歴史小説家 三浦伸昭の歴史ぱびりよん

世界史・日本史の隠れた巨人たちを鮮やかに蘇らせる!歴史小説家 三浦伸昭公式ホームページ

映画評論

映画評論 PART4

ダビンチコード The Davinci Code

制作; アメリカ

 制作年度; 2005年

 監督; ロン・ハワード

 

(1)あらすじ

  アメリカの高名な言語学者ラングドン教授(トム・ハンクス)は、パリでの講演直後、現地警察に参考人として拘置される。ルーブル美術館で起きた猟奇的な殺人事件に、彼が絡んでいる可能性があると言うのだ。殺害された ソニエール館長が、ラングドンの名を床に書き記していたという。

  状況証拠から 容疑者と思われて追い込まれたラングドンだったが、女性捜査官ソフィー(オドレイ・トトゥ)によって救出される。ソニエールの孫娘であった彼女は、祖父は過激な宗教結社オプス・デイによって殺害されたのだと語った。

  館長は、実はシオン修道会のリーダーで、人類史の根幹にかかわる重要な謎を握っていた。そして、その謎の封印を目論むオプス・デイによって、同志たちごと暗殺されたのだった。   ソフィーは、祖父が死んでも守ろうとした暗号の鍵を握っていた。彼女は、ラングドンに暗号解読の協力を依頼する。

  警察とオプス・デイの双方に追われる2人は、イギリス人好事家のティービング卿(イアン・マッケラン)の助けを借りてロンドンへと逃げる。そんな逃避行の中、彼らは館長が遺した暗号を解読し、世界史の謎に迫っていく。

  全ての謎が解けたとき、彼らは本当の敵の正体を知る。そして、ソフィーが本当は何者なのか、そしてルーブル美術館に眠る秘宝の謎を知るのだった。

 

(2)解説

  2006年度で、最も話題となった映画である。

  が、駄作であった。

  私は、最初にダン・ブラウンの原作小説を読んでから映画を観たのだが、小説は安っぽい冒険ファンタジーだったし、映画は三流だった。一緒に観た友人も、ボロクソに酷評していた。

  第一に、『ダビンチコード』というタイトルがダメである。なぜなら、物語の中心に座る暗号は、あくまでも殺害されたソニエール館長のものであり、ダビンチの暗号なんて話のツマにもなっていないのだ。だったら、タイトルはむしろ「館長コード」とすべきであろう(笑)。これはおそらく、『ダビンチコード』という題名のほうが売れる、という出版社の営業戦略だったのだろうけど。

  また、登場人物の描き方も下手である。敵方の暗殺者であるシラスの描写は良かったが、それ以外の人物はほとんどまったく描けていない。私は、主人公のラングドンとヒロインのソフィーがどういう人間なのか、最後までまったく掴めなかった(頭が良いことだけは分かった)。

  ラングドンとソフィーは、独身でフリーの美男美女である。それが、ずっと一緒に生活していてロマンスが芽生えなかったのはどうしてだろう?冒険をする2人の男女が恋愛するのは、『ロマンシングストーン』でも『インディジョーンズ』でも『ハムラプトラ』でもお約束の定石である。『ダビンチコード』だけが、あえてその定石を外した意味が分からない。ただ単に、ダン・ブラウンという作家が下手糞だっただけなのだろうか?

  もっと言えば、物語世界そのものが無理やりである。

  シオン修道会(この組織自体は架空である)は世界史の中で連綿と続く秘密結社という設定でありながら、たった一人の暗殺者(シラス)によって、ほんの数日で壊滅させられた。彼らが守ろうとした最後の暗号だって、修道会長のたった一人の孫娘が頑張らなければ、あっという間に失われていただろう。

  だが、世界史に冠たる秘密結社が、そんなに脆弱であるはずがないのである。たとえば、国連などの国際的な機関の中に強力な勢力を保持していないはずがない。たった一人の暗殺者によって、一瞬で滅びるようなことは 絶対に有り得ない。

  また、物語の中心テーマである「キリストの謎」も、まったく目新しいものではなかった。私は、マグダラのマリアの正体についても、ダビンチの『最後の晩餐』の解釈についても、何年も前から別の書籍で知っていた。だから、物語が結論に至ったときも、「なんだ!結局、あの話をしたかっただけなのか!」と拍子抜けしたものである。あの話って、もはや定説じゃなかったのか? そっちのほうが驚きである。

  それでも、ロン・ハワード監督の映画版は、原作小説よりマシだったと思う。少なくとも、ラングドンとソフィーの感情表現がきちんと描かれていただけマシであった。だけど、世間の評価はこれと逆で 、「原作のほうが面白かった」が多数意見らしい。ううむ、訳が分からない。

  でも、まあ、物語の随所に出てくる「暗号」は楽しかった。そのお陰で、退屈しないで最後まで読む(観る)ことは出来た。 その点では、日本映画の駄作よりは随分とマシである。私は、最近の日本映画を観ると、それがレンタルDVDであっても「カネと時間を返せ!」と叫びたくなるのだ。そういう意味では、『ダビンチコード』は「カネ返せ」と私に思わせなかった分、傑作である。

  しかし、 この作品があれほど国際的に話題になったのは、要するに「広告宣伝」の威力である。ふんだんにカネをかければ、多数の顧客を動員することが出来るのだ。しかし、それに見合うだけの興行収入があったかといえば、かなり微妙らしい。

  宣伝と興収の関係は、本当に難しいと思う。

  プロデューサーの卓抜な宣伝によって、無名の素晴らしい才能や作品が全世界に紹介されるケースだってある。「宮崎アニメ」や「ガンダム」だって、徳間書店やバンダイのプロデュースがあれほど優秀でなければ、メジャーには成りえなかったかもしれないのだ。私は、無名時代の宮崎駿作品の低い扱われ方を知っているので、特にそう感じる。

  逆に、駄作が無理やりにスターダムにされることも有りうるのだが、『ダビンチコード』はまさに後者のケースだったのだと思う。

  我々は、そういうのに騙されない程度には賢くなるべきなのかもしれない。

ページ上部へ