歴史ぱびりよん

第一章 中央アジアの草原より

 


 

1.トルコって、どんな国?

2.トルコ民族の故郷

3.突厥帝国

4.セルジューク朝


 

1.トルコって、どんな国?

トルコ共和国は、ヨーロッパとアジアと中東の3地域の境界に位置する、ユニークな地勢的特徴を持つ国です。

総面積は日本の約2倍で、総人口は約7200万。三方を海に囲まれた国土は、豊かな自然に恵まれています。農業牧畜が盛んで、鉱物資源も豊富です。

国民の大多数が熱心なスンニ派イスラム教徒ですが、人種構成は多様でして、トルコ人の他、チェスケス人、ギリシャ人、アルメニア人、クルド人などが住んでいます。

NATOで第6位の軍事強国ですが、平和外交を国是としています。また、近年は経済発展も著しく、EUへの加盟も良く囁かれていますね。

この国は、東西世界を結ぶ交通の要衝として長い歴史を経て来ているため、非常に多様で深みのある文化を持っています。その特徴を端的に言えば「良いとこ取り」。すなわち、東西南北のあらゆる文化の良いところを咀嚼し、独自の文化に仕立てているのです。ある意味、日本の在り方に似ていますね。

この国は、たいへんな「親日国」としても有名です。その理由については、いろいろ言われていますけど、「先祖を同じくする兄弟民族である」という意識が根底にあるようです。

それでは、トルコ人の先祖について見て行きましょう。

2.トルコ民族の故郷

トルコ人の先祖はどこから来たのか?

蒙古高原だと言われています。つまり、もともとは遊牧民族だったのです。

トルコ人の遊牧民としての特徴は、食生活に顕れています。彼らは羊肉料理(ケバブ)や乳製品(ヨーグルトやチーズ)を好んで食べるのですが、この習慣は先祖伝来なのでしょう。また、長子相続の慣習が無いこと、政治の世界で完全な実力主義(下剋上)がまかり通るところ、異文化に対して寛容で好奇心旺盛なところにも、遊牧民特有のDNAが発揮されているように思います。

なお、トルコ人は、日本人の先祖も蒙古高原出身だと考えています。彼らの独特の親日感情は、遠い昔に枝分かれした親戚に対する憧憬なのかもしれません。もちろん、背景には他にもいろいろ有るでしょうけど(エルトルールル号事件とか日露戦争とか)、彼らの深い親日感情は、それだけでは説明が付かないように感じます。

ところで我々日本人は、農耕民の割には、知的好奇心旺盛で海外文化に寛容な民族だと思うのですが、それは先祖の遊牧民のDNAの作用なのかもしれません。

さて、蒙古高原や中央アジア全域には、太古から様々な遊牧民が入り乱れていました。ただ、彼らにはなかなか文字文化が浸透しなかったため、遊牧民自身の手による文献資料がありません。仕方がないので、ギリシャ・ローマ世界や中国で書かれた文献を紐解くわけですが、ソグド人とかウイグル人とか匈奴とか鮮卑とか月氏とか柔然とか、いろいろな名前がゴチャゴチャと出て来て良く分かりません。これらの呼称が、民族名なのか部族名なのかもはっきりしないのです。

もっとも、遊牧民の間では混血が当然だったので、彼らを「民族」ごとに区分けしようとする知的作業自体が無意味だと思います。結局、匈奴とかフン族とかマジャール人とか、そういった名前の遊牧部族集団が草原地帯に割拠していたのだと大ざっぱに理解するしかないでしょう。

トルコ族というのも、もともとはこういった部族の一つだったのでしょうが、やがて「トルコ系」として様々な部族集団の総称にされてしまいます。

3.突厥帝国

このトルコ族が、6世紀の蒙古高原に築いた最初の大帝国が突厥です。

突厥は、日本語読みだと「とっけつ」ですが、当時の中国語で読めば「とぅるく」です。中国には、漢字とカタカナを使い分ける文化が無いので、海外の言葉を全て漢字表記します。マクドナルド=麦当労といった具合です。だから、トルコのことが突厥などと書かれるのでした。

さて、突厥は隋および唐帝国(中国)を北方から脅かす大勢力だったのですが、やがて東西に分裂します。遊牧民族国家というのは、後のモンゴル帝国が好例ですが、簡単に分裂する傾向があります。その理由は、彼らには長子相続の習慣が無い上に、完全な実力主義が貫かれているため、相続争いが起きやすいからです。遊牧生活は非常に過酷で不安定なので、強力で有能なリーダーがトップに立たなければうまく運びません。それで、部族内部でシビアな実力主義がまかり通り、その結果、分裂しやすい傾向が生まれるのでした。

東突厥と西突厥は、それぞれが更なる内部分裂にさらされたり、唐帝国のみならずウイグルやキルギス(いずれもトルコ系部族と言われているのだが)といった外敵に攻撃されたりして弱体化し、やがて滅亡に追いやられます。生き残った人々は、大挙して西へ逃れました。

遊牧民は農耕民と違って、民族大移動にそれほど心理的抵抗を感じません。もともと土地のような固定資産を持っていないし、住居自体が分解して移動できる仕様のゲルだからです。もちろん、良い水場とか日当たりの良い牧草地にはこだわりを感じていますが、そんなのは他の土地でも見つかるのだから、農耕民ほどには「一所懸命」という観念が無いのです。

こうして、蒙古高原を捨てて中央アジアに大移動したトルコ人は、同地でイスラム勢力に接触します。彼らはイスラム教とイスラム文化に深い感動を受け、その文化圏の一員になるのです。

イスラム教は、もともと遊牧民であるアラブ人の間に広まった宗教なので、同じ遊牧民であるトルコ人にとって親和性がありました。また、イスラム文化を習得することは、当時の世界最先端の知識と教養、さらには商業技術を学ぶことに繋がったので、多くのトルコ人は自ら進んでイスラム教徒になったのです。

しかし、その立場はアラブ人ないしイラン人の奴隷(マムルーク)でした。

 

4.セルジューク朝

中央アジアのトルコ人たちは、中東の様々な勢力によって奴隷傭兵(マムルーク)として使われるようになります。都市化して軟弱化したイスラム諸王朝の権力者にとって、質実剛健で馬術に長けたトルコ人の騎馬部隊は得難い貴重な戦力だったのです。

この時代の騎馬部隊の戦闘力は、現代人の感覚で言えば、「ほとんどの兵力が戦車によって構成された機甲師団」と考えて差し支えないでしょう。騎馬部隊は、すごいスピードで機動して敵の弱点を随意に攻撃できるし、敗北した場合でも簡単に戦場から逃げ去ることが出来るので、その基幹戦力にダメージを受けにくいのです。そのため、戦場で優位に立つためには、腕利きの騎馬部隊を多く抱えた方が得ということになります。

こうして、中央アジアのトルコ部族は、奴隷傭兵(マムルーク)として中東で戦うことになりました。しかし、実力主義で下剋上の文化を持つ彼らは、やがて支配者であったアラブ人やイラン人から独立し、ついには反旗を翻し、中東世界全域を支配するセルジューク帝国を樹立するに至ります(11世紀)。こうしてトルコ人は、都市化して軟弱化したアラブ人やイラン人に代わって、イスラム勢力の中心的存在になるのでした。

彼らの主戦場は、イスラム勢力の周縁部であった中央アジアと小アジア(アナトリア)でした。特に小アジアでは、ヨーロッパ・キリスト教勢力との対決が熾烈を極めていました。東方(ギリシャ)正教を奉ずるビザンツ帝国は、ヨーロッパ文明の要塞として小アジアとバルカン半島に屹立しています。しかし、軟弱化したアラブ人相手なら威力を発揮したビザンツ帝国のギリシャ人戦力も、精強なトルコ騎馬軍団の前には歯が立ちません。やがてトルコ軍は、小アジアに怒涛のごとく侵入を開始しました。

これが、今日まで延々と続く、トルコとギリシャの争いの始まりです。

さて、トルコ人に次第に領土を侵食されるビザンツ皇帝は、西ヨーロッパに救援を求めます。宗教的情熱に浸されたキリスト教徒の騎士たちは、続々と中東に出征を開始。こうして始まったのが、かの「十字軍」です。

この当時のセルジューク帝国は、例によって例のごとく、遊牧民特有の相続争いによって分裂状態にあり、キリスト教十字軍の猛攻の前に一時、劣勢に立たされます。そのため、十字軍との戦いで活躍したのは、エジプトのアイユーブ朝(英雄サラディンで有名ですね)や、小アジアに成立した「ルーム・セルジューク朝」と呼ばれるセルジューク朝の分家でした。

この戦乱の中で実力をつけたルーム・セルジューク朝が、やがて内紛で弱体化したセルジューク朝本家に代わってトルコ人国家の代表という形になるのです。