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(1)劉禅はバカ殿だったのか?
(2)蒋琬と費禕
(3)姜維は名将だったのか?
(4)蜀漢の滅亡
(5)姜維の最後の賭け
諸葛孔明の死後、蜀漢は三十年にわたって余命を保ちました。そこで、孔明亡き後、蜀を支えた人々を中心に、後蜀三十年について見て行きましょう。
(1)劉禅はバカ殿だったのか?
まずは、諸葛孔明の主君だった劉禅について。
劉備が死んだとき、遺された皇太子は弱冠17歳でした。必然的に、実権は丞相(総理大臣)孔明の手に入り、この後12年の間、蜀は孔明を中心に動いていったのです。
蜀の二世皇帝・劉禅は、在位中に国が滅んだために「おくり名」を受けていません。ただ単に、「蜀の後主」と呼ばれています。この人は、昔からたいへんなバカ殿ということになっていて、その評価はもう最悪です。
しかし、『正史』を素直に読む限り、いわゆる愚君暗君とは違うみたいです。
陳寿は、「後主は、賢明な宰相に政治を任せているときは道理に従う君主だったが、宦官に惑わされてからは暗愚な君主だった」と評しています。そして、劉禅が宦官に惑わされるようになったのは、蜀の最後の5年間くらいです。ってことは、彼は全部で42年間の在位期間の大部分を、名君として送ったことになるわけです。印象的なのは、改元や恩赦の頻度が非常に少ない点でして、彼の治世は、つまりとても安定していたのです。彼は、たまたま亡国の主になったからバカみたいに思われているのでしょう。
劉禅がバカに書かれるようになったのは、やはり『演義』の影響が大きいようです。『演義』は、孔明とその後継者(?)姜維を極端に美化して書いており、さらには蜀漢という国の総合的な国力についても誇張しています。ですから、孔明たちが志を伸ばせずに終わった理由を、羅貫中は劉禅の責任にしているのです。つまり、「バカ殿が足を引っ張りさえしなければ、孔明は天下を統一出来ていたのだ!劉禅が全て悪いのだあ!」という論法なのです。でも、『正史』によれば、劉禅は孔明や姜維の作戦に嘴を挟んで妨害したことはありません。
実際には、蜀漢と魏の国力差は、太平洋戦争のときの日本とアメリカくらいに懸絶していました。また、孔明は天才軍師ではなく、管理本部長だったのだから、天下統一できなかったのは当然といえば当然だったのです。
仮に、昭和天皇が実際より10倍賢かったら、大日本帝国はアメリカを征服出来ていたのか?あるいは本土決戦に勝利出来ていたのか?そんなわけないでしょう。そういうわけで、劉禅が最後に魏に降伏したのは、やむを得ない選択でした。あれ以上戦っても無意味だからです。玉音放送のときの日本と同じです。
劉禅が魏に送った降伏文書には、「どうか民衆を苦しめないでください」と書いてあります。彼は、蜀漢の民衆を救うために誇りを捨てたのでしょう。昭和天皇と同じことです。
ところで、劉禅バカ殿説を補強する有力な論拠として、洛陽に移ってからのボケぶりが有名です。すなわち、魏の臣が「蜀が恋しいですか?」と劉禅に聞いたときに、「ここは楽しいので、蜀のことなんて少しも恋しくありません」と応えた、などなど。
でも、これは劉禅の本音ではないでしょう。魏の臣が、そういう質問を投げた真意を勘ぐるに、隙あれば劉禅に謀反の疑いをかけて処刑するか人知れず毒殺してしまおうとの底意が明白です。劉禅は、そういった底意を見破って、わざとバカの演技をして韜晦したに違いないのです。
劉禅はずーっと蜀で育った人ですから、蜀が恋しくないわけがない。もしも彼が本当のバカ殿なら、「恋しい」と素直に応えて殺されていたでしょうね。こういった陰謀を悉く見破って、彼は70歳近くまで長寿を保ちました。これは、彼の最後の大勝利だったのかもしれません・・。
(2)蒋琬と費禕
話を、孔明死後の情勢に戻しましょう。
諸葛孔明はその死後、遺言で自分の遺体を漢中の定軍山に葬らせました。この人らしく、とても簡素な墓だったようです。
定軍山といえば、蜀漢が魏に対して唯一最大の戦略的大戦果をあげた古戦場です。孔明は、この地に遺体を置くことで、死んでも蜀漢の栄光を守るとともに、志が常に北方にあることをアピールしたのでしょう。すごい執念ですね。
そして、孔明は、その死の直後から、民衆によって神格化されました。蜀漢の各市町村は、争うようにして孔明の霊廟の建立を政府に申し出たのです。その熱意に負けた劉禅は、成都に孔明の大きな霊廟を建立しました。これが「武侯嗣」ですね。また、民衆は、豊作になったり疫病が止んだりするたびに、「諸葛侯のお陰だ」と言い合ったそうです。
このような神様的人物の後継者になる人は、さぞかし大変だろうと思いますよね。
今回は、蒋琬と費禕にスポットを当てましょう。
①蒋琬について;
この人は、孔明の遺言によってその後継者となりました。やっぱり「荊州士大夫」です。
若いころに劉備に見出されて、蜀に入ってある県で事務の仕事をしていたのですが、たまたま劉備が抜き打ちで視察に来たときに、仕事をサボって泥酔していたのです。怒った劉備は、蒋琬をクビにしようとしたのですが、それを止めたのが孔明です。孔明は、「蒋琬は大器晩成型の大局的な人材なのです。もうしばらく成長を見守ってあげてください」と懇願し、事なきを得たのでした。
実際、蒋琬は大雑把でマイペースな性格だったので、事務をきっちりとこなすような人材ではありませんでした。でも、そういった事務的な能力を持つ者たちを束ねて統括する能力に優れていたのです。
でも、例えば楊儀のような小人物(大局観は皆無だが事務は得意)から見れば、蒋琬の仕事の仕方は「無能」に見えたかもしれません。楊儀が、蒋琬に出し抜かれてノイローゼになったのは、まんざら分からないでもありません。・・・やっぱり分からないなあ。
そんな蒋琬は、孔明の後継者として最適でした。何しろマイペース人間なので、あまり周囲の評判を気にしないし、前任者(孔明)のプレッシャーも感じなかったようなのです。
あるとき、蒋琬の部下が注進しました。「楊敏の奴が、あなたの悪口を言っています。『蒋琬は前任者に遠く及ばず、やることなすこと右往左往している』と誹謗しています」。すると、蒋琬は笑ってこう答えました。「まったくその通りじゃないか!」。その部下が尚も、「でも、右往左往というのはどういう意味なのか問いただすべきでしょう!」と突っ張ると、蒋琬は「右に行ったり左に行ったりという意味だよ。別に、聞くまでもないさ」と言ってまた笑ったのです。その後、悪口を言った楊敏が罪に問われたとき、蒋琬は公正な立場で状況を分析し、むしろ彼を庇ったのでした。
実に、人間が出来た人だったのですね。
さて、蜀は、孔明が死んでから北伐を打ち切ったのですが、天下統一の野望を捨てたわけではありません。蒋琬は、12年の歳月をかけて漢中で大船団を建設しました。彼は、秦嶺山脈越えを諦めて、漢水沿いに荊州方面を攻略する戦略を立案したのです。もちろん、同盟国の呉と協同作戦を取る手はずでした。
しかし、呉は、晩年の孫権が暗君と化してグチャグチャになってしまい(後述)、とても大規模な遠征を行なえる状況では無くなってしまったのです。蒋琬は、この情勢を残念がっているうちに病気にかかって死にました。彼の後継者は費禕です。
②費禕について;
この人は、やはり「荊州士大夫」です(こればっか!)。豪胆で、人当たりが良くて、しかも無茶苦茶に仕事ができる人でした。
彼は、朝と晩だけ仕事をして、残りの時間は客と懇談したり酒を飲んだりギャンブルに出かけたりと、人生の楽しみを満喫していたのですが、仕事のノルマは完璧にこなしていました。
費禕の死後、その仕事を代行した董允は、朝から晩まで残業づくしの仕事ぶりで、しかし10日もしないうちに仕事が滞留しちゃったそうです。彼は、「人間の能力に、こんなに差があるとは思わなかった!」と泣きべそをかいたと言われています。
費禕は一種の天才で、難しい法令通達文書なども、さらっと流し読みするだけでその要旨を把握し、しかもその内容を決して忘れなかったのだそうです。仕事が早いのも当たり前ですね。
現在の日本では、なぜか費禕よりも董允が重んじられる傾向があります。私が以前勤務していた会社でも、仕事が早く終わるためにあまり残業しないような人が低い処遇を受け、仕事が出来ないでモタモタ残業している人が高い評価を受けていました。その理由は簡単で、上司に人間の能力を見極める能力が欠如しているからです。彼らは、「残業時間の長さ=忠誠心」という狭い見方しか出来ないのです。
ともあれ、費禕の能力のお陰で、蜀の内政は充実し、民衆の生活はとても良くなったのです。
費禕は、とても肝の太い人でした。魏の曹爽が大軍で漢中に攻め寄せて王平が苦戦になったときも、彼は悠然と碁を指しながらじっくりと戦略を練り、そして見事に魏軍を大破したのでした。
ただ、肝が太すぎるのが彼の欠点でもありました。彼は、異民族の族長や魏の降将と無防備で付き合うので、横で見ていて危うかったのです。将軍の張凝などは、そのことでしばしば費禕に諫言をしています。
案の定、費禕は、あるときの宴会で、魏の降将・郭循に刺殺されてしまいました。なんてこったい!
こうして、蜀の滅亡への道が音を立てて開いたのです。
(3)姜維は名将だったのか?
今日のテーマは、蜀の最後の名将と言われる姜維です。
『演義』での彼は、孔明の正統後継者として登場し、北伐を再開して魏を大いに苦しめたことになっています。柴田錬三郎さんの『英雄生きるべきか死すべきか』でも、この姜維が主人公になっていますね。
でも、実際のところはどうだったのでしょうか?
再三にわたって述べているごとく、「歴史小説」は、その独特のドグマによって、史実を平気で捻じ曲げる傾向が強いです。
『演義』にしても『柴錬三国志』にしても、その本質が「軍記物語」であるために、タカ派の軍人に対する点数が異様に甘くなるのです。「戦争をしない人よりも、戦争をする人(特に戦争が上手な人)を美化して描く傾向が強い」というわけです。
孔明の軍事能力が異常に誇張されたのもそのためなら、姜維がヒロイックに描かれたのもそのためなのです。『演義』は、姜維の能力を実像の10倍くらい誇張しています。
実は私は、蜀漢を滅亡に追いやった最大の戦犯は姜維だったと考えています。
では、以上を前提に話を進めましょう。
姜維は、陝西省の天水郡の士大夫でした。蜀が第一次北伐でこの地に侵攻したとき、太守の馬遵が戦わずに部下を見捨てて逃走したため、自動的に孔明の配下に組み込まれました。その後、蜀が敗退したため、孔明に拉致されて蜀に赴きます。
『演義』では、姜維の登場が華々しく描かれますね。彼は、20歳そこそこの若者なのに、孔明の計略を全て喝破して逆襲し、蜀軍に多大の損害を与えます。驚いた孔明は、姜維を部下にしたくなって、得意の「陰湿な謀略」を用いて彼の母親を人質にして屈服させるのです。その後、孔明は姜維の智謀を深く愛し、自らが執筆した兵法書を全てこの若者に委ね、彼を愛弟子とします。これ以降、姜維は常に孔明の忠実な弟子として、その傍らにあるのでした。
しかし、『正史』では、これらはほとんど虚構です。孔明は姜維の才能を高く評価したけれど、彼を弟子にしたりノウハウを委ねたりはしていません。なにしろ、孔明は「荊州士大夫マニア」ですから、雍州出身の姜維が可愛いはずがない。
孔明が弟子と思って可愛がったのは、あくまでも蒋琬や費禕だったのです。
『演義』は、孔明の本質を「天才軍師=軍人」と規定しています。その立場からすれば、彼の弟子は「軍人」でなければならず、その役回りには姜維がふさわしいという作劇技法なのです。ストーリーの流れとしては、「孔明は馬謖に裏切られたが、代わりに姜維が優秀な弟子になってくれた!」という書き方ですね。
でも、史実の孔明は管理本部長であって軍人ではなかったのだから、軍人を弟子にするわけがないのです。史実の孔明が姜維を見る目は、魏延や王平に対するものと同じだったろうと思います。
というわけで、『正史』の姜維が頭角を現すのは、孔明の死後からです。彼は、おそらく楊儀に協力して魏延を撃ち滅ぼすことで、何らかの利益供与を受けたと思われます。彼は、魏延の族滅後、その権益を奪って後釜に座った感じが濃厚だからです。つまり、魏延が姜維にチェンジしたというわけ。
蒋琬と費禕は、姜維の好戦的な性格を非常に警戒していました。この二人の存命中、姜維は1万人の兵を率いる権限しか与えられていなかったのです。姜維が、「早く北伐を再開しましょう!」とねじ込むと、費禕はいつもこう言って宥めたといいます。「諸葛丞相ですら出来なかった事業を、我々が出来るわけがない。我々は、今は国力を充実させて敵国の変事を待ち、また、味方に軍事英雄が現れるのをじっと待つしかないのだ」。
つまり、費禕は、姜維を軍事英雄とは認めていなかったわけです。
その費禕が不慮の死を遂げた後、姜維は軍事部門の実権を総覧します。
そして、無謀な大軍事攻勢が開始されました。彼は、毎年のように5万~10万の軍勢を動員し、蜀の桟道を越えて陝西省に攻め込みました。しかし、そのほとんどが戦略的にも戦術的にも大失敗だったのです。彼は、実は戦争が上手では無かったようです。出陣するたびに、数百人から数千人の味方の兵士を失っています。
蜀漢の国内では、国民の怨嗟の声が満ち溢れ、国力も国威もガタガタに低下しました。困った劉禅は、宦官たちと謀って姜維を逮捕しようと考えるのですが、それを察した姜維は理由をつけて成都に戻って来ず、なおも北伐を敢行するのでした。
これって、昭和の日本帝国陸軍みたいですな。シビリアンコントロールを喪失した軍隊の暴走ほど恐ろしいものはありません。
姜維の戦略で最悪だったのは、漢中の要塞陣地を片端から撤去してしまったことです。この要塞陣地は、亡き名将・魏延が10年以上の歳月をかけて築いた究極の防御施設でした。かつて曹爽の大軍が侵攻してきたとき、費禕と王平がこれを撃破できたのは、この見事な要塞のお陰だったのです。どうして姜維がそんなバカなことをしたのかと言うと、戦うたびに兵士が死ぬので遠征用の兵力が大幅に不足し、これを補うために要塞の防備についている兵士を転用したかったのです。
この結果、漢中の防備はスカスカになってしまいました。魏の最後の猛攻のとき、漢中があっという間に陥落したのはそのせいです。
・・蜀漢が滅んだのは、やっぱり姜維のせいじゃねえか!
『演義』は、これでは作劇上マズイので、史実を大幅に変えています。
すなわち、姜維の遠征について、いくつも架空の勝ち戦を書き加えています。たとえば、史実の姜維は、魏の将軍・郭淮と対戦して負け戦の連続だったのですが、『演義』の中では郭淮を討ち取ったことになっています。ヒーロー姜維は、憎き郭淮が放った矢を素手で掴み取り、それを逆に射返して郭淮を仕留めたのであった!うわー、かっこいい!・・・史実の郭淮は、ちゃんと畳の上で死んでいるのにねえ・・・。
また、要塞撤去の話はオミットしています。
残念ながら、歴史上の姜維は、孔明の愛弟子どころか、単なる「暴走タカ派軍人&無謀なギャンブラー」だったのでした。
(4)蜀漢の滅亡
蜀漢は、人口90万人の貧乏国にもかかわらず、孔明の死後30年も命脈を保ちました。
その理由は、孔明の遺徳のお陰でもあり、蒋琬や費禕の奮闘努力のお陰でもありますが、何といってもライバルの魏が政治的大混乱に陥って蜀を攻撃できなかったことが一番でしょう。
魏では三代皇帝・曹叡の死後、幼君や暗君が続出し、その結果、豪族たちが政権内部で熾烈な勢力抗争を行なう状況になったのです。曹爽、王淩、諸葛誕、毌丘倹らが名乗りを上げましたが、最終的に勝利したのは司馬懿とその子孫でした。
そして、魏の政権を実質的に掌握した司馬昭(司馬懿の子)は、ついに中原の巨大兵力を蜀の攻略に注ぎ込むのです。
そのころ蜀漢は、姜維の軍閥が暴走して戦争しまくる傍らで、劉禅と彼を取り巻く文官&宦官グループが覇気を失ってただ何となく生きている有様でした。劉禅は、お目付け役の董允が亡くなると、政治に興味を無くして遊楽にうつつを抜かす毎日を送り、それに付け込んだ宦官の黄皓が実権を握って私利私欲にふけったのです。
西暦263年の夏、魏は、名将・鍾会を中心にして20万の大軍を漢中に突入させました。これを迎え撃つ姜維は、何しろ要塞を全て撤去してしまったものだから、苦し紛れに「わざと負けて敵を奥地に引き込んで包囲する」作戦を立てたのですが、魏の軍勢の予想以上の強さを前に口ほどにもなくボコボコにされ、あっという間に漢中を奪われ、やむなく漢中と蜀の境にある剣閣関に立て篭もってこれを迎撃するのでした。
姜維は、さすがにここでは奮闘し、鍾会を撤退寸前にまで追いつめます。恐らく、孔明が遺した防御兵器「元戎」が物を言ったのでしょう。
しかしその間、鍾会が派遣した別働隊を率いる鄧艾軍3万は、陰平の間道を抜けて四川への侵入に成功。これは完全な奇襲攻撃となり、四川北部の豪族たちは次々に降伏して行ったのです。
この情勢に驚愕した劉禅は、最後の切り札を繰り出します。孔明の遺児、諸葛瞻です。この諸葛瞻については、『正史』に列伝がありません。なぜなら、ずーっと貴族として宮中にいて、あまり仕事をしていなかったからです。でも、蜀漢の民衆は彼のことを心から愛し信頼していました。あの孔明の実子なのだから、きっと何とかしてくれると思ったのです。もちろん劉禅も、そういった民衆の感情を知ればこそ、諸葛瞻に全てを委ねたのでした。
しかし・・。
綿竹関に到着した諸葛瞻に向かって、蜀漢の武将たちは口々に即時攻撃を提言しました。そのときは、鄧艾の軍勢が、食糧不足で疲弊していたからです。しかし、諸葛瞻はどういうわけかその助言を全て退けてしまいます。やがて鄧艾は、鋭気を回復した軍勢と寝返り豪族たちを引き連れて、意気揚々と綿竹関に押しかけました。蜀漢の武将たちは、「ここは固く守って、剣閣から姜維将軍が戻ってくるのを待つべきです」と諸葛瞻に提言しました。しかし、彼はこの助言も無視して、自ら軍の先頭に立って突撃をかけたのです。その結果、諸葛瞻とその子・諸葛尚はあっという間に戦死。
この瞬間、蜀漢の士気はゼロになりました。勝負は決まったのです。孔明の愛児は、残念ながら無能だったのです!ものすごい期待はずれでしたね。
成都は、こうして無血開城しました。
西暦263年冬、蜀漢帝国の滅亡です。
なおも剣閣で奮闘していた姜維は、降伏の知らせを聞いて激怒し、その部下たちは怒りのやり場を無くして、剣で周囲の石を切りつけて回ったそうです。それでも、皇帝の命令は絶対なので、彼らは武装解除に応じたのですが。
ああ、なんとあっけない滅亡であることか。
(5)姜維の最後の賭け
蜀漢のあまりにも呆気ない滅亡は、なんとなく旧ソ連の末路に似ているように思えます。強固なイデオロギーで国をガチガチに纏めていた国というものは、いったんその箍が外れると異常に脆くなるのです。
旧ソ連は、その末期においては「共産主義社会の成就」という夢を見失い、日増しに深まる貧困の中で為政者も国民も自信を喪失していました。だからこそ、いったん自由の風が吹くと、雪崩のように体制全体が崩壊してしまったのです。
蜀漢もこれと同じで、度重なる北伐の失敗によって「漢朝復興」のスローガンが死文化したために、まさに雪崩のように崩れ落ちてしまったのでしょう。
でも、旧ソ連で保守派が巻き返しを図ったように、占領下の蜀漢でも野心を捨てきれぬ男がいました。姜維です。
姜維という武将は、なかなか日本人好みで、歴史小説の主人公にし易い人物です。というのは、最後まで主君のために命を賭けて奮闘し、惜しくも道半ばで倒れたからです。なんとなく、楠木正成や真田幸村を彷彿とさせるキャラクターなのです。
さて、劉禅はあっけなく降伏し、蜀漢は滅亡しました。263年の冬のことでした。しかし、武装解除を受けて成都に入った姜維は、魏の占領軍内部に分裂の兆しを嗅ぎ取り、一発逆転のチャンスを狙うのです。
魏軍の総大将・鍾会は、都を牛耳る司馬一族に強いライバル意識を抱いていました。彼は、蜀の豊かな物産を見ると、この地で独立して司馬昭と対決しようと考えるにいたります。まず彼は、蜀漢制圧の最高殊勲者の武将・鄧艾に謀反の濡れ衣を着せて収監し、都に護送します。その後、姜維と手を組んで蜀の国政の掌握にかかるのです。
姜維は、鍾会の一味になった演技をしましたが、本心は別のところにあったようです。彼は、密かに軟禁中の劉禅に手紙を書きました。
「陛下、もう少しの辛抱ですぞ。悪者どもを滅ぼして、再び陽光をこの地に取り戻してみせます!」
姜維は、最終的には鍾会とその取り巻きを滅ぼして、蜀漢帝国を再興しようと考えていたのです!うう、かっこ良いぜ!
しかし、鍾会と姜維の予想を超える事態が発生しました。洛陽の司馬昭は、鍾会が油断ならぬ野心家であることを早くから知っていました。彼は、こうなることを予想して、すでに大軍を率いて四川に向かっていたのです。その名目は「鍾会を救援するため」ですが、蜀漢はとっくに滅んでいるのだから、真の狙いが鍾会の制圧にあることは明確です。
あせった鍾会は、司馬昭側に付きそうな将校を片端から逮捕して監禁するのですが、牢屋から脱走に成功した者が兵営に行って兵士たちを扇動したからたいへんだ。「鍾会に皆殺しにされる」とのデマゴーグによって激昂した20万の兵士が、一斉に成都の宮殿に乱入したのです。
鍾会と姜維は、最後まで白刃をふるって奮闘し、そして華々しく散りました。
こうして、姜維の執念の賭けは失敗に終わったのです。
さて、監車に入れられて都に護送中であった鄧艾は、冤罪が晴れて安堵したところをいきなり刺客に襲われて殺されます。これはおそらく、鄧艾の非凡な才能を恐れた司馬昭の差し金だったと思われます。
こうして、異常なまでに猜疑心が強く、異常なまでに直観力に優れる司馬昭は、蜀漢征服の最高殊勲者を二人とも抹殺する形でこの地を完全に手に入れました。
こうして、蜀漢は滅亡を遂げたのです。
劉禅とその遺臣たちは、洛陽に護送されました。