ逃げ出します。置き去りにされた魏軍は、姜維の攻撃を受けて大敗を喫し、その後で蜀軍は山間に逃げ込んだのでした。

司馬懿が目撃した孔明は、実は本物そっくりの木像だったのです!これこそ、天才軍師・孔明が、司馬懿に見舞った最後の計略だったのです!それを知った司馬懿は、「ああ、俺は最後まで彼には勝てなかったんだなあ」とつぶやいて肩を落とすのでした。これこそ、まさに、「死せる孔明、生ける仲達を走らす」ですな。

『正史』の記述よりも誇張されていますが、小説としてはすごく面白い作りですね。

さて、次回は魏延の最後について・・。

 

4、魏延の最期

さて、司馬懿の追撃を振り切って山間に逃げ込んだ蜀軍は、二手に分かれて成都を目指しました。

どうして二手に分かれたかというと、楊儀と魏延が互いに敵対関係に入ったからです。この二人は、互いに「謀反人」と罵りあいながら、次々に早馬を劉禅のもとに飛ばして相手を朝敵に仕立てようとしたのです。

成都では劉禅が、毎日のように「魏延が謀反を起こした」「楊儀が謀反を起こした」という矛盾した早馬の報告を受けて混乱しました。彼は群臣を集めて「どちらの主張が正しいのだろう?」と相談しました。大方の見解は、「魏延が謀反したというのが正しいでしょう」でした。

論者の多くは、この様子を「劉禅バカ殿説」の根拠にしています。つまり、「悪党の魏延が謀反を起こしたに決まっているじゃないか。そんな事も見抜けないなんて、やっぱり劉禅はバカだったのだ」というわけです。でも、そういう論者は『演義』の読みすぎなんだと思いますよ。だって、「魏延=悪党」というのは、『演義』にしか書いていないことですもの。むしろ、公平に状況を判断しようとした劉禅の態度は、トップとして真っ当であって、バカ殿呼ばわりされる言われはないと思うのですけどね。

でも、そんな劉禅の周囲には、文官ばかりがいたのです。文官たちは、当然ながら、武闘派で平民出身の魏延より、文官仲間の士大夫・楊儀の肩を持ったというわけです。おそらく、それ以前から武官VS文官という図式が朝廷の中にあったのでしょうね。いずれにせよ、文官たちの発言が劉禅の心に大きな影響を与え、こうして魏延に「謀反人」の烙印が押されてしまったのです・・・。

別々の桟道から漢中に向かう楊儀と魏延は、互いに斥候隊を出して相手の進路を妨害しつつ進みました。そこへ朝廷からの早馬が到着し、そして全軍に「魏延が謀反を起こした」との通達を発したのです。

もともと、孔明の棺を守る楊儀の方が、軍勢も多く、心を寄せる武将も多かったのです。それに加えてこの勅使の到着は、状況を決定的にしました。焦る魏延は、楊儀に決戦を挑んで孔明の棺を奪おうとします。しかし、その前に立ち塞がったのは王平でした。王平が大音声で魏延軍に投降を呼びかけると、さすがの魏延軍の士気は崩壊し、脱走兵が続出したのです。

『正史』によれば、魏延は仁徳者だったので、兵士たちは彼を父親のように慕っていたのだそうです。そんな魏延にして、謀反人の汚名を着せられたとたんにこの始末。逆に言えば、蜀の兵士たちは、父親のような上司よりも劉禅皇帝に対して絶大な忠誠を抱き、良く纏まっていたことが分かるのです。

魏延は、一族郎党数十名になって、なおも成都を目指しました。どうして彼は魏に亡命しようとしなかったのでしょうか?おそらく、劉禅皇帝に一目会って、誤解を解いてもらおうと考えたのでしょう。

しかし、楊儀は馬岱の部隊を派遣して執拗に追跡し、ついに追いつめられた魏延一族は皆殺しになるのでした。ああ、一世の名将の悲惨な最期よ。

陳寿は、『正史』「魏延伝」の本文の中で、「魏延は謀反を起こしたわけではないのだ」と弁護しています。おそらく、陳寿が『正史』を書いていた当時、世間の多くの人が「魏延の死は謀反の結果だ」と思っていたのでしょう。でも、陳寿は生真面目で正義感の強い人だったので、こうした出鱈目な「通説」を覆したかったのでしょうね。

『演義』では・・・。

言うまでも無く、魏延は謀反の結果、亡き孔明が遺した「秘策」によって滅ぼされたことになっています。そのカギとなったのは、「葫芦谷の戦い」のときに、孔明に無実の罪を着せられて一般兵に降格された馬岱でした。彼は魏延軍に編入され、魏延の参謀になったのです。そんな彼は、密かに孔明に授けられた秘策に従って魏延を破滅へと誘導します。

例えば、『演義』の魏延は、最初は魏に寝返ろうとします。しかし馬岱がこう言って止めるのです。「まずは蜀を奪い取って、それから魏を滅ぼす方が賢いですぞ」。すると魏延は、「確かにそうだな。孔明が死んだ以上、蜀で俺に勝てるやつはいねえ!劉禅をやっつけてやるぜ!」ってな具合で、蜀の桟道を漢中に向かうのです。これじゃあ、本当の謀反人ですね。

やがて、楊儀と魏延の対決となります。このとき楊儀は、魏延の武勇を恐れて逃げ腰になりました。しかし、そばにいた姜維が、孔明から渡された「秘策入りの袋」を開いて、その策を実施するのです。

姜維は、魏延に向かって叫びます。「もしも『俺の首を落とす者がどこにいる?』と3回言えたなら、蜀の国をお前にやるぞ!」

魏延は大喜びです。「がはははー、小僧!耳をかっぽじって良く聞けよ。『俺の首を・・・』」

そのとき、魏延の首はすっ飛びました。彼の後ろに立っていた馬岱が、本性を現して逆賊を後ろから斬ったのです。さすがは孔明、死んでも悪を懲らしたのだなあ・・・。

それにしても、本当に魏延は可哀想な扱いを受けていますね。

 

5、楊儀の自滅

今回は、楊儀がテーマです。

彼は、なかなかユニークな人物でした。はっきり言って「人格破綻者」です。もしかすると、「精神異常者」だった可能性もあります。

この人は、もともと荊州の士大夫でした。小才が利くので劉備に雇われてその秘書になるのですが、あちこちで人間関係のトラブルを起こすものだから、劉備の晩年は地方に飛ばされて閑職についていました。

そんな彼を抜擢したのが孔明です。前にも説明しましたが、孔明は「荊州出身の士大夫」が大好きで、こうした人材を積極的に登用する癖がありました。楊儀も、この形式基準にクリアできたというわけです。

楊儀は、計数管理に独特の才能があり、兵糧の管理や運搬計画の立案や予算編成と言った実務に長じていました。現代で言うなら、「部課長クラスの経理部員」として優秀だったのです。そして、「取締役管理本部長」だった孔明は、補佐役としてそういった人材を欲していたので、なかなか二人は良いコンビになりました。

楊儀は、孔明の管理業務面での補佐役として、常に北伐に同行しました。しかし、彼の行く先々でトラブルが絶えない。なぜなら、楊儀はその人間性に大きな問題があったのです。彼は、「傲慢で自信過剰で、すぐに他人を軽蔑する意地悪な人間」でした。質の低い税理士や会計士に良く見られるタイプです。

彼が特に不仲だったのが魏延でした。魏延は、いわば「取締役営業本部長」でして、一人で何十社もの顧客を獲得した大功労者でした。誰もが彼を尊敬し、恐れていました。しかし、楊儀だけは違いました。傲慢な彼は、魏延のことを「平民あがりの兵隊野郎」と呼んでバカにしたのです。プライドの高い魏延は、当然、この傲慢な文官を嫌います。

二人の仲が決定的に悪くなったのは、あるときの軍議で口論を交えたときです。このとき、激怒した魏延が剣を抜いて楊儀に突きつけると、もともと臆病な楊儀は怖くて泣き出したのです。このときは、 費禕が魏延を宥めて事なきを得たのですが、満座の中で恥をかかされた楊儀は、魏延のことを深く恨みました。傲慢で意地悪な彼は、魏延のことを殺してやりたいと思うようになります。

孔明は、魏延の戦闘能力と楊儀の管理能力をどちらも高く評価していたので、この二人が異常なまでに不仲なのを常に心配していました。

その孔明が死んだとき、蜀軍内部に一時的な「権力の空白状態」が生じたのです。すなわち、常に孔明の近くにいた楊儀が、孔明の権力を一時的に乱用できる状況が生まれたのです。彼は、魏延が撤退に反対なのを知ると、彼の部隊を戦地に置き去りにしたまま撤退を開始したのでした。

激怒した魏延は、あわててその後を追うのですが、今さら憎い楊儀に頭を下げる気にはなりません。そんな彼は、10年以上も漢中太守を勤め上げ、この辺りの地勢を完璧に把握していました。そこで、楊儀と別の間道を使い、先回りしてやろうと考えたのです。こうして、楊儀と魏延は二手に分かれて桟道を渡り、互いに逆賊の汚名を着せようと画策したのですが、その顛末は前回説明したとおりです。

楊儀は、魏延の首級が届けられると完全にキレた状態になり、その首を大地に叩き付け、「馬鹿野郎!」とか「くそったれ!」とか「悪人めえ!」叫びながら、何度も何度も蹴ったり踏んだりしたそうです。・・・なんか、やばい・・。

さて、こうして楊儀は、孔明の棺を守り、ボコボコになった魏延の首を引っさげて成都に帰ってきました。傲慢な彼は、自分が孔明の後継者になれると信じ込んでいました。でも、孔明が遺言状の中で後継者に指名したのは蒋琬だったのです。

蒋琬は、やはり「荊州士大夫」でしたが、孔明の留守中に蜀の内政全般を掌り、実に見事な業績をあげていました。ですから、彼が孔明の後任になったのは、誰もが認める当然のことだったのです。

しかし楊儀は、自分のほうが蒋琬より賢いと信じ込んでいたので、この人事に不満でした。彼は「中軍師」に昇進したのですが、仕事もしないで他人の悪口ばかり言い、寝不足で目に隈を作り、意味不明の言葉をぶつぶつ喋りだしたりと、要するにノイローゼになってしまったのです。

この様子を見た劉禅は心配になって、費禕に楊儀の家を訪問させました。費禕は温厚で誰からも好かれる人柄だったので、楊儀が心を開いて本音を語れる唯一の要人でした。それで、楊儀は本音を語りました。

「俺は、後悔しているのだ。俺が孔明の死体を守って国に帰ったのは、後釜になれるに違いないと思っていたからだ。それなのに、蒋琬なんかに攫われるは夢にも思わなかった。ああ、五丈原にいたときに、いっそのこと、遠征軍全軍を連れて司馬懿に降伏するべきだったな。そうしたら、今ごろ俺は魏の丞相になっていたはずなのに・・・」

・・・とても、正気とは思えませんね。私が、楊儀を精神異常者ではないかと疑ったのは、この異常な発言があったからです。

この発言を聞いた費禕は、顔面を蒼白にしながら劉禅に復命しました。驚いた劉禅は、楊儀をクビにして庶民に落とします。しかし楊儀は逆ギレして、激烈な誹謗文書を朝廷に書くのです。これには、さすがの劉禅の堪忍袋の緒も切れて、ついに楊儀を逮捕しました。彼は、牢屋の中で憤懣に耐えかねて自殺したのでした・・・。

それにしても、こんな奴のせいで、蜀漢で最強の武将であった魏延を惨死させてしまうとは・・・。蜀漢は、自分で自分の首を締めたようなものですな。

そもそも、楊儀のような人格破綻者を重用した孔明の神経にも疑問を感じますけれど、まあ、蜀漢は人材不足の国だからなあ。