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映画評論

映画評論 PART7

戦国自衛隊

制作;日本

制作年度;1979年

監督;斉藤光正

 

(1)あらすじ

 新潟県で演習中だった自衛隊一個小隊は、時空のはざまに取り込まれて戦国時代にタイムスリップしてしまった。

  伊庭三尉(千葉真一)ら21名の隊員たちは、思わぬ事態に戸惑いつつも、長尾景虎(夏木勲)と出会って意気投合したことから、彼とともに戦国時代の覇者になる野望を抱くようになる。

  武田信玄(田中浩)との「川中島の戦い」に勝利した自衛隊だったが、激戦の中、隊員たちの多くや、ヘリや戦車といった兵器のほとんどを失ってしまう。

  そんな彼らを京で出迎えたのは、長尾景虎とその背後にいる貴族たちの冷酷な打算であった。

 

(2)解説

 いよいよ、悪名高き(?)角川映画の登場だ。

  角川書店を率いる角川春樹の、膨大な製作費とメディアミックスの広告宣伝を重視するアメリカナイズされた姿勢については、この当時からいろいろな物議を醸して来た。

  もっとも、これは時代性の問題だとも言える。このころの映画制作環境は、黒澤明や野村芳太郎といった「名監督」の職人芸の時代が黄昏を迎えつつあり、それに取って代わった敏腕プロデューサーによる「売り方」重視の時代であった。だから、角川春樹の行動は時代の流れに忠実に即していただけだと言えなくもない。同時期に大ブームとなった『宇宙戦艦ヤマト』シリーズの西崎義展も、まさにこの仲間である。

 膨大な製作費はともかく、メディアミックスという点では、いわゆる角川映画は、テレビ局が主体となった今日の映画制作環境の原型と言える。しかし、異なる点も多い。それは、角川映画の中には、今日の単なる「金儲け第一主義」とは一線を画したテーマ性と、一定の知性が宿っていたことである。

 『戦国自衛隊』の原作は、半村良の中編SF小説である。これは、もともとは「自衛隊と戦国武将が戦ったら、いったいどちらが強いだろう?」という小学生レベルの子供じみた問題提起から生まれた作品だったらしい。確かに、自衛隊はアメリカ製の最新鋭兵器を装備してはいるのだが、実戦経験が無いし、そもそも自衛以外の戦闘行為を認められていない中途半端な武力主体である。「もしかすると、武田信玄や上杉謙信の方が強いのではないか?」と思われても仕方ない存在であるから、そこにユニークな興味が生まれるわけだ。

 ただし、原作小説は、そこにタイムパラドックスの問題を巧みに織り込んだ知的なSFに仕上がっていた。 角川春樹プロデューサーは、この名編を映画化するに当たって、「青春映画を作る」という基本方針を抱いたらしい。だからこそ、監督に青春映画が得意だった斉藤光正を抜擢したのだし、劇中の音楽にも、当時流行していたフォークソングの要素を大量に持ち込んだのである。

  現代の若者感覚からすると、「なんで青春映画なのに自衛隊でタイムスリップだ?」と思うかもしれない。しかし、70年代の若者にとって、青春とは「挫折」を意味する熟語なのだった。時代の流れに翻弄され、精一杯頑張った結果、惨めに裏切られて殺害されていくこの映画の自衛官たちの姿は、「全共闘」の夢に破れた若者たちの姿に奇妙にシンクロしている。 わずか21名の兵員で、しかも 自前の近代兵器に補給も付かないくせに「天下を取る」と公言する伊庭三尉は、はっきり言ってアホウに見える。しかし、その姿を連合赤軍などに重ね合わせ、「よど号ハイジャック」や「あさま山荘事件」のことを想起するなら、それなりに共感できる部分も出て来る。70年代の青春というのは、基本的にそういうものであった。当時『あしたのジョー』が流行したのも、そういうことである。現代の若者の感覚とは、まったく異なるのである。

  この映画のクライマックスは、莫大な予算を投じた「川中島の戦い」である。人海戦術で攻めて来る武田軍を相手に、少人数の自衛隊が近代火器で奮闘するのが見せ場である。千葉真一や真田広之(武田勝頼役)のスタントを使わない見事なアクションを筆頭に、JAC(ジャパン・アクション・クラブ)の面々が大活躍する。薬師丸ひろ子扮する少年兵が、竜雷太と刺し違える有名なシーン。真田昌幸に扮した角川春樹が、機関銃で撃たれて悶死するシーン(演じたご本人は楽しかっただろうな(笑))など、豪華な見せ場がてんこ盛りなので、「実際の戦国武将は、自殺的な人海戦術なんか使わなかっただろう」という正しい突っ込みを入れることも忘れてしまう。

 人海戦術といえば、当時の日本人が想像する「最も恐ろしい戦場の敵」が、この戦術を得意とする中国軍(朝鮮戦争)や北ベトナム軍(ベトナム戦争)であった事実が窺い知れて興味深い。もっとも、実際の中共軍やべトコンは、地形を巧みに利用したり、あるいは夜間のみ行動するなど、もっと合理的で賢い戦い方をしていたはずなので、「白昼堂々、撃たれても撃たれても平野の中を無表情に進み続ける雲霞のごとき武田軍」みたいなのは実際の戦場には存在しなかったことだろう。もちろん、歴史上の武田信玄も、こんなアホウな戦い方はしなかったことだろう。しかし、ここにも70年代の日本人の時代性のメンタリティが忠実に反映されているようで興味深いのだ。

  『戦国自衛隊』は、確かに変てこな映画である。しかしながら、70年代日本人の心象風景の断面をヴィヴィットに切り取った幻想風刺映画だと考えた場合、なかなか深い感慨にふけることが出来るのも確かだ。

 なお、『戦国自衛隊』にはいくつもの続編があるらしい。テレビでやっているのをチラっと見たが、駄作オーラが漲っていたのですぐにチャンネルを変えてしまった。実際に映画館に続編映画を見に行った人に感想を聞いたところ、「詰まらなかった」と口々に言う。やっぱりね。 ウィキペディアなどをチェックしたところ、続編群は、タイムスリップやタイムパラドックスについての科学的考察をストーリーの中心にしているとか。それが本当だとしたら、 ・・・バカじゃないの?

  タイムスリップやらタイムトラベルやらは、物理的に「有り得ない」。すなわち、科学的に「有り得ない」。そんなものを、ウンチクすることに何の意味が有るのだろう?何が面白いというのだろう? 『ゴジラ』の項で書いたことだが、科学的に有り得ない概念を、大人の鑑賞に堪えるようにするには、そこに高度に知的な諧謔や風刺の要素が入っていることが必須である。それなのに、物語の中に諧謔や風刺を入れずして、しかも科学面の説得力不足を無理に説明して補おうとするのは、物語の作り方として完全に本末転倒なのである。

 要するに、最近の物語の作り手は、確実に頭が悪くなっているのである。

  悪名高きかつての角川映画は、時代性を映す鏡になるに足るだけの深い知性と諧謔精神を抱いていた。だからこそ、平成の映画やドラマに比べると、数段マシだったと断言せざるを得ない。

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