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映画評論

映画評論 PART4

モレク神 MOLOCH

制作;ロシア

  制作年度;1999年

  監督;アレクサンドル・ソクーロフ

 

(1)あらすじ

  1942年の南ドイツ。

  女主人エヴァ・ブラウン(エレーナ・ルファーノヴァ)が管理しているベルヒテスガーデンの山荘に、ヒトラー(レオニード・マズガヴォン)が一時休暇にやって来た。

  ヒトラーは、いつものように無邪気に気ままに振舞った。側近たちと時事評論や映画鑑賞やピクニックを楽しむ合間に、枢機卿と政治上の密談を行い、将軍たちと軍事作戦を立案したりする。親切になったかと思えば、いきなり冷淡になったりする。高尚な哲学をぶったかと思えば、いきなり猥談を始める。

  ヒトラーの愛人でもあるエヴァは、彼を愛すれば愛するほど、二人の心の距離が遠くなるような喪失感に打たれて深く苦しむのだった。

  ヒトラーもエヴァを愛しているが、それは普通の男性の愛情とはまったく異質のものだった。なぜなら、彼は孤高の独裁者なのだから。

  愛し合う奇妙な二人は、何事もなかったかのように別れ去って行く。

 

(2)解説

  天才ソクーロフ監督の至上の一本!

  「ラピュタ阿佐ヶ谷」単館での短期上映だったので、見に行く時間を確保するのに本当に苦労した。なんとか、平日の夕方の仕事の隙間を活用して、映画館に滑り込んだのであった。

  ヒトラーを描いた映画は、数限りなくあるのだが、これは別格である。なぜならこの映画は、ヒトラーの人生や思想を描くのでもなく、彼の生き様や仕事を論評するのでもなく、戦争を描くわけでも彼の最期の姿を描くわけでもない。彼の、わずか数日間の平和な私生活を切り取った映画だからである。

  この映画の素晴らしさについて語るとキリがないのだが、特に痛烈な印象を受けたのは「男女の愛とは何か?」という普遍的なテーマである。

  ヒトラーとエヴァ・ブラウンは、愛し合う男女である。しかし、どこか心が通わない。何かがいつも大きくすれ違っている。それが何故かは、最初から自明である。「男がヒトラーだから」である。世界の支配者であり恐怖の独裁者モレク神(=破壊の神)である男が、女性と平凡な恋愛をしていてはいけないからである。そしてエヴァは、そのことを良く知っていて必死に耐えようとしているけれども、だからこそ深く傷つき苦しむのである。ヒトラーは、そんなエヴァを理解するけれど、何もしてやれない。なぜなら、彼がヒトラーだからである。ヒトラーは、いつだってヒトラーでなければならないからである。

  これは私の持論なのだが、恋愛や友情というのは、実は「妄想」によって成り立っている。

  人間同士の親近感というものは、たとえば「同郷出身」とか「母校が同じ」とか「同じ会社」とか「趣味が一緒」とか、そういったことから生まれる。しかし、故郷が同じだろうが、同じ会社にいようが、しょせんは本質的に違う人間なのである。どうして「同じ」と思えるのだろうか?それこそが「妄想」の所産に他ならない。

  男女の恋愛は、「お互いに愛し合っている」という「妄想」がお互いの中にに宿っているから成立する。この「妄想」が破れたとき、失恋や離婚になるのである。友情だって同じである。だから、恋愛も友情も、しばしば簡単に壊れ去る。これをテーマにした物語や映画は、それこそ枚挙の暇もないほどにある。

  ところが、『モレク神』の素晴らしいところは、まったく新しい形の悲恋を描いたことだ。ヒトラーとエヴァは、互いに愛し合っており、当人同士もまったくそれを疑っていない。ここでは、「妄想」は少しも壊れていない。ところが、ヒトラーがヒトラーであるがゆえ、どうしても完全な愛に昇華できないのである。これは、どうしようもない。

  「妄想」は、壊れても修復できることがある。仲直りや再婚の可能性は、どんな失恋カップルにだって存在するだろう。しかし、ヒトラーがヒトラーを止めることは絶対にありえない。「妄想」の力でモレク神を否定することは絶対に出来ない。だから本当の愛は掴めない。

  ラストシーン近く。いつも気丈に笑顔で振舞うエヴァが、エレベーターの中で狂乱状態になって泣き崩れ暴れる。しかし、ヒトラーを見送るためにエレベーターを出た彼女は、いつものエヴァに戻っている。このシーンは、いつまでも忘れがたい印象を私の心に残した。

  「恋愛とはいったい何か?」。重大な答えがこの映画の中に眠っていると感じた。

  ところで、「ヒトラーが林の中で野糞している場面」を見られるのは、私の知る限りではこの映画だけである。ヒトラーマニアは必見(?)である(笑)。

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