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映画評論

映画評論 PART1

戦争のはらわた Cross of Iron

制作;イギリス、ユーゴスラビア

制作年度;1977年

監督;サム・ペキンパー

 

(1)あらすじ

 1943年夏の東部戦線。南ウクライナのクリミア地方でも、ソ連軍の猛反撃が開始されていた。

 ドイツ軍前衛部隊に属するシュタイナー軍曹(ジェームズ・コバーン)は、歴戦の勇士であり、最高の勲章である鉄十字章(Cross of Iron)の保持者でもあった。そんな彼の上官として赴任してきたのは、貴族出身のストランスキー大尉(マクシミリアン・シェル)である。ストランスキーの目的は、銃後で待つ父母の名誉のため、鉄十字章を手に入れることにあった。

 そんな時、ソ連軍の総攻撃が始まった。実戦経験のないストランスキーは、塹壕の中に閉じこもって役に立たない。代わって指揮を執ったのは、ベテランのマイヤー少尉である。激闘の末、ソ連軍は撃退されたが、マイヤーは戦死し、シュタイナーも重傷を負って後送される。だが、野戦病院での看護婦とのロマンスを振り切って前線に復帰したシュタイナーを待っていたのは、意外な事態であった。

 ストランスキーは、先の戦闘での活躍を盾に鉄十字章の入手を画策しており、シュタイナーに偽証を迫ったのである。しかし、マイヤーの親友でもあった彼は、偽証を拒否する。そのため、ストランスキーはシュタイナーに殺意を抱き、彼の部隊だけを前線に置き去りにして全軍を後退させてしまうのだった。

 ソ連軍の中に取り残されたシュタイナー小隊は、艱難辛苦の末に敵中突破を果たし、味方の前線にたどり着くが、彼らを待ち受けていたのはストランスキー部隊の銃口であった。

 凄惨な同士討ちの末、ついにシュタイナーはストランスキーと対峙する。しかし、ソ連軍の総攻撃が始まった。敵同士だった二人は手を握り、共に迫り来る敵に立ち向かうのであった。

 

(2)解説

 本作品は、サム・ペキンパー監督の代表作であると同時に、戦争映画の最高峰である。

 これ以降制作された戦争映画の大部分が、この作品に強く影響されている事は言うを待たない。「プラトーン」と「プライベート・ライアン」が、この作品のパクリだと感じた人は、きっと私だけではないはずだ。

 また、この作品は、私が出会った最高の映画なのである。ありとあらゆる点で最高に素晴らしく、文句を付けるべき点が一カ所もないのだ。

 まず印象的なのが、深緑に彩られた戦場の光景である。通常、東部戦線といえば厳冬の白のイメージが付きまとうのだが、この映画は、あえて逆手を打っている。場所はウクライナ南部で、しかも季節は夏である。美しい緑に覆われた情景の中で、これでもかと言わぬばかりの残虐な戦闘シーンが連続する有様は、鬼気迫るものがある。また、独ソ両軍のコスチュームや兵器類、さらには戦術の細部に至るまで、恐ろしく史実に忠実である。ソ連軍の長距離迫撃砲の発射音が連続して鳴り響く冒頭は、ドイツ軍将兵が直面した恐怖の本質を鋭くえぐっているのである。

 また、バイオレンスの巨匠ペキンパーの演出力は、ほとんど神業とも言うべきである。「プライベート・ライアン」が裸足で逃げ出すような凄惨な流血が続出し、兵士たちのあげる悲鳴は救いがないくらい恐怖に彩られている。少年兵の命も、物を取り出すがごとく無造作に奪われる。それでいて、決して後味は悪くないのである。これは、ペキンパー監督の優れた作家性によるものなのだろう。アクションシーンに効果的に取り入れられるスローモーションの、特筆すべき効果も忘れてはならない。

 主人公のシュタイナーは、ペキンパーの描く典型的なヒーロー像である。強く優しく、人情にもろく包容力に溢れ、自分に正直で不器用である。「ワイルド・バンチ」のパイク(ウイリアム・ホールデン)とそっくり同じキャラクターなのには、思わずのけぞってしまった。シュタイナー(そしてパイク)は、戦争の大義も勝利も信じてはいない。彼の正義とは、自分の信念を貫き通すことだけなのである。

 そして、彼の信念に真っ向から対立する人物として登場するのが、ストランスキー大尉である。しかし、ペキンパー監督のストランスキーを描く目は、決して冷たくはない。シュタイナーとストランスキーの対立は、ドイツ社会の階級闘争に起因しており、善悪の問題で論ずるべきではないのであるが、監督はその事情を十分に勘案しているのである。

 ドイツの民主化は、ようやく第一次世界大戦後に始まった。それ以前のドイツは、皇帝と貴族によって支配された封建国家だったのである。当時の西欧で一般的であったはずの民主主義は、ドイツでは先進的な思想だったのだ。民主主義の前提として、貴族と大衆間の階級闘争が不可避である。そして、大衆出身のナチス党は、貴族の権利を制限し大衆を階級闘争の勝者に押し上げる上で最大の貢献者であった。ドイツの大衆は、ナチスのお陰で貴族のくびきから脱することができたのだ。ただし、ナチスによって押し進められた階級制度の廃止は、実施されてからまだ日が浅いため、貴族の多くは面従腹背の状態であったらしい。映画は、このような実状を的確に反映している。

 劇中で、貴族出身のストランスキーはヒトラーに批判的である。彼は、ナチスが押し進めた大衆化は一過性の事象だと考えており、ナチス崩壊後は貴族の世の中が戻ってくると思い込んでいる。彼は大衆の能力を軽蔑しており、歴史上の偉人は貴族からしか現れないと信じているのだ。

 二人の対立は、住んでいる世界があまりにも違いすぎる事から生じている。貴族のストランスキーにとって鉄十字章は必須のアイテムであるが、平民のシュタイナーにとっては鉄の塊にしか過ぎない。

 そして、シュタイナーは貴族の心情を見誤った。貴族は、己の栄達のためには手段を選ばない。ストランスキーの執念を見誤ったシュタイナーは、こうして小隊もろとも窮地に追いやられるのだ。善悪の問題ではない。貴族と平民の階級差が引き起こす埋めようのない隔壁だ。

 しかし、最後のシーンでは二人は共闘する。ソ連軍の圧力が厳しいためであることはもちろんだが、それ以上のメッセージをここに感じる。これは和解なのだ。二人を隔てた厚い壁は、人間の生存本能という共通項でくびり倒されたのだ。戦争という異常事態を背景にしているが、人間存在に対する希望の光が、ここには燦然と瞬いている。理解し合えない人間はいない。そういう明るいメッセージがここにはある。

 「戦争のはらわた」が、残酷な内容であるにもかかわらず、さわやかな後味を残すのは、二人のライバルを見つめる監督の視線が暖かいからだろう。

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