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司馬炎~三国志の最終勝者
(1)司馬懿という人物
(2)宮廷クーデター
(3)皇帝が謀反を起こして誅殺された話
(4)魏志倭人伝の話
(1)司馬懿という人物
前回は蜀の滅亡の話をやったので、今回は魏の滅亡についてです。まずは、魏を滅ぼす立役者となる司馬懿について見て行きましょう。
司馬懿仲達は、河東郡(洛陽の北)の名門士大夫です。彼は8人兄弟の次男だったのですが、8人とも優秀だったので、この兄弟は「司馬の八達」と呼ばれていました。つまり、8人とも字(あざな)に「達」の字があったわけ。これって、馬良のところの「馬氏の五常」と同じですね。
さて、長男の司馬朗は、早くから文官として曹操に仕えていました。でも、次男の司馬懿は、なぜか曹操のことが嫌いだったらしく、誘われても仮病を使って仕官しようとしなかったのです。しかし、そんなことを「人材マニア」の曹操が許すはずはない。結局、ほとんど無理やり、司馬懿は曹操配下に組み込まれてしまうのでした。
司馬懿には、非常にユニークな身体的特徴があったと言われています。すなわち、首を180度後方に曲げられるというのです。お前、人間かい!
それを目撃した曹操は、「ぎえー」と悲鳴をあげて教会に駆け込み、2人の悪魔払い師(エクソシスト)を呼んで来て、かくして悪魔VS人間の死闘が開始されたのです(大嘘)!
ともあれ、司馬懿のエクソシストパワーは、『晋書』に明記されてある能力です。まあ、嘘かもしれませんけどね。中国では、天下人となる者は、天命を受けた証拠として、特別な身体的特徴を持つと信じられていました。だから、ちょっと誇張気味に書いたんでしょうね。
さて、司馬懿の性格はどうか?表面的には優しそうですが、実は非常に冷酷で裏表のある性格だったようです。彼は、自分の本当の感情を顔に出さない人間でした。友好的な笑顔を浮かべながら、平気で相手を刺し殺せるような人間だったのです。
曹操は、さすがに司馬懿のこうした本質を見抜き、警戒していたようです。しかし司馬懿は、見抜かれたことに気づいて、ひたすら曹操の前では「良い子ぶりっ子」全開でした。そのため、曹操も晩年には司馬懿を信頼していたようです。あの曹操を騙すとは、恐るべし!
曹操ですら騙されたのだから、その子・曹丕や曹叡に至っては、赤子の手を捻るようなもの。いつしか、司馬懿は政界の三巨頭に成り上がりました。
そんな司馬懿の活躍は、日を追ってパワフルになりました。第五次北伐の孔明を撃退した後は、遼東の公孫淵をあっという間に攻め滅ぼすという大快挙です。
この公孫淵は、もともと僻地の豪族だというので、魏から自治権を認められていました。しかし、呉の孫権と海路で使者のやり取りを始めたのを見た曹叡が、その戦略的重要性に気づき、自治権を剥奪しようとしたのです。追いつめられた公孫淵は、燕王を名乗って公然と反旗を翻しました。しかし、その壮挙も、司馬懿の前では「蟷螂の斧」だったわけです。
遼東の制圧は、東アジア史に重要な影響をもたらしました。毌丘倹将軍率いる魏の遠征軍は、満州と朝鮮半島の大部分を制圧します。それを見た邪馬台国の卑弥呼女王が、魏に朝貢の使者を送り、その記事が「魏志倭人伝」になるのですから。
さて、司馬懿は、いつしか魏のナンバーツーにレベルアップしました。皇帝・曹叡は、最後まで彼のことを信頼しつつ、贅沢三昧の生活がたたって36歳の若さで病死しました。
跡を継いだ曹芳は、わずか8歳の幼帝です。
そして、司馬懿の野心がムクムクと動き始めました。
(2)宮廷クーデター
後漢~三国というのは豪族(貴族)の時代です。曹操も孫権も劉備も、その土地の豪族たちに擁立される形で支配権を獲得したのでした。
そもそも、どうして三国鼎立が起きたかといえば、たまたま三人の英雄が、それぞれ中原、江南、四川の豪族たちの最大利益に適う政策を採ったためです。彼らを擁立した豪族たちは、別に中国人としてのアイデンティティにも民族の統一にも興味がありませんでした。自分たちの経済的利益を最大化することが全てだったのです。だからこそ、江南も四川も中原による統一支配に徹底的に逆らい、結果的に三国に分かれて睨み合う形勢になったのです。これが、「三国志」の本質なのだと思います。
しかし、豪族たちが心を合わせて団結したのは、あくまでも「頼りがいのあるリーダーの存在」を前提にしています。魏は、曹操とその孫・曹叡までは頼れるリーダーでした。しかし、その後、幼帝・曹芳が立ったときから歯車が狂うのです。8歳の幼帝では、擁立しているメリットが無い。そこで、野心ある豪族・司馬一族が台頭を始めたのです。
司馬懿のライバルだった大将軍・曹爽は、皇帝の一族であることを利用して司馬懿を封じ込めようとします。彼は、巧みに幼帝に取り入って、司馬懿を閑職に就けることに成功しました。
ところが、曹爽は司馬懿に取って代わることが出来ませんでした。なぜなら、彼には司馬懿ほどの軍事的功績が無かったからです。そこで彼は、蜀漢を滅ぼそうと遠征軍を発します(244年)。蜀漢を滅ぼすことに成功すれば、高まる威信を背景に、名実ともに魏の実権を掌握できるはずでした。しかしこの軍は、蜀漢の費禕と王平の奮闘によって大敗を喫したのです。
その結果、かえって威信を落とした曹爽は、司馬懿の巻き返しを警戒します。しかし、司馬懿はライバルの心境を巧みに見抜き、「歳をとって野心を無くした」演技をし続けました。例えば、曹爽が派遣した使者の前で、老人ボケとしか思えぬ発言を連発したり、白湯を衣服にボトボトこぼしたりしたのだそうです。
これに油断した大将軍・曹爽は、司馬懿に対するマークを緩めてしまいました。そして、皇帝を連れて洛陽郊外の曹叡の墳墓にお参りに出かけたのです(249年)。そのとき司馬懿は、仮面を捨てて立ち上がりました。
密かに集めていた部隊を連れて洛陽を占領し、皇太后ら皇族を人質にとってしまったのです。
曹爽とその取り巻きは大いに焦りました。でも、彼は皇帝(曹芳)を手中にしているのです。もしもこのとき「司馬懿が謀反した!」と宣伝して地方に移って時節を待てば、まだまだ逆転の目はあったと思います。ところが、彼らがそういう戦略を立てているときに司馬懿の使者が来たのです。その使者が開陳した手紙には、司馬懿の挙兵の目的が洛陽の風紀の乱れを正す事であり、皇帝はもちろん、曹爽とその取り巻きに敵対心は持っていないので、速やかに都に帰ってくるようにと、優しく真心溢れる文章で書いてあったのです。
曹爽は、すっかり騙されてしまいました。彼は、皇帝とともに司馬懿のもとに出頭したのです。ところが司馬懿は、優しそうな笑顔を浮かべつつ彼らの罪状を捏造し「国家反逆罪」で、曹爽とその取り巻き連中を一族皆殺しにしてしまったのです!
うわー、血なまぐさい!
こうして、司馬懿は魏の実権を完全に掌握しました。彼はこの2年後に病死するのですが、その遺志は長男の司馬師に引き継がれます。
司馬師は、夏侯玄らのクーデターを未然に察知し、その一族を皆殺しにしました。そして彼は、夏侯玄らの背後に皇帝・曹芳の意思が動いていたことを知ると、直ちにこの皇帝を廃位してしまいました。成人に達した曹芳は、自分が司馬一族の傀儡に過ぎないことを怒り、密かに司馬師を暗殺しようとしていたのです。まるで、曹操に対する後漢の献帝みたいですね。ああ、因果は巡る・・・。
司馬師は、自分の操り人形になりそうな皇族・曹髦を擁立しました。彼は、この事件に憤って挙兵した毌丘倹将軍の叛乱も鎮圧に成功。いよいよその地位を固めたところで病死します。
その跡を継いだのは、弟の司馬昭でした。
彼は、曹操が後漢の天下を奪うやり方をそっくり真似しました。次第に昇進し、「晋公」、ついには「晋王」になるのです。
この様子を憂えた諸葛誕将軍は、呉と同盟をして「反・司馬昭」を合言葉に挙兵するのですが(257年)、あえなく敗れ去りました。
そして260年、司馬昭は一線を超えます。
皇帝・曹髦を殺害してしまうのです。
(3)皇帝が謀反を起こして誅殺された話
閑話休題して、『正史』における司馬一族の扱いを見ましょう。
司馬一族は、悪辣で残忍な手段で魏の政権を乗っ取りました。しかし、『正史』の作者である陳寿は、司馬一族が興した晋帝国の家臣の立場で『正史』を書く手前、あまり司馬一族の悪口を言えないのでした。権力者を怒らせると、命が危なくなるのみならず、せっかくの『正史三国志』が、後世に伝わらなくなる可能性があるからです。
普通の歴史家なら、ここで筆を曲げて嘘を書くところです。しかし、陳寿はとても真面目な歴史家だったので、どうしても嘘を書くのが嫌でした。そこで、司馬一族の悪辣な行為をわざと変則的な形にオミットし、そして後世の人々に「行間を読ませる」ように仕掛けたのです。
その典型が、「皇帝・曹髦殺害事件」です。
さて、西暦260年、魏の5代皇帝・曹髦は、司馬昭の傲慢ぶりと専断ぶりを見るにつけ、このままでは魏の天下が司馬一族に簒奪されるのではないかと恐れ、ついに司馬昭を誅殺する計画を立てました。
皇帝は、宮殿の衛兵数百人を率いて外に飛び出し、司馬昭を一気に攻め殺そうとしました。無謀といえば無謀ですが、わずか20歳の曹髦は、その燃える熱血を抑え切れなかったのでしょう。
しかし、宮殿の外に待機していた兵力は、すべて司馬一族に魂を売り渡していました。文官の賈充は皇帝を宮殿の正門で迎え撃ちます。その配下の成済は、皇帝が自ら剣を振りながら部隊の先頭に立って突進してくるのを見て上司に尋ねました。「どうしましょうか?」。
すると賈充は冷然と言いました。「お前は、何のために誰から給料をもらっているのだ?」
成済はうなずくと、突き進んで皇帝に剣を突き立てたのです。剣は皇帝の胸を貫き、背中まで突き出たそうです。即死でした。
こうして、若き皇帝は非業の最期を遂げたのです。
しかし、『正史』にはこの場面の具体的描写が存在しません。
『正史』の「高貴郷公紀(=曹髦伝)」では、「曹髦は20歳で死んだ」という文章の次に、皇太后(曹髦のお母さん)の発した声明文がいきなり出てきます。その内容は、「ウチの息子は発狂して、このあたしを殺そうとしおった。晋公さま(司馬昭)が先んじて息子を殺してくれて助かった。サンキューね」というものです。
これが、司馬昭の公式声明だったのでしょう。この異常な事件は、「皇帝が発狂した」ということにされて闇に葬られたのです。残忍な司馬昭は、息子を殺されて嘆き悲しむ皇太后を脅迫して、嘘の声明文を発表させたのに違いありません。
しかし陳寿は、どうしてもそれが許せなかったらしく、行間から「何か異常事態が起きた」ことを匂わせています。すなわち、皇帝の死の事情を、自分の文章ではなく、皇太后のいかにも「嘘くさい」声明文で説明させたのです。これが、陳寿の執筆スタイルです。彼は、とにかく嘘を書きたくない人だったのです。①記述内容はすべて真実。②でも、権力者を怒らせることは書かない。③だから、行間を工夫して真実を伝えようとする。というわけですね。
曹髦の死後、司馬昭は幼帝・曹奐を擁立します。子供なら、自分に対して謀反(?)を起こさないだろうと考えたのでしょう。そして背後をがっちりと固めてから、蜀漢に攻め込んでこの国を滅亡させたのです(264年)。
蜀を併合したことで、司馬一族の威信は絶頂に達しました。もはや、誰にも遠慮はいりません。
司馬昭の病死後、その子・司馬炎はついに魏の皇帝・曹奐から「禅譲」を受けました。西暦266年のことでした。曹一族は、自分たちが漢から天下を奪ったのとまったく同じ方法で簒奪されたのです。
こうして魏は、あっけなく滅亡しました。
晋帝国の誕生です。
(4)魏志倭人伝の話
ううむ、あっという間に魏の滅亡を書いてしまったぞ。
だって、本当にあっけない滅び方だったんだもん。むなしいなあ。魏は、漢の天下を奪うときに、「禅譲」というコンビニエントな手法を使いました。だからこそ、これが「使いやすい前例」となり、簡単に他人に利用されてしまったのです。
これって、何か深い教訓が伝えられているように感じますね。我々も、魏の滅亡を反面教師にすべき点があるのかも。
さて、今回のテーマは、日本史の世界で超有名な「魏志倭人伝」です。この文章が、実は『正史三国志』の中にあることは、意外と三国志ファンでも知らない人がいるみたい。正式には、『三国志の魏書東夷伝中にある倭人に関する項』と言うべきものを、学者先生たちが短縮して「魏志倭人伝」と呼んでいるのです。
魏書というのはユニークな本で、蜀書や呉書と違って、魏に仕えたわけでもない曹操のライバルたちの伝記や、特殊技能者たちの伝記(「方儀伝」)や、周辺異民族に関する伝記が掲載されています。これは、陳寿が魏書を「中華民族の中心」と考えていたからです。まあ、彼は魏に代わった晋の臣下だから、そう書くしかなかったのです。本当は、蜀びいきだったみたいだけど。
さて、周辺異民族の伝記はいくつにも分かれていますが、中国の東に住む蛮族については、「東夷伝」というところに纏め書きされています。魏は、皇帝・曹叡のとき、遼東の公孫淵を滅ぼした後に大規模な遠征軍を東に送り、今日の満州南部と朝鮮半島を領土に組み入れました。そのため、東夷伝の多くは、これらの地域の蛮族の記録がほとんどです。それに加えて、この時期に魏に使者を遣した健気な蛮族どものことを記録していて、その中に日本のことが出ているというわけ。
距離方位は出鱈目としても、「倭人伝」は状況証拠にはなるでしょうね。たとえば、呪術を得意とするシャーマンが国の中心になっていたり、環濠集落がたくさんあったり、内戦が頻発していたりという描写は、考古学研究の成果とほぼ一致しています。考えてみれば、「天皇」というのが日本神道の大祭主みたいなものなので、卑弥呼の伝統がそのまま残っているのだと想像するのも楽しいですよね。
卑弥呼というのは、中国人が日本語の音を耳で聞いて、適当に漢字を当てたものでしょう。「卑」という嫌な文字を当てるところが中華思想のえげつないところですね。本当は、「姫御子」とか「日巫女」という意味の普通名詞だったんじゃないかなあ?
倭という文字も中国語で「こびと」という嫌な意味だけど、本当は「大和(やまと)」の「和」の字かもしれないしね。
まあ、こうやって想像をたくましくして遊ぶのは楽しいですね。