歴史ぱびりよん

第四章 キリスト教徒の逆襲


17.成功が仇となる

18.最強の敵・ロシアの登場

19.大航海時代とヨーロッパの強大化

20.第2次ウイーン包囲

21.コーヒーとクロワッサン、そしてベーグル

22.メフテル軍楽隊の話

23.トルコ人は、ホモで残虐か?


 

17.成功が仇となる

スレイマン大帝の並外れた偉大さは、徒花でもありました。彼の死後、萎縮した子孫たちによって、オスマン帝国は次第に傾いて行くのです。

スレイマン1世の時代に整備され、オスマン帝国の威信を大いに高めた制度が、皮肉なことに、彼の偉大な帝国を弱める足かせとなって行きます。

たとえば、「立法者」と渾名されたスレイマンは、大宰相(サドラザム)を中心とした強力な官僚集団を整備したのですが、この集団が後に、スルタンを蔑ろにして勝手な政治を行うようになります。それが奏功することもあれば、とんでもない破局をもたらすこともありました。後に述べる「第2次ウイーン包囲」がその好例です。

また、スレイマンは後宮の女たち(愛妃ヒュッレムが有名)を甘やかすことで、女たちが政治に嘴を差し挟む余地を作ってしまいました。

また、スレイマンはイエニチェリ軍団を大拡充し強化したのですが、イエニチェリもまた、自分たちの勢力を誇るあまり、次第にスルタンの言うことを聞かなくなって行きます。歴代スルタンの中には、イエニチェリによって暗殺される者さえ出る始末です。

さらに、スレイマンは同盟国フランスとの間に「カピトレーション」を締結しました。これはフランスが、オスマン国内にて租税を免除され、治外法権(領事裁判権)を得るという「不平等条約」でした。スレイマンとしては、この当時、貧乏で弱小だったフランスを助けてあげる目的で、こういった「恩典」を与えたのです。カピトレーションは、やがてイギリスやオランダとの間にも結ばれるのですが、後にヨーロッパ諸国とオスマンの経済力が逆転すると逆効果になります。オスマン帝国は、20世紀のトルコ革命に至るまで、「不平等条約」による経済的搾取によって大いに苦しめられる運命に陥るのでした。

このように、スレイマン大帝が整備した諸制度は、「スルタンとオスマン帝国が優秀で強力である」ことを前提とした制度でした。この前提が崩れたとき、全てがマイナスのベクトルに向いてしまうのです。そういう意味では、スレイマンの偉大な成功こそが、オスマン帝国衰退の導火線だったと言えなくもありません。

これは、重要な歴史の教訓です。

今日の日本も、195070年代の偉大な成功体験を未だに引きずってしまい、その時に整備された時代遅れの諸制度を未だに頑固に守っていて、そのせいで衰退の度合いが増しています。

「失敗は成功の母」であるのと同様に、「成功は失敗の父」なのです。

18.最強の敵・ロシアの登場

それでもオスマン帝国は、スレイマン大帝没後100年の間は最大領域を維持し続けます。この巨大帝国は、しばらくの間は、ヨーロッパ諸国やペルシャの反撃など、蚊に刺されたほどにも感じなかったのです。ヨーロッパ人が誇らしげに語る「レパントの海戦(1571年)」でのトルコ艦隊の敗北も、大勢にはまったく影響しない瑣末な局地的事件でした。

しかし、帝国の北方で、最強のライバルが胎動を始めました。ロシアです。

ロシアはもともと、スウェーデンからこの地に入り込んだバイキングの一派ルス族が、現地のスラブ人と混血して成立した国です。ロシアという名は、「ルス族の土地」という意味なのです。原始ロシア人は、河川を利用した交易や農耕を行っていたのですが、やがて南に隣接するビザンツ帝国の文化的影響を受けてギリシャ正教を信じるようになります。しかし、彼らが築いた「キエフ公国」は、13世紀のモンゴル帝国の大拡張期を前に呆気なく滅亡します。それからのロシアは、モンゴルからの独立を目指して悪戦苦闘。ようやく、16世紀になってイワン雷帝らの活躍で強固な独立国家を樹立できました。

その後、遅れた農業国だったロシアを近代国家に再編成したのは、ピョートル1世(在位1682-1725年)でした。彼は、西欧から先進技術や文化を積極的に取り入れて、ロシアを重商主義国家に改良しようとします。そのために必要なのは、交易に使える港湾です。ピョートル大帝は、アゾフ海や黒海沿岸を手に入れるためにオスマン帝国と戦い、バルト海沿岸を手に入れるためにスウェーデンと戦いました。そこでスウェーデンは、しばしばオスマンと同盟を組んでロシアと戦います。

実は、ロシアには、オスマン帝国と戦うことに大義名分が有りました。ロシア帝国の皇帝(ツアーリ)は、ビザンツ帝国の正統後継者を自認しています。だからこそロシア人は、「ビザンツ帝国の復興」を旗印にして、黒海沿岸やコーカサス地方、そしてモルドヴァ(ルーマニア)方面でしきりにオスマン帝国を攻撃したのです。

しかし、この当時のオスマン帝国はまだまだ強力だったため、しばしばピョートルを打ち負かしました。ピョートル大帝は、トルコ軍に包囲されて捕虜に成りかけたこともあるのです(プルート川の戦い)。

しかし、何度もしつこくトルコに攻撃を加えることが、ピョートル以降のロシアの年中行事と化しました。そして、ピョートル大帝の正統後継者と言える女帝エカチェリーナ2世(在位1762-96年)の下で著しく国力を増大させたロシアは、その鋭い刃をオスマンの領土深く突き入れて行きます。

ロシアという名の新たな強力なライバルの登場こそ、オスマン帝国衰退の最大の要因だったと言えるでしょう。

 

19.大航海時代とヨーロッパの強大化

オスマン帝国の衰退に拍車をかけたのは、ロシアの登場だけではありません。かつて弱小だった西ヨーロッパ諸国の、急激な強大化も忘れてはなりません。

最初の起爆剤となったのは、イベリア半島の国々、すなわちスペインとポルトガルです。国土回復運動(レコンキスタ)に成功してイスラム勢力をイベリア半島から追い出した彼らは(1492年)、有り余った旺盛な体力を西に向けます。すなわち、大西洋への進出です。

彼らは、イタリア商人とオスマン帝国によって牛耳られていた交易の道を、西の別天地に求めました。まずは、クリストファー・コロンブスらの活躍で、アメリカ大陸を「発見」します(1492年)。やがて、バスコ・ダ・ガマの活躍で、アフリカ南端・喜望峰経由でのインド航路を発見します(1497年)。

彼らが発見した交易路と新大陸は、莫大な富をヨーロッパ世界にもたらしました。やがて、オランダ、イギリス、そしてフランスも新天地へと進出を始めます。こうした動きは、これまで強盛だった地中海のイタリア商人を弱体化させ、そして中近東の交易圏を牛耳っていたオスマン帝国にも大きな経済的打撃を与えました。特に、新大陸(アメリカ)で採掘された大量の銀の流入は、インフレによって帝国に大混乱をもたらしました。

実は、この時期のヨーロッパ諸国が一斉に海を目指した理由は、オスマン帝国の存在こそが原因でした。

この当時、ヨーロッパ全土に広まっていたのが「プレスター・ジョンの伝説」です。すなわち、「オスマン帝国の東方に、英雄王プレスター・ジョンが統治する勇敢で強大なキリスト教国があるはずだ」という伝説です。ヨーロッパ人は、この国を発見し、この国との連絡路をオスマンの頭越しに築くことで、憎きイスラム教徒を東西から挟み撃ちにしようと考えたのです。もっとも、この伝説は伝説に過ぎなかったわけですが(エチオピアが過大評価された可能性もある)、ヨーロッパ人の海への突進への誘因となった点で重要です。

また、香辛料(スパイス)の問題もありました。この当時のヨーロッパ人の主食は肉でしたが、なにしろ冷蔵庫のない時代ですので、肉類はすぐに腐ってしまいます。肉の腐敗を遅らせるには、香辛料に漬けこむことが一番なのですが、香辛料は当時、インド洋と太平洋でしか産出しませんでした。つまり、これらを交易で手に入れるしか無かったのですが、オスマン帝国経由での交易だと割高だったのです。そこでヨーロッパ人は、トルコ人による中間搾取を排除する形で別航路を設定し、割安な香辛料を入手する必要にかられていました。

すなわち、ヨーロッパに「大航海時代」をもたらし、彼らを強くさせたのは、オスマン帝国の存在そのものだったのです。

航海時代は、ヨーロッパ人の食生活を一変させました。考えてみたら、トマトもジャガイモもトウモロコシも、アメリカ大陸が原産地です。ヨーロッパ人って、それ以前はいったい何を食べていたんでしょう?きっと、肉と豆しか無いような、恐ろしく貧しい食卓だったのでしょうね。それが、今や一変したというわけです。食卓を一瞥するだけで、大航海時代以降のヨーロッパの強勢ぶりが分かるのです。

こうして力をつけた彼らは、ついにその鋭鋒を直接、オスマン帝国に向けるようになります。オスマンは、今やロシアとヨーロッパから袋叩きにされようとしていました。

 

20.第2次ウイーン包囲

オスマン帝国は、スレイマン大帝の死後、長い衰退期に入ります。

「なぜ衰退したのか?」の研究も重要ですが、逆の観点で「なぜ衰退期に入ってから300年以上も生き延びたのか?」の研究も大切だと思います。歴史上、これだけ長い衰退期を持ちこたえた帝国は珍しいからです。そういう意味で、オスマン帝国は、「温故知新」の材料としてこの上なく貴重なのです。

西ヨーロッパ諸国とロシア、そしてペルシャから波状攻撃を受けつつも、オスマン帝国は官僚制を整備改良し、財政の健全化を目指し、そして優秀な人材の育成に努めました。大宰相を歴代したキョプリュリュ家の、内政・外交面での活躍が有名です。また、軍制改革も大胆に進め、イエニチェリの反乱が頻発するようになると、これを撲滅して廃止し(1826年)、西欧風の近代軍を創設しました。

このように、時代の流れに合わせて柔軟で大胆な改革を試みたところが、オスマン帝国の延命の秘密だったと言えるでしょう。

しかしながら、大航海時代の進展によって相対的に失われた経済力と、増大する一方の軍事費負担に押され、その国力はジリジリと落ちる一方でした。また、地政学的に見てアジア、ヨーロッパ、アフリカの3大陸に跨るオスマン帝国は、守勢に入ると四方八方から狙われやすい脆弱なポジションにありました。

この逆境を跳ね返すために、キョプリュリュ家のカラ・ムスタファ大宰相が仕掛けたのが、「第2次ウイーン包囲(1683年)」です。彼は、積極攻勢に出ることで、時代の流れを変えようとしたのです。

オスマン帝国がウイーンを包囲するのは、これが2回目です。

1回目の包囲は、スレイマン大帝の時代でした(1529年)。この時は、冬季におけるわずか13日間の包囲だったことから分かるのですが、スレイマンの本当の狙いはウイーンでは有りませんでした。これは、占領したばかりのハンガリー周辺を確保する目的で、ライバル(ハプスブルク家)の本拠地を牽制攻撃したのです。我が国の歴史の中にも、武田信玄が駿河(静岡県)の領有を強化するために、わざわざ小田原城(後北条氏の本拠地)を包囲した事例があるでしょう?歴史上の名戦略家は、そういう大胆な作戦を行って敵の主力をひるませておいて、その間に新たな占領地域の保全を行うのです。

それに対して第2次ウイーン包囲は、焦燥感から生まれた、やや無謀な作戦でした。退勢を跳ね返すために敵(ハプスブルク家)の本拠地を一気に奇襲するという戦略は、我が国の事例では、第二次大戦中の「インパール作戦」を思い出させます。すなわちオスマン帝国軍は、攻勢限界点を越えて、補給兵站に無理をさせて、死地に飛び込んで行ったのです。

案の定、2ヶ月弱にわたる攻囲戦で疲弊したオスマン軍15万は、救援に駆け付けたポーランドの猛将ヤン3世ソビエツキ国王や、オーストリアが誇る最強の将軍プリンツ・オイゲン公が率いる万の反撃を受けて、壊滅的な敗北を喫するのでした。

そして、追撃を仕掛けたオーストリア他キリスト教連合軍(神聖同盟)との16年間の死闘の後に結ばれた「カルロヴィッツ条約(1699年)」で、オスマン帝国は建国来初めて、領土の割譲をヨーロッパに対して行いました。すなわちハンガリーが、オスマンの手からオーストリアに渡ったのです。

西洋史家が、この時をもって「オスマン帝国の衰退の始まり」というのは、もっともなことです。ただし、それ以前からオスマン帝国は退勢に陥っていたわけで、逆境を跳ね返そうとした大宰相カラ・ムスタファの活躍が、かえってマイナスの結果をもたらした形ですね。

 

21.コーヒーとクロワッサン、そしてベーグル

第2次ウイーン包囲はまた、ヨーロッパに大きな文化的な影響をもたらしました。

敗走したオスマン軍が置き捨てた行李の中に、大量のコーヒー豆があったのです。当時、コーヒーはヨーロッパ人にあまり知られていませんでした。そこで、「この黒い豆は何だろう?」と好奇心にかられたポーランド兵やウイーンっ子たちが、トルコ人捕虜から飲み方を教わって試してみたところ、無茶苦茶に美味かった!やがて、鹵獲したコーヒー豆を用いて市内で喫茶店を開業する人が続出し、こうしてコーヒー(メランジェ)がウイーンの名物になったのです。

実は、コーヒー文化は、オスマン帝国こそが発祥の地なのです。

もともと、エチオピア原産のコーヒー豆の粉末を、修行の際の眠気覚ましとして用いたのはイスラム神秘教団の僧侶だったのですが、これを「嗜好品」に変えたのがオスマン帝国です。真面目なイスラム教徒はもともと酒を嗜まないので、コーヒーは酒に替わる嗜好品として重宝されたのです。そういうわけで、世界最初の「カフェ」は16世紀のイスタンブールで誕生しました。そう考えるなら、「スターバックス」も「タリーズ」も、トルコ文化の産物なのですよ。

コーヒーは、瞬く間にヨーロッパ全土に広がりました。ローマ教皇は、最初のうちは「これは異教徒が好む悪魔の飲み物だ!色が黒いのがその証拠だ!」とか訳の分からないことを言って反対していたのですが、そのうち諦めてしまいました。素晴らしいものが自然に広がるのは人間社会の道理なので、宗教でどうこう出来る問題ではないのです。

今日、コーヒーの名産地として知られるのは中南米ですが、これはヨーロッパ人が植民地で大量栽培するために、後から持ち込んだ結果なのでした。

さて、パンの一種クロワッサンも、トルコが深く関係しています。第2次ウイーン包囲戦の大勝利を祝って、ヨーロッパ人の間で、トルコ軍が戦場に遺棄した三日月の旗印にちなんで三日月型のパンを作る風習が始まりました。これが定着したのが、クロワッサンだと言われています。

同じくベーグルも、ウイーンを救ってくれたヤン・ソビエツキ国王の乗馬の鐙(あぶみ)の形から作られたと言われています。

ウイーンでの大勝利は、ヨーロッパ人にとって、それほどまでに嬉しい出来事だったのでしょうね。ともあれ、私たちの日常風景の中に、意外な形でトルコの影響が見られるのが楽しいです。

 

22.メフテル軍楽隊の話

トルコとの関係は、また、ヨーロッパの音楽文化を大きく変質させたと言われています。

オスマン帝国軍のユニークな特徴は、軍楽隊(メフテル)を重視した点にあります。オスマンの軍楽隊は、打楽器(シンバルや大太鼓)を用いたリズミカルで威勢の良いものでした。彼らの勇ましい音楽が、戦場で兵士たちの士気を高揚させ、幾多の大勝利に結びついたのです。

それでは、同時代のヨーロッパの軍隊はどうだったかと言えば、従軍したキリスト教の司祭が「死んだら天国に行けますよ」と抹香臭いお説教をするのが関の山で、音楽が鳴るとしてもオルガンなどの地味な教会音楽が精いっぱいでした。これでは、兵士たちは勇気いっぱい戦おうという気にはなれませんね。

ヨーロッパ人が戦場で経験したリズミカルで明るく楽しいトルコ音楽は、後にヨーロッパの音楽文化に非常に大きな影響を与えました。そもそも、大太鼓やシンバルを用いたクラシックのオーケストラの編成が、明らかにトルコの猿真似です。シンバルが、もともとトルコ人の発明品であることからも、それが言えます。ブラスバンドなどは、「メフテルのコピー」だと言いきってしまって良いものです。

ベートーヴェンやモーツアルトの名曲に「トルコ行進曲」とか「○○トルコ風」という題名が多いのは、作曲者の気まぐれでも偶然でもなくて、実際に彼らがトルコ音楽に心酔していたからなのでした。

もっとも、今のヨーロッパ人は、自分たちのクラシック音楽やジャズやロックが「トルコからの輸入品」だなんて絶対に思いたがらないし認めないんでしょうけど。

メフテル軍楽隊の演奏は、今でもトルコ各地のイベントで聴くことができます。ヨーロッパのロマン派の音楽などと聴き比べてみると、いろいろな発見があって楽しいかも分かりません。

23.トルコ人はホモで残虐か?

日本で書かれたオスマン帝国がらみの小説を読むと、トルコ人がやたらと男同士でエッチをし、あるいは残虐な処刑を執行するシーンが描かれます。塩野七生や藤本ひとみの小説の愛読者は、きっとトルコ人のことを「ホモで残虐な人たち」だと思っていることでしょう。

それでは、実際にはどうだったのか?

もちろん同性愛や残虐な処刑は、それなりにあったでしょうけど、小説や映画に描かれているほど酷くなかっただろうと思います。むしろトルコ人は、同時代のヨーロッパより健全で人道的だった可能性が高いのです。

たとえば、オスマン帝国での死刑は「絞首刑」が普通でした。政敵を暗殺するような場合であっても、縄や弓の弦などで相手の首を絞めて殺すのが通例でした。どうしてかと言えば、絞首が最も「死の恐怖と苦しみが少ない殺し方」だと考えられたからです。この考え方は、21世紀の現代とほぼ同じです。日本でもどこの国でも、死刑は絞首刑で行うのが普通でしょう?つまり、トルコ人は大昔から「21世紀標準」を採用していました。近代的で人道的だったと言うことです。

それでは、どうして日本人作家が、トルコ人を「ホモで残虐」に描くかと言えば、知らず知らずのうちに、ヨーロッパ人の物の見方に引きずられて洗脳されているからです。

日本人作家が参考文献とする歴史書は、多くの場合、英語やドイツ語やイタリア語で書かれたヨーロッパの文献です。そしてヨーロッパ人は、最大のライバルだったオスマン帝国を貶めようと、資料の中で悪口を書きまくりました。純朴で単純な日本人が、それを真に受けてしまうと、それが「歴史の真実」になってしまいます。

当時のキリスト教会は同性愛を厳しく禁じていて、同性愛が発覚した信者は火あぶりにされて殺されました。これに対してトルコでは、同性愛はそこまで厳しく禁止されていなかったので、それなりにホモやレズがいたと思われます。この状況をローマ教皇や神父たちが見て、「トルコ人は野蛮人だ!なぜなら、同性愛を禁じないからだ!」と言い立ててキリスト教徒の優位性を主張し、そしてトルコ国内での同性愛の蔓延を誇張気味に悪意に偏って文書に書きまくりました。こういった文献を、純朴で単純な日本人の研究者や作家が読んでしまうと、それが「歴史の真実」ということにされて、「オスマン帝国にはホモが多い」などと歪められて我々に伝わってしまうのです。だけど、実際に世界を見回すと、欧米人の方がホモやレズが多そうですけどねえ。

死刑も、これと同じことです。たとえば、「第2次ウイーン包囲」で大敗を喫したカラ・ムスタファ大宰相は、スルタンの命令で死刑になったのですが、実際には弓の弦で絞殺されたというのに、ヨーロッパの文献では「生きたまま全身の皮を剥がれて八つ裂きにされた」ことになっています。これを純朴で単純な日本の自称・知識人が真に受けてしまうと、「トルコ人は野蛮で残酷だ」という情報が我々に伝わるのです。同時代のヨーロッパ人の方が、「火あぶり」や「石打ち」、「串刺し」など、客観的に見てよほど残虐で非人道的な処刑を頻繁に行っていたというのに。しかも、「魔女狩り」などで、罪のない人々が毎日のように拷問を受けて惨殺されていたというのに。

日本の歴史作家は、ヨーロッパ語だけでなくトルコ語の文献もしっかりと読んだ上で本を書くべきだと思うのですが、それって難しいんですかねえ?

ともあれ、我々が常識だと考えている「歴史の真実」は、日本人の「欧米コンプレックス(白人優位主義)」の下で大きく偏向しているという事実を認識すべきだと思います。そういう観点で歴史を見ていかないと、正しい温故知新にはならないと思います。

今の日本社会が閉塞感に包まれて退嬰的になっているのは、欧米主義に洗脳されて、正しい温故知新が出来ていないからではないでしょうか?私は、なにもトルコ人に過度に肩入れする気はありませんが、そういった情報偏頗の事実を、みんな認識するべきだと思うのです。